冬の一陽

聿竹年萬

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少年期 大学入学編

(6)出立の日

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 空はどこまでも青々と天高く、風の冷たさもすっかり和らぐ晴天だった。まだところどころ雪解け水でぬかるむが木々には少しずつ色が戻ってきている。村民のほとんどは日常の生活に戻りつつあった。春の到来を確かに感じられた。
 村の入り口には馬車が一台用意されており、繋がれた馬も出発に逸るように見えた。
 ドロシーとフィンは早朝から荷物の積み込みにかかっていた。ドロシーの指示の元作成した標本や帳面を順序を揃えて積んでいく。馬の餌に自分たちの食事、それとフィンの私物を目一杯。村長から狩猟用の短剣と槍と弓と矢とを貰った。これも積んだ。
 フィンはドロシーの弟子兼傍仕えとして大学に居を移すことになる。ドロシーの計らいにより先払いされた向こう一年分のフィンの俸給は小切手で支払われ、 村長がフィンよりこれを借りる形になった。すぐに村の若者三人が馬を走らせ、一週間もすると貨物を満載した馬車が三台も帰ってきた。道中、賊に出くわしたが用心棒のお陰で難を逃れたという。
 彼らの旅支度を手伝ってくれたのは村長夫妻とフィンの母の三人きりだった。荷台での作業を終え、馬車から降りると村長がフィンに寄ってきた。
「フィンよう。お前さんは毎日毎日よくワシのとこに通って勉強したもんで大層なことじゃった」
 感心するような、しみじみと感じ入るような調子だった。村長は自分の白髭を撫でながら続ける。
「できるなら行かせてやりたいと思っていた大学にこうして行けることになったのも巡りあわせというものだろう。単純な進学でない分大変なことも多いだろうし果たさねばならぬ働きも多いだろう。が、よく学び、よく見識を広めてきなさい」
 彼の言葉はフィンの背筋をしゃんとさせた。彼の訓戒はいつだって足元を照らす灯りのようであった。
「しかし、まあ。説教臭くて我ながら嫌になるなあ。なんにせよ、フィンなら大丈夫だろうさな」
 肩をバンバンと乱暴に叩いてくる。村長のその手の大きさが、不思議とありがたかった。
 ドロシーと村長夫人、フィンの母も別れを惜しんでいるらしかった。
「よかったらこれ、道中で食べて」
 夫人はそう言って一抱えもある籠をドロシーに持たせた。ドロシーの顔の半分が籠で隠れてしまう。フィンはすぐにそれを預かって御者台の方に持ち上げた。村長が、「今朝焼いたパンと金柑のジャムだよ。好きだろう。お前さん」とフィンにこっそり教えてくれる。
「私からはこれを。よかったら持って行って。荷物になるようならあれなのだけど、まだ夜風は冷たい日もあるから」
 母がドロシーに一枚の膝掛けを渡した。リネンで出来た濃い藍のストールのようだった。フィンは冬の間、母があれを織っていたのを知っていた。
「ありがとうございます。このような過分な持て成しをいただき、本当に申し訳ないです」
 ドロシーはそれを受け取ると深々とお辞儀をした。少し緊張しているように見えた。
「いいのよ、もう。ああ、心配だわ。うちのがドロシー様の迷惑になるようでしたら尻でも蹴って言いつけてやってくださいね。何を考えているかわかりにくい子ですけれど、病気にだけは頑丈なはずだから。ああそれと、――」
 母はドロシーの肩を撫でながら言う。まるで子供の身を案じるように何度も撫でていた。フィンはそれを荷台で耳にしながら、決してドロシーの迷惑にだけはならないようにしようと、覚悟した。
 チラリとドロシーがフィンの方を見た。視線が重なる。少しだけ、気のせいでなければドロシーは不安げな様子に見えた。勘違いでも構わないと思い、
「先生、荷物の保定は終えていますのでいつでも出発できます」
 と報告の態で声をかけた。彼女の緊張が俄かに解れたように見えた。
 では、とドロシーが再度お辞儀をすると、村長夫人が曲がった腰をさらに丸めて頭を下げた。
「ドロシー様、本当にこの度はありがとうございました。貴女の行いに依ってこの村は救われました。村長に代わって私から御礼申し上げます」
 ドロシーが目を丸くしたのがわかった。フィンは小声で、隣にいる村長に「目の前に本人いるのに代わって、でいいんですか」とからかう調子で言った。「お前が手伝いのためじゃなくてドロシー先生に会いたいばっかりにワシの家に通っていたって本人に言ってやろうか」と返された。フィンは大人しくなった。
「いいえ、そんな風に言われるようなことは私は何も。私は相応の価格で薬を調合して、それをフィンが購入しただけです。決して私に恩義を感じることはありません。その感謝は是非フィンに」
 ドロシーが微笑んで伝えると、夫人はフィンの方へ向き直って「そうね。本当にありがとう。フィン」と夫人は感謝を述べた。
 ドロシーの評価と夫人の言葉に照れ臭くなりつつ、また一方で少し気になることもあった。ドロシーはこの滞在中、誰から感謝を寄せられても、自分の行いへの賞賛を全て否定していたのだ。その知識を褒められれば、大学が与えてくれた知啓であるから先達たちに感謝をと。よく調剤してくれたと言えば相応の対価を支払ったからだと。お陰で越冬できたと頭を下げれば、それはフィンの財産による救済だと。
 謙虚だ、というものとは全く別にひたすらに頑なであった。全てのことは、ドロシーがこの村に訪れなければ土台立ち行かない、ということは本人もわかっているだろうにその態度を軟化させることはついになかった。
 フィンの家族の見送りは母のみだった。父と一つ上の兄はもう森へと仕事に入っていた。存外さっぱりしたものだ、としみじみと思った。一昨年、向かいの家のクロエ姉さんが嫁いでいった日はもっと大々的に見送られていたのであるが。
――そんなもの、改めて考えるまでもない。自分がこの村にとってどんな存在であったか。嫁ぐわけでもなければ死出の旅という訳でもないのだから、誘う涙があるわけでもなし。むしろ、村長夫妻が――ドロシーを見送ることがその主意であることを差し引いたとしても――こうして時間を割いて見送ってくれることがフィンにはなによりもありがたかった。
 フィンは村長夫妻と母と、三人だけが見守る中、のそのそと御者台に上がった。上から手を差し出して、ドロシーの手を握り、上る補助をする。彼女が自分に体重を預けてくれることがありがたかった。
「ありがとうございます、フィン」
 彼女の謝辞だけで、気が晴れるようだった。
「くれぐれもドロシーさんに迷惑をかけないようにね」
 母は不安そうに、心配そうにこちらを見上げていた。フィンは努めて笑顔で肯いてみせた。
 ドロシーが手綱を打つと馬車がゆるゆると滑り出す。車輪が泥を踏む音が足元に聞こえる。荷台がギシギシと音を立てる。三人の声が徐々に遠くになっていく。しばらくすると村は地平線の下に消えていった。
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