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1巻
1-3
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予想外の発言に驚く絵梨に構うことなく、桃花が「本当にごめんね」と眉を下げた。
「なんでそんな夢を見たのか、私にも全然わからないんだけど……絵梨ちゃんがね、『不幸過ぎて生きているのが嫌になった』って、自殺する夢を見ちゃったの」
「はぁ……」
だからといって、何故それを自分に報告してくるのだ。
あまりのことに、表情を取り繕うのも忘れて桃花を見ていると、彼女がその理由を説明してきた。
「私、嘘とか苦手だから、ちゃんと謝っておきたかったの。だって、そんな酷い夢を見たのに、それを黙っているなんて、すごく悪いことしているみたいな気がして……」
「本当にごめんなさい」と、桃花が、一見すると悲しげに見える顔で見つめてくる。
その姿は、なんの悪意もないと錯覚しそうになるほど、愛らしさに溢れている。
――あなたがなにも言わなければ、私は嫌な思いをしなくて済んだんですけど……
でも、それを言葉にすれば絵梨の負けになる。
絵梨が感情のままに言葉を口にすれば、桃花はここぞとばかりに被害者面をして騒ぎたてるに違いない。
男性社員にウケがよく、部長の愛娘でもある桃花に謝られたら、こっちには『許す』という選択肢しかないのだ。
「……いいよ別に。逆に気を遣わせてごめんね」
白々しい口調になったのは仕方がないと思う。
「よかった。絵梨ちゃん優しいから、きっと謝ればなんでも許してくれると思ってたんだ」
なんでもを、わざと強調してくるところに仄暗い悪意が滲んで見える。
「……」
きつく唇を噛みしめて、ざらつく気持ちを必死に抑え込む。桃花は、そんな絵梨の表情を嬉しそうに見つめていた。
その時、郁美が見かねたように口を挟む。
「ねえ、話は終わり?」
財布を振って食事を買いに行きたいのだと意思表示をした。
「あっ! ごめんなさい」
今、郁美の存在に気が付いた、そう言いたげに大袈裟なくらい肩を跳ねさせて、桃花が上辺だけの謝罪をする。
「じゃあ、行こう」
郁美がさっさと絵梨を促してエレベーターホールへ歩きだす。
絵梨がその後に続こうとした時、桃花が絵梨の手を掴んだ。
「あのね。許してくれたお礼に、いいこと教えてあげる。……あんまり安っぽい物を使ってたらダメだよ。絵梨ちゃん自身が、男の人から安い女として扱われちゃうからね」
「……」
一瞬、なにを言われたのかわからずキョトンとする。
そんな絵梨に見えるように、桃花は手にしている財布を揺らす。それはブランドにあまり興味のない絵梨でも知っている、フランス発祥の有名ブランド品だった。
絵梨が手にしている財布とは、おそらく一桁は価格の違う品。
「普段使いの持ち物は、女性自身の価値を決めるバロメーターなんだから、もっと自分にお金を使わなきゃダメだよ。ただでさえ、絵梨ちゃんはマイナスからのスタートなんだから」
「――っ!」
――それはどういう意味だ。
絵梨が安物しか持っていないから、安い女として比留川にいいように利用されて、捨てられたとでも言いたいのか。
表情をなくし、自然と財布を握る指に力が入る。
下唇を噛んでぐっと言葉を呑み込む絵梨に、勝ち誇った笑みを残して桃花は去っていった。
――最低。
桃花の人間性も、その桃花に女性として負けた自分も。
このまま桃花に、一方的に感情をえぐられ続けたら、さすがに自分を保つ自信がない。これがこの先も続くのかと思うと、仕事を続けるのが辛くなるのは目に見えている。
何故自分がここまでの仕打ちを受けなきゃいけないのだろう。絵梨は現状への憤りを覚える。
