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結び
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それは、急な出張で故郷に立ち寄ったときのことだった。
「すみません。突然お邪魔しちゃって」
「いいのよ。松並君なら、いつ来たって構わないわ」
そう言いながら嶋森さんは、僕の前に麦茶を出してくれる。お礼を言ってから、冷たいそれを一口すすった。
嶋森さんは、高校時代の友人の母親だ。僕は突然地元に帰ることになったので、彼の家に寄って行こうと思い立ったのだ。しかし、目当ての彼はおらず、僕はなんの連絡もなしにこの家に上がり込むことになってしまった。
彼──嶋森彰と最後に会ったのは、七年前の成人式の日だ。大勢が集まるあの式でよく会えたなと、今更ながら思う。その日、初めて二人でお酒を飲みに行って、またどこかで会う約束をしたのに、僕の県外転勤が決まってしまい、そのまま疎遠になっていった。
少し気になるのが、彼の母親──嶋森さんが、ひどくやつれていることだ。七年前に会ったときは、僕等の母親世代であるにも関わらず、若くて美人という印象だったが、今はちがう。その日の面影は一切なく、失礼だが、皺も増えている。
「松並君」
名前を呼ばれて我に返った。
「彰は今出かけてるから、ちょっと待っててくれる? よく家には来てたし、部屋の場所はわかるわよね?」
「わかりました。ありがとうございます」
空になったコップを手渡して、僕はこの部屋をあとにした。
高校時代、仲がよく家も近かった僕等はよく遊んでいた。携帯という便利な道具や、オンラインというものが普及する前のことだったから、互いの家へ行っていた。
彼は所謂オタクというやつで、ゲームや漫画、小説なんかは家にほとんど揃っていた。気になる本が発売されると、発売日当日に買いに行くような奴だった。僕はその世界を完全に理解することはできなかったけど、彼のおかげで退屈することはなかった。
彼の部屋に入って驚いた。いつになく綺麗だったからだ。
彼の部屋はいつも汚い。汚すぎて、僕と二人で掃除をしたことがあるくらいだ。
──いや、違う。
勉強机の上に置かれている本を見て思った。それは、うっすら埃を被っている。綺麗なのは、おおざっぱな見た目だけだ。
これも、あいつとしては珍しい。あいつは、部屋は散らかすような奴だけど、物自体は大切にしている。
多少の違和感を覚えながら、僕はその本を手に取った。なにか変な物が挟まっていたら、後で謝ればいい。あいつとは、そんな間柄だ。
本をパラパラと捲る。いかにもあいつが読んでいそうな、少年漫画だった。
あるところまで読んで、僕はあることに気付いた。
鞄から携帯を取り出し、その漫画のタイトルを検索にかける。
「……やっぱりそうだ」
やっぱり、なにかがおかしい。なんでこんなに、発売日が前なんだろう?
僕は全くと言っていいほど、本を買わない。でも、僕はこの漫画を知っていた。昔、テレビかなにかで紹介されていたからだ。
一方あいつは、出版された本を次々に買っていたから、昔の本──二年以上前の本はほとんど捨てるか売ってしまう。
本棚に残っている、まだビニールが外されていない本を手に取る。
嶋森と彼の母親に、心の中で謝りながら、それを破った。
裏表紙を捲り、「あるもの」を確認する。
そこにあった日付は、五年前のものだった。
無言で本を閉じる。心臓が、早鐘のように鳴り始める。
あいつは、好みの漫画があれば、即確認するような奴だ。まさかそんな奴が、五年以上も本を買っていないと言うのか? それとも、単純に性格が変わっただけ?
