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少年期 大学入学編
(7)金柑のジャム
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「フィンの村は王国の領内、北東はギヤマン地方、フヨウ大森林を東にした位置にあります。フヨウ大森林は南北に広大ですね。森の西方、この街道の南には広く沼野(しょうや)が広がっています。そのため、我々は一度西に真っ直ぐ進み、オウス街道を目指します」
ドロシーは初めて外の世界を見る少年に、世界の名前を授けていく。知らない言葉を覚える度に世界の内を観る目が変わるのだ、ということを、その楽しみを少年に知って欲しかったのだ。かつて自分が味わい、今もなお求める知る喜びを授けようと心を尽くしていた。
師の説明を聞きながら少年も頭の中に地図を思い描く。村長の家で何度も地図を広げては頭の中で何度も大冒険を繰り返していたのを思い出していた。想像の中だけならば彼は何度も王都に出入りをしていた。
ところでフィンは実に奇妙なことをしていた。御者台に足をかけ起立している。不安定な足場に車輪が跳ねる度にふらふらとしていたが、固い木製の座面に腰を下ろそうとはしなかった。
「……フィン」
「……不安定な足場でもバランスを保つ練習……にならないでしょうか」
「ならないでしょうね。わかっていて聞いていますよね?」
慣れぬ馬車の旅にフィンの尻は痛みの限度を迎えていた。地面の感触を直に伝える馬車の座面は容赦なくフィンの尻を虐めに虐めた。舌も何度か噛みそうになっていた。
「ほら、これを敷いて使ってください」
ドロシーは荷台に手を伸ばすと濃紺のローブを引き摺り出した。防寒用に中綿の入った柔らかで厚みのあるローブである。彼女はそれを畳むと御者台の座面に置いて、その上をぽんぽんと叩いて示した。
「先生のローブに、腰掛けるなんて僕には……」
小さな錬金術師の提案は少年を酷くどぎまぎさせた。師の外套を尻に、というよりはひとかたならぬ気持ちを持つ異性の衣服を、ということがフィンから平静を奪っていた。
「あのね、フィン。私は貴方がいつ転倒してしまうかと不安で仕方ないのです。私を安心させてくれませんか?」
フィンが彼女の方を見ると視線がぶつかった。その位置関係のために、ドロシーはフィンを見上げる形になっていた。上目使いで、困ったように微笑んで、「ね?」と言われた。フィンはゆっくりと腰を下ろした。その敷物はいたく柔らかく、心身に幸福感が得られた。
やがて昼を回ると小腹も空きはじめ、フィンは荷台の籠を引き寄せた。中にはすっかり冷めてしまっていたがバケットが二本、ビン詰めの金柑のジャムがあった。フィンがビンの蓋を捻ると、とポンと音を立てて開けた。金柑の芳香が漏れ出てくる。毎年冬になると、「保存にいいから」と村長夫人が作ってはフィンに分けていた馴染のジャムだった。いつもと違う場所、景色に馴染の香りがある、という状況がなにとはなしにフィンはくすぐったく感じた。今一度深くその香りをフィンは楽しんだ。
「金柑ですか? とても美味しそうな香りがしますね」
「ええ、村長宅の庭の金柑の木から取った実で作っているんですよ。毎年鈴なりになるんです。そういえばジャムってなんでビンを茹でるんですかね。その方が持ちがいいとは聞きますが」
「そうですね……それはジャムを長期間保存するに辺り、ビンから除菌をしなくてはならないからなのですが」
ドロシーの講義は心地よい。その内容も声音も全てが心地よかった。次から次へと新しい情報が、その小さな体から止まることなく引き出す小さな師への尊敬をフィンは一層深めていた。
フィンはバケットをナイフでスライスしてはジャムを塗り、これをドロシーに渡してはまた輪切りにしては塗り、これを食べ、と繰り返していた。手綱から片手しか離せないドロシーの分もジャムを塗るくらい訳のないこと、と得意になってやっていた。
一度だけ、ドロシーが両手で手綱を握っていた拍子にその口元に差し出したところ、特に何でもないような風に咥えると、そのままするすると食べてしまったのでフィンはまたドギマギした。流石にこの時ばかりはドロシーもばつが悪かったのか、「つい食べてしまいましたが……行儀の悪いことをしました」と反省の弁を述べていた。
「このジャムは美味しいですね。とても甘くて、酸味が心地よいです。
朗らかに微笑むドロシーにフィンも相好を崩しそうになった。フィンはこれに必死で堪えて、ぎこちない表情になる。どうにもこの少年は小さき師に頼られたいと思い、しかも頼られる人間とはへらへらと笑わないものと理解しているらしかった。
