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王国滅亡編
第11話 白嶺会盟
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前話の布告から一夜。白嶺の広場は、朝露に濡れた布と旗で埋まった。焚き火の鍋は早くも煮え、湯気は白嶺の峰に溶けていく。今日は剣を置き、粥を食い、数で語る日だ。――諸侯、商会、神殿を招く初の会盟である。
門に角笛。先導の騎士が三騎、続いて従者と荷車。最初の客は北境の小侯、ハルトマン。続いて西谷のエルンスト、辺境のミュラー男爵。護衛の槍は下げられ、旗は巻かれている。市の子らが歌を止め、鍋の匂いだけが風に乗った。
「ようこそ。ここではまず、腹を満たす」
俺は三家の前へ粥椀を差し出した。侍臣たちが目を見開き、主君たちは一瞬ためらい――椀を取る。匙が粥をすくい、喉を通る音は小さく、それでいて重かった。
「剣の前に粥、命の前に数。これが白嶺の礼法だ」
「……噂に聞く“腹の軍律”というやつか」ハルトマンが呟く。
「倉を閉ざした王都では、礼法より先に腹が鳴りますな」エルンストが苦笑した。
ミュラーは短く頭を下げた。「領に飢えが出た。子が泣く前に話し合いたい」
⸻
円卓は木ではなく布で作った。焚き火を囲む大きな布を広げ、白墨で市と田、倉と道の図を描く。器は共通、椀の底には白嶺の小印。旗は遠く、手元には鍋と地図。――この光景そのものが、会盟の理念だった。
「条件を示す。第一、“子に粥”。領の倉の一部を市に開放し、子と病へ優先して配る。第二、“税半減”。市税は半分、代わりに関所を開け、道を守る。第三、“兵は道を守るために出す”。討伐や略奪のためではない」
俺が指で布を叩く。白墨の粉が小さく舞った。
「返礼は三つ。白嶺は塩と布と鉄を配す。工兵を送り、橋と井戸と倉を築く。暗号と通信を繋ぎ、虚報から守る」
ハルトマンが問う。「兵はどれほど求む」
「常備三百、緊急時は五百。だが“兵は腹が満ちている時だけ動く”。空腹の軍は出すな。出せば領は痩せる」
エルンストが頷く。「商人の護衛も含むか」
「含む。市は戦だ。道は剣より強い」
ミュラーは眉を上げた。「王都は怒るぞ」
「怒りは腹を満たさない。――旗より先に倉を見ることだ」
布の端で、商会連合の使者が咳払いした。帳簿と秤を携えた若い女だ。
「白嶺が市の安全を保証するなら、我々は塩と布と鉄を持ち込む。ただし“商人も市民として扱う”という掟を望む」
「よい。商人は血を流さずとも腹を満たす。だが商人が去れば、兵も腹を満たせない。――同じ椀で粥を食え。椀を返せば、市民だ」
神殿の代理、青衣の司祭が一歩進む。胸には小さな光輪の印。
「『子に粥』は神意に適う。神殿は白嶺に祈祷師と施療係を出す。ただし“略奪なきこと”を条件とする」
「軍律第四条。略奪を禁ず。犯せば粥を断つ。司祭は軍律官として同席せよ。神の目で見よ」
⸻
交渉は粥の温かさで滑らかに進んだ。匙が布の上の図に触れ、塩が皿に盛られ、白墨が新たな道を描く。俺は数で背骨を通す。
「白嶺の総人口、一万五千二百八十七。兵四千八百三十二。備蓄四十日分。塩十三日分――ここが弱い。西の商人路、潮の国からの塩蔵魚を開く」
商会の女が即答する。「荷駄四十。護衛は十。道の修繕費は折半で」
「工兵二十を付け、橋を二つ架ける。徴税は半。子の粥は免税」
「成立」
ハルトマンが地図の北に指を置いた。「峠道、冬に凍る。どうする」