胸騒ぎがした。あいつに、なにかあったのではないか、と。
「思い過ごしならいいんだけど……」
思わずそう呟いた。
彼は、二十分経っても帰ってこなかった。
さすがにこれ以上長居するのも失礼だと思い、帰ろうとしたところで、僕は真っ黒なノートに気付いた。
根拠はない。だけど、これがなにか重要なものである気がしていた。
「嶋森……。ごめん……!」
僕はついに、そのノートを開いた。
最初の記述は、高校での出来事だ。これは、日記なのだろう。
自分のことが書いてあるところを飛ばしながら、斜め読みする。一日につき数行しか書かれていない日記は、案外すぐに読むことができた。
ノートの四分の一あたりで、あいつの文字は途切れていた。ページを何枚か捲っても、白紙が続いた。最後の記述を確認すると、それは五年前のものだった。
まさか、あいつはここにいないのか? そんなはずはない。もしそうだとしても、連絡くらいはくれるはずだ。
僕は冷や汗を拭い、ノートの最後のページを捲った。
「なんだ……これ……」
そこには、新聞のスクラップが挟んであった。やはり、五年前の記事だ。日付も載っている。恐る恐る、それを読んでみた。
──飲酒運転事故 大学生一人が意識不明
かなりショッキングな内容だった。
概要はこうだ。五年前の十二月、午後十時。近くの居酒屋から出てきた車に、男子大学生がはねられ、意識不明の重体。彼を轢いた車の運転手は、飲酒をしていたという。
そこに、被害者の名前は載っていなかった。けど、こんな記事が切り取ってあるということの意味は、容易に想像できる。
ノックと同時に、嶋森さんが部屋に入ってきた。
「ごめんなさいね。彰、まだ時間がかかるって……──」
言葉を紡ぐうちに、蒼白になっていく顔。嶋森さんは、僕がなにを読んでいるのかに、気付いてしまったのだ。
なんの心の準備もしていなかった僕は焦った。まさか、このタイミングで……。
そして、彼女が一番聞きたくない言葉を言ってしまった。
「あの、これって、嶋森──彰のことですよね?」
彼女はなにも言わず、膝から崩れ落ちた。
「あ、あの──」
「ごめんなさい……」
無計画に話しかけた僕を遮って彼女は言う。
「こんなこと、絶対にあるわけないのにね……。あなたと一緒に、あの子が帰ってくるなんて、そんなはず、ないものね……」
その言葉は、僕に、というよりかは、自分に向けたものだった。
じゃあ、これは、本当のことだったんだ。
「どうして、教えてくれなかったんですか……?」
嶋森さんは両手で顔を覆ったまま、黙っている。
「あなたは、僕等がどんな関係だったか知ってましたよね!? あいつの携帯から、僕の連絡先だってわかったはずなのに、どうして……!」
彼女は微動だにしなかった。
疑いもしなかった。彼が、こんなことになっているなんて。毎年、年賀状なんかは来てたのに。
怒っていいのか、泣いていいのかさえわからなかった。
「……すみません。帰ります」
これ以上、ここにいたくない。やり場のない感情をここでぶつけるわけにもいかない。そう思って、部屋を出ようとした。
「待って!」
間髪入れずに、嶋森さんが叫ぶ。そしてそのまま、どこかに行ってしまった。
行き場のなさに居心地の悪さを感じたが、嶋森さんは案外早く帰ってきた。
「これ、あなたが持っていて」
泣きはらした、真っ赤な目を向けて、彼女は真剣に言った。
その右手にあったのは、一枚の茶封筒。松並悠祐──僕の名前が書いてあった。
それからのことは、思い出そうとしても、うまく思い出せない。彼の家を出て、自分がどの道を通って実家に帰ったらのかすら曖昧だ。
はっきりと記憶に残っているのは、涙に歪んだ、彼の母親と家だけだった。
* * *
その後数週間にわたって、僕が彼の封筒を目にすることはなかった。
忘れていたわけじゃない。仕事が立て込んで忙しかったからだと、自分に言い聞かせるけど、それで自分を納得させることはできなかった。言い訳にもならない。
まとまった休みがあっても、それを手にすることができないことが、その最たる証拠だ。
ようやく重い腰を上げたのは、あれから二ヶ月が過ぎた頃だった。
秋雨前線の影響で、この頃雨が降らない日はない。なんとなく鬱々とした気持ちで、なにをする気にもなれなかった。
そこでふと思ったのだ。僕がいつまでも向かい合えない「あいつ」に、今、向き合うんだと。