そのため、傍目に見て少年は固い顔をするやら難しい顔するやら、息を止めるやら、実に珍妙な表情をしながらパンにジャムを塗り着けていた。余談ではあるが、ドロシーのパンには多目にジャムを塗るという精一杯の尊敬と感謝を示していたのだが、それは全く気付いてもらえていなかったということを、もうしばらく後に知ることになる。
ドロシーは初めて外の世界を見る少年に、世界の名前を授けていく。知らない言葉を覚える度に世界の内を観る目が変わるのだ、ということを、その楽しみを少年に知って欲しかったのだ。かつて自分が味わい、今もなお求める知る喜びを授けようと心を尽くしていた。
師の説明を聞きながら少年も頭の中に地図を思い描く。村長の家で何度も地図を広げては頭の中で何度も大冒険を繰り返していたのを思い出していた。想像の中だけならば彼は何度も王都に出入りをしていた。
ところでフィンは実に奇妙なことをしていた。御者台に足をかけ起立している。不安定な足場に車輪が跳ねる度にふらふらとしていたが、固い木製の座面に腰を下ろそうとはしなかった。
「……フィン」
「……不安定な足場でもバランスを保つ練習……にならないでしょうか」
「ならないでしょうね。わかっていて聞いていますよね?」
慣れぬ馬車の旅にフィンの尻は痛みの限度を迎えていた。地面の感触を直に伝える馬車の座面は容赦なくフィンの尻を虐めに虐めた。舌も何度か噛みそうになっていた。
「ほら、これを敷いて使ってください」
ドロシーは荷台に手を伸ばすと濃紺のローブを引き摺り出した。防寒用に中綿の入った柔らかで厚みのあるローブである。彼女はそれを畳むと御者台の座面に置いて、その上をぽんぽんと叩いて示した。
「先生のローブに、腰掛けるなんて僕には……」
小さな錬金術師の提案は少年を酷くどぎまぎさせた。師の外套を尻に、というよりはひとかたならぬ気持ちを持つ異性の衣服を、ということがフィンから平静を奪っていた。
「あのね、フィン。私は貴方がいつ転倒してしまうかと不安で仕方ないのです。私を安心させてくれませんか?」
フィンが彼女の方を見ると視線がぶつかった。その位置関係のために、ドロシーはフィンを見上げる形になっていた。上目使いで、困ったように微笑んで、「ね?」と言われた。フィンはゆっくりと腰を下ろした。その敷物はいたく柔らかく、心身に幸福感が得られた。
やがて昼を回ると小腹も空きはじめ、フィンは荷台の籠を引き寄せた。中にはすっかり冷めてしまっていたがバケットが二本、ビン詰めの金柑のジャムがあった。フィンがビンの蓋を捻ると、とポンと音を立てて開けた。金柑の芳香が漏れ出てくる。毎年冬になると、「保存にいいから」と村長夫人が作ってはフィンに分けていた馴染のジャムだった。いつもと違う場所、景色に馴染の香りがある、という状況がなにとはなしにフィンはくすぐったく感じた。今一度深くその香りをフィンは楽しんだ。
「金柑ですか? とても美味しそうな香りがしますね」
「ええ、村長宅の庭の金柑の木から取った実で作っているんですよ。毎年鈴なりになるんです。そういえばジャムってなんでビンを茹でるんですかね。その方が持ちがいいとは聞きますが」
「そうですね……それはジャムを長期間保存するに辺り、ビンから除菌をしなくてはならないからなのですが」
ドロシーの講義は心地よい。その内容も声音も全てが心地よかった。次から次へと新しい情報が、その小さな体から止まることなく引き出す小さな師への尊敬をフィンは一層深めていた。
フィンはバケットをナイフでスライスしてはジャムを塗り、これをドロシーに渡してはまた輪切りにしては塗り、これを食べ、と繰り返していた。手綱から片手しか離せないドロシーの分もジャムを塗るくらい訳のないこと、と得意になってやっていた。
一度だけ、ドロシーが両手で手綱を握っていた拍子にその口元に差し出したところ、特に何でもないような風に咥えると、そのままするすると食べてしまったのでフィンはまたドギマギした。流石にこの時ばかりはドロシーもばつが悪かったのか、「つい食べてしまいましたが……行儀の悪いことをしました」と反省の弁を述べていた。
「このジャムは美味しいですね。とても甘くて、酸味が心地よいです。
朗らかに微笑むドロシーにフィンも相好を崩しそうになった。フィンはこれに必死で堪えて、ぎこちない表情になる。どうにもこの少年は小さき師に頼られたいと思い、しかも頼られる人間とはへらへらと笑わないものと理解しているらしかった。
そのため、傍目に見て少年は固い顔をするやら難しい顔するやら、息を止めるやら、実に珍妙な表情をしながらパンにジャムを塗り着けていた。余談ではあるが、ドロシーのパンには多目にジャムを塗るという精一杯の尊敬と感謝を示していたのだが、それは全く気付いてもらえていなかったということを、もうしばらく後に知ることになる。
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