「凍結防止の板道を敷き、根を編んだ影の橋を重ねる。氷室を二段に分け、上段の冷気を下段へ落とす。――工兵の図を後ほど渡す」
「王都より早い」エルンストが苦く笑った。「王都は図ではなく罵声を送ってくる」
ミュラーが低く言う。「王都の徴発を拒めば、軍を寄越す」
「来られまい。十万を叫んでも、倉が空だ。来ても歩けない。歩けても腹が鳴る。鳴った腹は、粥の匂いに引かれる」
ハルトマンが目を伏せる。「……昨夜、討伐軍の兵が村に来た。粥を求めに。私は鍋を出した。剣は抜かなかった」
「それが“白嶺の戦”だ」俺は短く応えた。
⸻
正午。合図の太鼓。広場の端で旗手が動く。三家の従者が王国旗を降ろし、白嶺旗を掲げた。雪の峰と光輪。――旗は風に素直だった。
膝をついたのは家臣ではない。最初に膝をついたのは、鍋を担いでいた女だ。次に鍬を持つ男。子が真似をし、兵が胸を打つ。旗の交換は儀式ではなく、生活の選択になった。
俺は布告を読み上げる。
「白嶺会盟第一条。“子に粥”。第二条。“市の安全”。第三条。“税半減”。第四条。“道を守るための兵”。第五条。“略奪の禁止”。第六条。“虚報の禁止”。第七条。“旗より先に倉”。――これを守る者を、白嶺は友と呼ぶ」
司祭が続けた。「神殿は証人となる。偽りを見れば告げる。粥を渇れし者に与えよ」
商会連合の女が布袋を掲げた。「塩が着き次第、市を二倍に拡張する。布と釘は今夜のうちに」
「工兵は午後から橋脚に入る。夜は灯を増やせ」俺が言う。カストルの鍋は音を立て、器が回る。――市はもう、“軍の腹”であり“国の心”になっていた。
⸻
同じ頃、王都・白大理石の会議堂。影鳩が窓を叩き、秘書官が青ざめて封を切った。
『白嶺会盟成立。諸侯三家・商会連合・神殿代理、調印。王国旗降下、白嶺旗掲揚。“子に粥・税半減・市の安全”』
宰相ローデリヒが椅子を蹴った。「反逆の儀式だ! 剣も王印もなしに、国を名乗る気か!」
軍務卿オルガンが吠える。「直ちに再討伐軍を! 十万を――」
兵站大佐ベルナールは帳簿を握り潰した。「……塩がない。飼葉がない。徴発に出す兵の糧も、ない」
「ならば神殿から奪え!」ローデリヒが叫ぶ。
宗務院のセラフィナ枢機卿が冷ややかに言った。「“子に粥”を掲げる側から奪うのは、神意に反する」
「神意より王命だ!」
「王命は腹の上に立つ。腹が空けば、命は倒れる」
正義派は黙した。ジークフリート老将は杖を突き、ただ目を閉じる。若きディートリヒ中佐は唇を噛み、何も言わなかった。――彼らは知っている。数で敗け、腹で敗けたことを。
⸻
夕刻。会盟は署名と印で締めくくられた。印は蝋だけではない。各家の倉の鍵穴に、白嶺の小印を刻む。鍵は奪わない。共有する。鍵を持つ手が増えれば、腹を空かせる暇が減るからだ。
俺は最後に、諸侯の兵へ向き直った。
「お前たちは今日から、白嶺の道を守る兵だ。剣を振る前に鍋を担げ。旗を掲げる前に橋を渡せ。――腹を満たし、字を覚え、虚報を疑え」
兵たちの胸甲が鳴る。誓いの拍はそろい、声は要らなかった。
ハルトマンが小さく笑んだ。「王都は“叛旗”と呼ぶだろうな」
「好きに呼ばせろ。旗は風に揺れるが、鍋は揺れない」
エルンストが肩を竦める。「明日から領の市を開く。商会に塩を頼む。工兵に橋を頼む。神殿に粥を頼む。……王都に頼む物は、ないな」
ミュラーは短く言った。「戦うなら、腹が満ちてからにする」
⸻
取り決めはさらに細かい。白墨で布に小さな枠を描き、俺は一つずつ埋めていく。