机の上に置きっぱなしだった茶封筒を手に取る。糊で丁寧に貼り付けてあるのを破いた。
中から、二枚の手紙が出てくる。決して綺麗とは言えないが、大きくて見やすい彼の字だった。
──拝啓 松並悠祐様
不恰好なまでに形式ばっていたのは、たったその一行だけだった。
──二週間前、親父が亡くなった。
そんな文から始まった文章は、恐らく六年前に書いたものだろう。この頃にはもう大分疎遠になっていたが、彼の父親が不慮の事故で亡くなったという話は、風の便りで聞いていた。
どうやら、突然身近な人が亡くなって、彼は不安になったらしい。もし自分もそうなったら。そう思い、この手紙を書いたそうだ。
特別仲がよかった僕にはなにかを残したい。そんな感情が、手紙からひしひしと伝わってくる。
彼の記憶力のよさに、心底驚いた。ある日僕が言った、小さな愚痴。そんなことを、彼は何年もの間、覚えていたのだ。確か、高校の先生が僕等生徒に理不尽な課題を出してきたときのことだった。それを言った僕ですら忘れているようなことを、彼は覚えている。
彼は特になにもなければ、この手紙は捨ててしまうつもりだったと言う。万が一、なんてこと、絶対にあるはずがないとまで書いている。
まさか、僕がそれを手にしているなんて、思ってもみなかっただろう。
自分が泣いていることさえ気付かずに、手紙を読み終えた。
不思議な感じがした。彼がまだ、そこにいるような錯覚。
僕は思わず、彼の携帯に電話をかけていた。
無機質な機械音が耳もとで鳴る。四コール目にさしかかったとき、誰かが応答した。
『はい。嶋森です』
女の人の声。彼の母親だ。
「……手紙、読みました。今更ですが」
『……そう』
この前みたいに取り乱すことはなかった。僕も、彼女も。
『ごめんなさい』
嶋森さんの謝罪から始まった。
『意図して隠していたわけじゃないの。夫と彰がほぼ同時にあんなことになって、気が動転してた。あなたのことを気にする余裕がなかったのよ』
「…………」
なんと返していいかわからなかった。
『心の整理がつくまで五年もかかってしまった……。あなたには、感謝しなきゃね』
「僕は、なにもしていませんよ」
返事は返ってこない。電話越しだから、相手がどんな表情をしているのかもわからない。
「僕こそ……、あなたの気持ちを考えずに取り乱して、すみませんでした」
向こう側から、笑い声が聞こえてきた。
『ふふふ。おあいこね、私達』
嶋森さんは、この間の出来事をそこまで深く捉えていなかったらしい。七年前の、第一印象の彼女が見え隠れする。
「あの、彰はその後どうなったんですか?」
僕が見た新聞記事は、事故の翌日のものだ。インターネットで調べてみても、その先彼がどうなったかは書かれていなかった。
沈黙の時間が続く。
あのとき嶋森さんは、彼が「死んだ」とは言わなかった。その意味がずっと引っかかっていたのだ。
嶋森さんがようやく口を開いた。
『あの子は、回復しなかったの』
その一言だけで、血の気が引いた。回復しなかった。つまり、それは……?
最悪の結果を想像してしまい、心臓が鳴り始めた。
『心臓が止まっていた時間が長くてね、脳にダメージが残ってしまったみたい。あの子は今、植物状態なの』
「植物状態……?」
思わず繰り返した。
「植物状態」という言葉が、どういうことを差しているかは知っている。事故から五年。彼はもう長くない。
『いつ、何が起きてもおかしくないそうよ』
嶋森さんは気丈だった。
『そのときが来たら、必ずあなたに伝えるから』
* * *
それからまた二週間が経過した。
仕事が休みで携帯で遊んでいた僕に、電話がかかってきた。
彼が危篤だそうだ。
急いで彼の病室へ行くと、そこには嶋森さんがいた。
「よかった。間に合って」
やけに落ち着いている。
僕は弾む息を整えて、彼のベッドの前に立った。
何本かのチューブが繋がれているが、人口呼吸器は付けられていない。自発呼吸は止まらなかったのだ。
だからこそ、家族にとっては残酷なのだろう。自発呼吸が止まらなかった場合、回復の余地が残されている。
呆然としている僕を横目に、嶋森さんが話し始めた。
「この間気付いたことなんだけど、この子ね、あなたの誕生日をサプライズで祝おうと思っていたみたい」
「…………」