「城門の列は“子・病・老”を先に。市の帳場は三か所、秤は二台、粉は一人一升まで。塩は日に一つまみ、魚は二日に一度。橋は幅三、欄干は肩の高さ。夜の見回りは砂時計二つぶん。――守れば腹は減らない」
商会の女が素早く写す。「価格は?」
「米と麦は王都の半値。布と釘は三割引き。代わりに外から来た者の泊まりは無料に。学び場は朝の鐘から二刻。読み書きと数は誰でも、無償」
司祭が頷く。「祈祷所は市の真ん中。施療は列で分ける。乱れたら静かに歌え。歌は心拍をそろえる」
ハルトマンが感嘆した。「まるで軍議だな」
「市は軍議だ。腹の軍議だ」
諸侯はそれぞれの事情を明かした。北境は雪で倉が湿り、西谷は橋が落ち、辺境は狼が増えた。俺は術と工の両輪で答える。
「湿りは清浄結界〈バリェーラ・プーロ〉と風壁障陣で抜ける。橋は根を編み、氷室は段を切る。狼は幻狼召喚〈ルプス・ファンタズマ〉で群れを散らせ」
ミュラーが目を丸くする。「幻で狼が?」
「怖れは実体を持つ。だが血は流れない。――それが白嶺のやり方だ」
⸻
午後、示威の刻。広場の端に水桶を並べ、司祭と商会の目の前で、魔導兵団の若い術士が掌を合わせた。
「清浄結界」薄膜が水面に降り、濁りが退く。子どもが歓声を上げ、商人が秤を止める。
続けて、結界兵が白い円を広げ、焚き火の火の粉を包んで消した。「結界は家を守る。火事の夜にも強い」
最後に、幻術士が布の上に“未来の市”を映した。橋が二本増え、人の列が四つに分かれ、遠くの村から荷車が来る。見物の者たちが思わず前へ一歩出る。未来が見えれば、今日の足が固くなる。
「見せ物は終いだ」俺は布を払う。「明日からは手を動かす。歌いながら、数えながら」
⸻
影鳩はその日のうちに三方向へ飛んだ。北の峠では雪の村が白嶺旗を布の上に縫い付け、西の谷では商会の幌に小さな光輪が描かれ、辺境の砦では神殿の鐘が“粥の時”を告げた。旗は風に、鐘は腹に、噂は耳に届く。王都の喇叭より速く、深く。
王都では同じ時刻、腐敗派が新たな布告を書き連ねていた。『白嶺に与する者、逆臣とみなす』『商会の荷、没収』『神殿は祈祷のみに従事せよ』。だが布告は紙で、白嶺の会盟は粥だった。紙は燃えるが、粥は腹に残る。紙は風で飛ぶが、橋は残る。
⸻
会盟の締めに、俺は明日の段取りを読み上げた。
「工兵は夜明けに谷へ。杭を三百、縄を千。商会は塩の荷駄を四十、護衛十。神殿は施療と歌。諸侯の兵は市の門を守れ。――読み書きは子から。夜の灯は二割増し」
エリアスが続ける。「統計は毎日更新。掲示板に張る。誰でも見られる。嘘を見つけたら、板書の端に石を置け」
「石?」とハルトマン。
「異議の合図だ。石が三つ並べば、翌朝に議する」
エルンストが笑う。「百姓の会議か」
「腹の会議だ」
ミュラーがふと真顔で問う。「参謀殿。王都が本当に来たら?」
「来た道を凍らせ、倉を開く。凍った道は彼らの靴を奪い、開いた倉は彼らの心を奪う。――剣は最後でいい」
⸻
夜半、見張り台の太鼓が柔らかく二つ。異常なしの合図。鍋は静かに息をし、市の灯は星と混ざった。俺は外に出て、白嶺旗の影に立つ。旗は黒い空に白く、ゆっくり呼吸しているように見えた。
エリアスが来る。「閣下。今日の記録、すべて板に。影鳩、十二」
「ご苦労」
「……王都の“逆賊糾弾”、読みました。言葉が多いほど、空腹が深い」
「言葉は腹を満たさない」
「はい」
彼は少し黙り、言った。「明日から、白嶺は本当に“国”ですね」