彼は、そういったことにはずっと無関心だったはずだ。誕生日なんて、知っていたのかどうか怪しかったのに。
「バイトして、必死でお金貯めて、東京まで行ったみたいよ。これを買うために」
そう言って、彼女は鞄の中から小さいキーホルダーを取り出した。それは、僕が珍しくはまったゲームの限定商品だった。
「あの子が事故にあったのは、これを買いに行った帰り道。奇跡的に、壊れなかったみたい」
嶋森さんはキーホルダーを手の平の上で転がしていたが、すぐ僕を見て笑顔を作った。
「これ、あなたが持っていて」
「だけど……」
口答えしようとする僕を遮って、彼女は首を振った。
「いいの。これはあなたが持っていて」
そう言ってから、僕の手を取り、キーホルダーを渡した。
僕はそれを握りしめ、彼の顔を見る。
「こんなものより、君がいてくれた方が何倍もよかったんだよ……」
それから一時間後、彼は息を引き取った。
その顔は、笑っているようにも見えた。
「すみません。突然お邪魔しちゃって」
「いいのよ。松並君なら、いつ来たって構わないわ」
そう言いながら嶋森さんは、僕の前に麦茶を出してくれる。お礼を言ってから、冷たいそれを一口すすった。
嶋森さんは、高校時代の友人の母親だ。僕は突然地元に帰ることになったので、彼の家に寄って行こうと思い立ったのだ。しかし、目当ての彼はおらず、僕はなんの連絡もなしにこの家に上がり込むことになってしまった。
彼──嶋森彰と最後に会ったのは、七年前の成人式の日だ。大勢が集まるあの式でよく会えたなと、今更ながら思う。その日、初めて二人でお酒を飲みに行って、またどこかで会う約束をしたのに、僕の県外転勤が決まってしまい、そのまま疎遠になっていった。
少し気になるのが、彼の母親──嶋森さんが、ひどくやつれていることだ。七年前に会ったときは、僕等の母親世代であるにも関わらず、若くて美人という印象だったが、今はちがう。その日の面影は一切なく、失礼だが、皺も増えている。
「松並君」
名前を呼ばれて我に返った。
「彰は今出かけてるから、ちょっと待っててくれる? よく家には来てたし、部屋の場所はわかるわよね?」
「わかりました。ありがとうございます」
空になったコップを手渡して、僕はこの部屋をあとにした。
高校時代、仲がよく家も近かった僕等はよく遊んでいた。携帯という便利な道具や、オンラインというものが普及する前のことだったから、互いの家へ行っていた。
彼は所謂オタクというやつで、ゲームや漫画、小説なんかは家にほとんど揃っていた。気になる本が発売されると、発売日当日に買いに行くような奴だった。僕はその世界を完全に理解することはできなかったけど、彼のおかげで退屈することはなかった。
彼の部屋に入って驚いた。いつになく綺麗だったからだ。
彼の部屋はいつも汚い。汚すぎて、僕と二人で掃除をしたことがあるくらいだ。
──いや、違う。
勉強机の上に置かれている本を見て思った。それは、うっすら埃を被っている。綺麗なのは、おおざっぱな見た目だけだ。
これも、あいつとしては珍しい。あいつは、部屋は散らかすような奴だけど、物自体は大切にしている。
多少の違和感を覚えながら、僕はその本を手に取った。なにか変な物が挟まっていたら、後で謝ればいい。あいつとは、そんな間柄だ。
本をパラパラと捲る。いかにもあいつが読んでいそうな、少年漫画だった。
あるところまで読んで、僕はあることに気付いた。
鞄から携帯を取り出し、その漫画のタイトルを検索にかける。
「……やっぱりそうだ」
やっぱり、なにかがおかしい。なんでこんなに、発売日が前なんだろう?
僕は全くと言っていいほど、本を買わない。でも、僕はこの漫画を知っていた。昔、テレビかなにかで紹介されていたからだ。
一方あいつは、出版された本を次々に買っていたから、昔の本──二年以上前の本はほとんど捨てるか売ってしまう。
本棚に残っている、まだビニールが外されていない本を手に取る。
嶋森と彼の母親に、心の中で謝りながら、それを破った。
裏表紙を捲り、「あるもの」を確認する。
そこにあった日付は、五年前のものだった。
無言で本を閉じる。心臓が、早鐘のように鳴り始める。
あいつは、好みの漫画があれば、即確認するような奴だ。まさかそんな奴が、五年以上も本を買っていないと言うのか? それとも、単純に性格が変わっただけ?