「もう国だ。旗ではなく、鍋と道でできた国だ」
風が布告の端をめくり、焚き火の灰が低く舞った。俺はその灰を指で払い、いつものように遠い方角を刺す。指先は王都を貫き、そのさらに先、帝国の峠を越え、宗教帝国の鐘楼を過ぎ、氷原の狼の目に届くところで止まった。まだ見ぬ戦と市、まだ数えていない人と粥。そこに、次の勝ち戦がある。
勝ち戦は拾わない。作り、食わせ、数え、道にする――続く。
白嶺の歌は夜を越え、明日の市まで届くだろう。必ず、続く。
門に角笛。先導の騎士が三騎、続いて従者と荷車。最初の客は北境の小侯、ハルトマン。続いて西谷のエルンスト、辺境のミュラー男爵。護衛の槍は下げられ、旗は巻かれている。市の子らが歌を止め、鍋の匂いだけが風に乗った。
「ようこそ。ここではまず、腹を満たす」
俺は三家の前へ粥椀を差し出した。侍臣たちが目を見開き、主君たちは一瞬ためらい――椀を取る。匙が粥をすくい、喉を通る音は小さく、それでいて重かった。
「剣の前に粥、命の前に数。これが白嶺の礼法だ」
「……噂に聞く“腹の軍律”というやつか」ハルトマンが呟く。
「倉を閉ざした王都では、礼法より先に腹が鳴りますな」エルンストが苦笑した。
ミュラーは短く頭を下げた。「領に飢えが出た。子が泣く前に話し合いたい」
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円卓は木ではなく布で作った。焚き火を囲む大きな布を広げ、白墨で市と田、倉と道の図を描く。器は共通、椀の底には白嶺の小印。旗は遠く、手元には鍋と地図。――この光景そのものが、会盟の理念だった。
「条件を示す。第一、“子に粥”。領の倉の一部を市に開放し、子と病へ優先して配る。第二、“税半減”。市税は半分、代わりに関所を開け、道を守る。第三、“兵は道を守るために出す”。討伐や略奪のためではない」
俺が指で布を叩く。白墨の粉が小さく舞った。
「返礼は三つ。白嶺は塩と布と鉄を配す。工兵を送り、橋と井戸と倉を築く。暗号と通信を繋ぎ、虚報から守る」
ハルトマンが問う。「兵はどれほど求む」
「常備三百、緊急時は五百。だが“兵は腹が満ちている時だけ動く”。空腹の軍は出すな。出せば領は痩せる」
エルンストが頷く。「商人の護衛も含むか」
「含む。市は戦だ。道は剣より強い」
ミュラーは眉を上げた。「王都は怒るぞ」
「怒りは腹を満たさない。――旗より先に倉を見ることだ」
布の端で、商会連合の使者が咳払いした。帳簿と秤を携えた若い女だ。
「白嶺が市の安全を保証するなら、我々は塩と布と鉄を持ち込む。ただし“商人も市民として扱う”という掟を望む」
「よい。商人は血を流さずとも腹を満たす。だが商人が去れば、兵も腹を満たせない。――同じ椀で粥を食え。椀を返せば、市民だ」
神殿の代理、青衣の司祭が一歩進む。胸には小さな光輪の印。
「『子に粥』は神意に適う。神殿は白嶺に祈祷師と施療係を出す。ただし“略奪なきこと”を条件とする」
「軍律第四条。略奪を禁ず。犯せば粥を断つ。司祭は軍律官として同席せよ。神の目で見よ」
⸻
交渉は粥の温かさで滑らかに進んだ。匙が布の上の図に触れ、塩が皿に盛られ、白墨が新たな道を描く。俺は数で背骨を通す。
「白嶺の総人口、一万五千二百八十七。兵四千八百三十二。備蓄四十日分。塩十三日分――ここが弱い。西の商人路、潮の国からの塩蔵魚を開く」
商会の女が即答する。「荷駄四十。護衛は十。道の修繕費は折半で」
「工兵二十を付け、橋を二つ架ける。徴税は半。子の粥は免税」
「成立」
ハルトマンが地図の北に指を置いた。「峠道、冬に凍る。どうする」
「凍結防止の板道を敷き、根を編んだ影の橋を重ねる。氷室を二段に分け、上段の冷気を下段へ落とす。――工兵の図を後ほど渡す」
「王都より早い」エルンストが苦く笑った。「王都は図ではなく罵声を送ってくる」
ミュラーが低く言う。「王都の徴発を拒めば、軍を寄越す」
「来られまい。十万を叫んでも、倉が空だ。来ても歩けない。歩けても腹が鳴る。鳴った腹は、粥の匂いに引かれる」
ハルトマンが目を伏せる。「……昨夜、討伐軍の兵が村に来た。粥を求めに。私は鍋を出した。剣は抜かなかった」
「それが“白嶺の戦”だ」俺は短く応えた。
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正午。合図の太鼓。広場の端で旗手が動く。三家の従者が王国旗を降ろし、白嶺旗を掲げた。雪の峰と光輪。――旗は風に素直だった。
膝をついたのは家臣ではない。最初に膝をついたのは、鍋を担いでいた女だ。次に鍬を持つ男。子が真似をし、兵が胸を打つ。旗の交換は儀式ではなく、生活の選択になった。
俺は布告を読み上げる。
「白嶺会盟第一条。“子に粥”。第二条。“市の安全”。第三条。“税半減”。第四条。“道を守るための兵”。第五条。“略奪の禁止”。第六条。“虚報の禁止”。第七条。“旗より先に倉”。――これを守る者を、白嶺は友と呼ぶ」
司祭が続けた。「神殿は証人となる。偽りを見れば告げる。粥を渇れし者に与えよ」
商会連合の女が布袋を掲げた。「塩が着き次第、市を二倍に拡張する。布と釘は今夜のうちに」
「工兵は午後から橋脚に入る。夜は灯を増やせ」俺が言う。カストルの鍋は音を立て、器が回る。――市はもう、“軍の腹”であり“国の心”になっていた。
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同じ頃、王都・白大理石の会議堂。影鳩が窓を叩き、秘書官が青ざめて封を切った。
『白嶺会盟成立。諸侯三家・商会連合・神殿代理、調印。王国旗降下、白嶺旗掲揚。“子に粥・税半減・市の安全”』
宰相ローデリヒが椅子を蹴った。「反逆の儀式だ! 剣も王印もなしに、国を名乗る気か!」
軍務卿オルガンが吠える。「直ちに再討伐軍を! 十万を――」
兵站大佐ベルナールは帳簿を握り潰した。「……塩がない。飼葉がない。徴発に出す兵の糧も、ない」
「ならば神殿から奪え!」ローデリヒが叫ぶ。
宗務院のセラフィナ枢機卿が冷ややかに言った。「“子に粥”を掲げる側から奪うのは、神意に反する」
「神意より王命だ!」
「王命は腹の上に立つ。腹が空けば、命は倒れる」
正義派は黙した。ジークフリート老将は杖を突き、ただ目を閉じる。若きディートリヒ中佐は唇を噛み、何も言わなかった。――彼らは知っている。数で敗け、腹で敗けたことを。
⸻
夕刻。会盟は署名と印で締めくくられた。印は蝋だけではない。各家の倉の鍵穴に、白嶺の小印を刻む。鍵は奪わない。共有する。鍵を持つ手が増えれば、腹を空かせる暇が減るからだ。
俺は最後に、諸侯の兵へ向き直った。
「お前たちは今日から、白嶺の道を守る兵だ。剣を振る前に鍋を担げ。旗を掲げる前に橋を渡せ。――腹を満たし、字を覚え、虚報を疑え」
兵たちの胸甲が鳴る。誓いの拍はそろい、声は要らなかった。
ハルトマンが小さく笑んだ。「王都は“叛旗”と呼ぶだろうな」
「好きに呼ばせろ。旗は風に揺れるが、鍋は揺れない」