胸騒ぎがした。あいつに、なにかあったのではないか、と。
「思い過ごしならいいんだけど……」
思わずそう呟いた。
彼は、二十分経っても帰ってこなかった。
さすがにこれ以上長居するのも失礼だと思い、帰ろうとしたところで、僕は真っ黒なノートに気付いた。
根拠はない。だけど、これがなにか重要なものである気がしていた。
「嶋森……。ごめん……!」
僕はついに、そのノートを開いた。
最初の記述は、高校での出来事だ。これは、日記なのだろう。
自分のことが書いてあるところを飛ばしながら、斜め読みする。一日につき数行しか書かれていない日記は、案外すぐに読むことができた。
ノートの四分の一あたりで、あいつの文字は途切れていた。ページを何枚か捲っても、白紙が続いた。最後の記述を確認すると、それは五年前のものだった。
まさか、あいつはここにいないのか? そんなはずはない。もしそうだとしても、連絡くらいはくれるはずだ。
僕は冷や汗を拭い、ノートの最後のページを捲った。
「なんだ……これ……」
そこには、新聞のスクラップが挟んであった。やはり、五年前の記事だ。日付も載っている。恐る恐る、それを読んでみた。
──飲酒運転事故 大学生一人が意識不明
かなりショッキングな内容だった。
概要はこうだ。五年前の十二月、午後十時。近くの居酒屋から出てきた車に、男子大学生がはねられ、意識不明の重体。彼を轢いた車の運転手は、飲酒をしていたという。
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ノックと同時に、嶋森さんが部屋に入ってきた。
「ごめんなさいね。彰、まだ時間がかかるって……──」
言葉を紡ぐうちに、蒼白になっていく顔。嶋森さんは、僕がなにを読んでいるのかに、気付いてしまったのだ。
なんの心の準備もしていなかった僕は焦った。まさか、このタイミングで……。
そして、彼女が一番聞きたくない言葉を言ってしまった。
「あの、これって、嶋森──彰のことですよね?」
彼女はなにも言わず、膝から崩れ落ちた。
「あ、あの──」
「ごめんなさい……」
無計画に話しかけた僕を遮って彼女は言う。
「こんなこと、絶対にあるわけないのにね……。あなたと一緒に、あの子が帰ってくるなんて、そんなはず、ないものね……」
その言葉は、僕に、というよりかは、自分に向けたものだった。
じゃあ、これは、本当のことだったんだ。
「どうして、教えてくれなかったんですか……?」
嶋森さんは両手で顔を覆ったまま、黙っている。
「あなたは、僕等がどんな関係だったか知ってましたよね!? あいつの携帯から、僕の連絡先だってわかったはずなのに、どうして……!」
彼女は微動だにしなかった。
疑いもしなかった。彼が、こんなことになっているなんて。毎年、年賀状なんかは来てたのに。
怒っていいのか、泣いていいのかさえわからなかった。
「……すみません。帰ります」
これ以上、ここにいたくない。やり場のない感情をここでぶつけるわけにもいかない。そう思って、部屋を出ようとした。
「待って!」
間髪入れずに、嶋森さんが叫ぶ。そしてそのまま、どこかに行ってしまった。
行き場のなさに居心地の悪さを感じたが、嶋森さんは案外早く帰ってきた。
「これ、あなたが持っていて」
泣きはらした、真っ赤な目を向けて、彼女は真剣に言った。
その右手にあったのは、一枚の茶封筒。松並悠祐──僕の名前が書いてあった。
それからのことは、思い出そうとしても、うまく思い出せない。彼の家を出て、自分がどの道を通って実家に帰ったらのかすら曖昧だ。
はっきりと記憶に残っているのは、涙に歪んだ、彼の母親と家だけだった。
* * *
その後数週間にわたって、僕が彼の封筒を目にすることはなかった。
忘れていたわけじゃない。仕事が立て込んで忙しかったからだと、自分に言い聞かせるけど、それで自分を納得させることはできなかった。言い訳にもならない。
まとまった休みがあっても、それを手にすることができないことが、その最たる証拠だ。
ようやく重い腰を上げたのは、あれから二ヶ月が過ぎた頃だった。
秋雨前線の影響で、この頃雨が降らない日はない。なんとなく鬱々とした気持ちで、なにをする気にもなれなかった。
そこでふと思ったのだ。僕がいつまでも向かい合えない「あいつ」に、今、向き合うんだと。
机の上に置きっぱなしだった茶封筒を手に取る。糊で丁寧に貼り付けてあるのを破いた。
中から、二枚の手紙が出てくる。決して綺麗とは言えないが、大きくて見やすい彼の字だった。
──拝啓 松並悠祐様
不恰好なまでに形式ばっていたのは、たったその一行だけだった。
──二週間前、親父が亡くなった。
そんな文から始まった文章は、恐らく六年前に書いたものだろう。この頃にはもう大分疎遠になっていたが、彼の父親が不慮の事故で亡くなったという話は、風の便りで聞いていた。