エルンストが肩を竦める。「明日から領の市を開く。商会に塩を頼む。工兵に橋を頼む。神殿に粥を頼む。……王都に頼む物は、ないな」
ミュラーは短く言った。「戦うなら、腹が満ちてからにする」
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取り決めはさらに細かい。白墨で布に小さな枠を描き、俺は一つずつ埋めていく。
「城門の列は“子・病・老”を先に。市の帳場は三か所、秤は二台、粉は一人一升まで。塩は日に一つまみ、魚は二日に一度。橋は幅三、欄干は肩の高さ。夜の見回りは砂時計二つぶん。――守れば腹は減らない」
商会の女が素早く写す。「価格は?」
「米と麦は王都の半値。布と釘は三割引き。代わりに外から来た者の泊まりは無料に。学び場は朝の鐘から二刻。読み書きと数は誰でも、無償」
司祭が頷く。「祈祷所は市の真ん中。施療は列で分ける。乱れたら静かに歌え。歌は心拍をそろえる」
ハルトマンが感嘆した。「まるで軍議だな」
「市は軍議だ。腹の軍議だ」
諸侯はそれぞれの事情を明かした。北境は雪で倉が湿り、西谷は橋が落ち、辺境は狼が増えた。俺は術と工の両輪で答える。
「湿りは清浄結界〈バリェーラ・プーロ〉と風壁障陣で抜ける。橋は根を編み、氷室は段を切る。狼は幻狼召喚〈ルプス・ファンタズマ〉で群れを散らせ」
ミュラーが目を丸くする。「幻で狼が?」
「怖れは実体を持つ。だが血は流れない。――それが白嶺のやり方だ」
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午後、示威の刻。広場の端に水桶を並べ、司祭と商会の目の前で、魔導兵団の若い術士が掌を合わせた。
「清浄結界」薄膜が水面に降り、濁りが退く。子どもが歓声を上げ、商人が秤を止める。
続けて、結界兵が白い円を広げ、焚き火の火の粉を包んで消した。「結界は家を守る。火事の夜にも強い」
最後に、幻術士が布の上に“未来の市”を映した。橋が二本増え、人の列が四つに分かれ、遠くの村から荷車が来る。見物の者たちが思わず前へ一歩出る。未来が見えれば、今日の足が固くなる。
「見せ物は終いだ」俺は布を払う。「明日からは手を動かす。歌いながら、数えながら」
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影鳩はその日のうちに三方向へ飛んだ。北の峠では雪の村が白嶺旗を布の上に縫い付け、西の谷では商会の幌に小さな光輪が描かれ、辺境の砦では神殿の鐘が“粥の時”を告げた。旗は風に、鐘は腹に、噂は耳に届く。王都の喇叭より速く、深く。
王都では同じ時刻、腐敗派が新たな布告を書き連ねていた。『白嶺に与する者、逆臣とみなす』『商会の荷、没収』『神殿は祈祷のみに従事せよ』。だが布告は紙で、白嶺の会盟は粥だった。紙は燃えるが、粥は腹に残る。紙は風で飛ぶが、橋は残る。
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会盟の締めに、俺は明日の段取りを読み上げた。
「工兵は夜明けに谷へ。杭を三百、縄を千。商会は塩の荷駄を四十、護衛十。神殿は施療と歌。諸侯の兵は市の門を守れ。――読み書きは子から。夜の灯は二割増し」
エリアスが続ける。「統計は毎日更新。掲示板に張る。誰でも見られる。嘘を見つけたら、板書の端に石を置け」
「石?」とハルトマン。
「異議の合図だ。石が三つ並べば、翌朝に議する」