どうやら、突然身近な人が亡くなって、彼は不安になったらしい。もし自分もそうなったら。そう思い、この手紙を書いたそうだ。
特別仲がよかった僕にはなにかを残したい。そんな感情が、手紙からひしひしと伝わってくる。
彼の記憶力のよさに、心底驚いた。ある日僕が言った、小さな愚痴。そんなことを、彼は何年もの間、覚えていたのだ。確か、高校の先生が僕等生徒に理不尽な課題を出してきたときのことだった。それを言った僕ですら忘れているようなことを、彼は覚えている。
彼は特になにもなければ、この手紙は捨ててしまうつもりだったと言う。万が一、なんてこと、絶対にあるはずがないとまで書いている。
まさか、僕がそれを手にしているなんて、思ってもみなかっただろう。
自分が泣いていることさえ気付かずに、手紙を読み終えた。
不思議な感じがした。彼がまだ、そこにいるような錯覚。
僕は思わず、彼の携帯に電話をかけていた。
無機質な機械音が耳もとで鳴る。四コール目にさしかかったとき、誰かが応答した。
『はい。嶋森です』
女の人の声。彼の母親だ。
「……手紙、読みました。今更ですが」
『……そう』
この前みたいに取り乱すことはなかった。僕も、彼女も。
『ごめんなさい』
嶋森さんの謝罪から始まった。
『意図して隠していたわけじゃないの。夫と彰がほぼ同時にあんなことになって、気が動転してた。あなたのことを気にする余裕がなかったのよ』
「…………」
なんと返していいかわからなかった。
『心の整理がつくまで五年もかかってしまった……。あなたには、感謝しなきゃね』
「僕は、なにもしていませんよ」
返事は返ってこない。電話越しだから、相手がどんな表情をしているのかもわからない。
「僕こそ……、あなたの気持ちを考えずに取り乱して、すみませんでした」
向こう側から、笑い声が聞こえてきた。
『ふふふ。おあいこね、私達』
嶋森さんは、この間の出来事をそこまで深く捉えていなかったらしい。七年前の、第一印象の彼女が見え隠れする。
「あの、彰はその後どうなったんですか?」
僕が見た新聞記事は、事故の翌日のものだ。インターネットで調べてみても、その先彼がどうなったかは書かれていなかった。
沈黙の時間が続く。
あのとき嶋森さんは、彼が「死んだ」とは言わなかった。その意味がずっと引っかかっていたのだ。
嶋森さんがようやく口を開いた。
『あの子は、回復しなかったの』
その一言だけで、血の気が引いた。回復しなかった。つまり、それは……?
最悪の結果を想像してしまい、心臓が鳴り始めた。
『心臓が止まっていた時間が長くてね、脳にダメージが残ってしまったみたい。あの子は今、植物状態なの』
「植物状態……?」
思わず繰り返した。
「植物状態」という言葉が、どういうことを差しているかは知っている。事故から五年。彼はもう長くない。
『いつ、何が起きてもおかしくないそうよ』
嶋森さんは気丈だった。
『そのときが来たら、必ずあなたに伝えるから』
* * *
それからまた二週間が経過した。
仕事が休みで携帯で遊んでいた僕に、電話がかかってきた。
彼が危篤だそうだ。
急いで彼の病室へ行くと、そこには嶋森さんがいた。
「よかった。間に合って」
やけに落ち着いている。
僕は弾む息を整えて、彼のベッドの前に立った。
何本かのチューブが繋がれているが、人口呼吸器は付けられていない。自発呼吸は止まらなかったのだ。
だからこそ、家族にとっては残酷なのだろう。自発呼吸が止まらなかった場合、回復の余地が残されている。
呆然としている僕を横目に、嶋森さんが話し始めた。
「この間気付いたことなんだけど、この子ね、あなたの誕生日をサプライズで祝おうと思っていたみたい」
「…………」
彼は、そういったことにはずっと無関心だったはずだ。誕生日なんて、知っていたのかどうか怪しかったのに。
「バイトして、必死でお金貯めて、東京まで行ったみたいよ。これを買うために」
そう言って、彼女は鞄の中から小さいキーホルダーを取り出した。それは、僕が珍しくはまったゲームの限定商品だった。
「あの子が事故にあったのは、これを買いに行った帰り道。奇跡的に、壊れなかったみたい」
嶋森さんはキーホルダーを手の平の上で転がしていたが、すぐ僕を見て笑顔を作った。
「これ、あなたが持っていて」
「だけど……」
口答えしようとする僕を遮って、彼女は首を振った。
「いいの。これはあなたが持っていて」
そう言ってから、僕の手を取り、キーホルダーを渡した。
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優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
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