エルンストが笑う。「百姓の会議か」
「腹の会議だ」
ミュラーがふと真顔で問う。「参謀殿。王都が本当に来たら?」
「来た道を凍らせ、倉を開く。凍った道は彼らの靴を奪い、開いた倉は彼らの心を奪う。――剣は最後でいい」
⸻
夜半、見張り台の太鼓が柔らかく二つ。異常なしの合図。鍋は静かに息をし、市の灯は星と混ざった。俺は外に出て、白嶺旗の影に立つ。旗は黒い空に白く、ゆっくり呼吸しているように見えた。
エリアスが来る。「閣下。今日の記録、すべて板に。影鳩、十二」
「ご苦労」
「……王都の“逆賊糾弾”、読みました。言葉が多いほど、空腹が深い」
「言葉は腹を満たさない」
「はい」
彼は少し黙り、言った。「明日から、白嶺は本当に“国”ですね」
「もう国だ。旗ではなく、鍋と道でできた国だ」
風が布告の端をめくり、焚き火の灰が低く舞った。俺はその灰を指で払い、いつものように遠い方角を刺す。指先は王都を貫き、そのさらに先、帝国の峠を越え、宗教帝国の鐘楼を過ぎ、氷原の狼の目に届くところで止まった。まだ見ぬ戦と市、まだ数えていない人と粥。そこに、次の勝ち戦がある。
勝ち戦は拾わない。作り、食わせ、数え、道にする――続く。
白嶺の歌は夜を越え、明日の市まで届くだろう。必ず、続く。
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不便な異世界で生活環境を改善するためにエルは知恵を絞る。
14万文字執筆済み。2025年8月25日~9月30日まで毎日7:10、12:10の一日二回更新。
異世界転生~チート魔法でスローライフ
玲央
ファンタジー
【あらすじ⠀】都会で産まれ育ち、学生時代を過ごし 社会人になって早20年。
43歳になった主人公。趣味はアニメや漫画、スポーツ等 多岐に渡る。
その中でも最近嵌ってるのは「ソロキャンプ」
大型連休を利用して、
穴場スポットへやってきた!
テントを建て、BBQコンロに
テーブル等用意して……。
近くの川まで散歩しに来たら、
何やら動物か?の気配が……
木の影からこっそり覗くとそこには……
キラキラと光注ぐように発光した
「え!オオカミ!」
3メートルはありそうな巨大なオオカミが!!
急いでテントまで戻ってくると
「え!ここどこだ??」
都会の生活に疲れた主人公が、
異世界へ転生して 冒険者になって
魔物を倒したり、現代知識で商売したり…… 。
恋愛は多分ありません。
基本スローライフを目指してます(笑)
※挿絵有りますが、自作です。
無断転載はしてません。
イラストは、あくまで私のイメージです
※当初恋愛無しで進めようと書いていましたが
少し趣向を変えて、
若干ですが恋愛有りになります。
※カクヨム、なろうでも公開しています
魔力0の貴族次男に転生しましたが、気功スキルで補った魔力で強い魔法を使い無双します
burazu
ファンタジー
事故で命を落とした青年はジュン・ラオールという貴族の次男として生まれ変わるが魔力0という鑑定を受け次男であるにもかかわらず継承権最下位へと降格してしまう。事実上継承権を失ったジュンは騎士団長メイルより剣の指導を受け、剣に気を込める気功スキルを学ぶ。
その気功スキルの才能が開花し、自然界より魔力を吸収し強力な魔法のような力を次から次へと使用し父達を驚愕させる。
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