復讐するは我にあり――グッと唇を噛みしめる絵梨の脳裏に、そう口にした雅翔の表情がふと蘇る。
彼のように、自信を持って自分の意見を言えるようになりたい。
「なに、あれ……」
怒りを呑み込みつつもそう呟いた絵梨に、郁美が冷めた声で言ってくる。
「目障りだから早く消えろって、言ってるようなものじゃない?」
「……?」
顔を上げた絵梨に、郁美は肩を竦める。
「比留川が自分のものになって、悔しがる絵梨の顔もじゅうぶん堪能した今、貴女は邪魔だから消えてって、言いにきたんじゃない?」
「えっ!」
郁美に比留川とのことを話したことはない。
驚き、表情を強張らせる絵梨の肩を、郁美がぽんと軽く叩く。
「今日は私が奢るから、どこかのお店でゆっくり食べよう」
そう言って、郁美がさっさと歩き出す。
「えっと……ごめん」
先にエレベーターに乗り込んだ郁美が、絵梨を待ってボタンを押す。そして、申し訳なさそうに肩を落とす絵梨に視線を向けた。
「なにが? 比留川とのことを黙ってたこと?」
コクリと頷く絵梨を郁美が笑う。
「なんでも報告するのが友達ってわけじゃないでしょ。それに私が気付いたのも、比留川の婚約発表の時、絵梨の驚く顔を見てだし。……それまでは、単に比留川のこと好きなのかな? くらいにしか思ってなかったから」
そこまで気付いていて、なにも言わずに見守ってくれていたんだ。
学生時代、女子に王子様と慕われていたのは、外見だけでなく内面も踏まえてのことだったのだろうと、納得がいく。
「私……郁美が男だったら、惚れてるかも」
「なにバカなこと言ってるの。……まあ、話してくれていたら、こんなことになる前に止めたのにって後悔は残るけど」
郁美が、財布の角で自分の眉間を叩く。
「え?」
「まあ、その辺のことも含めて話してあげるよ。ほら、早く行こっ」
ちょうどエレベーターが一階に着き扉が開いたところで、郁美が絵梨を促す。
――郁美の言葉、なんとも言えない含みを感じるな。
嫌な予感を覚えた絵梨は、財布を握り直して郁美の背中を追いかけた。
◇ ◇ ◇
仕事帰り、絵梨が一葉に顔を出すと、まだ雅翔の姿はなかった。
「よかった……」
昼休み、郁美と食事をしてる時に、雅翔から昨日の話の続きをしたいから今日の帰りに会えないかとメールをもらった。そこで仕事帰りに一葉で待ち合わせの約束をしたのだ。
明確な時間は決めなかったけれど、待たせるより、待つ方が気楽でいい。
先に到着したことに安堵しつつ、いつものカウンター席に腰を下ろし飲み物を注文した。
そして幸根が自分に背を向けている間に、テーブルランプの下を確認し、メッセージを引っ張り出す。
それは、昨日絵梨が忍ばせたメモではなく、サクラからのメモに代わっていた。
『きっとそのうち、いいことがあるから大丈夫だよ。 サクラ』
見慣れた文字に、ホッと息が漏れる。
「ありがとう」
メモに向かってお礼を言い、それをポケットに忍ばせたところで、店の扉が開く気配がした。
振り向くと、スーツ姿の雅翔と目が合った。
「お待たせ」
雅翔は羽織っていた薄手のアウターを椅子の背もたれに掛け、絵梨の隣の席に腰を下ろす。
その瞬間、ふわりと甘さを含んだ爽やかな香りが漂ってきた。
メーカーまではわからないけど、よくある男性用オーデコロンとは違う、深みのある複雑な香りだ。彼の香りに何故かドキリとし、絵梨は焦って言葉を返した。
「いえ、私も今きたところです」
「よかった」
そう言って微笑む雅翔の目尻に、小さな皺が出来る。
――なんだか可愛い。
正確な年齢はわからないけど、絵梨より年上なのは確かだ。整いすぎて、まったく隙のない彼の雰囲気が、笑った瞬間に少しだけ幼くなる。そのことに気付くと、意味もなくくすぐったい気持ちになった。
――我ながら、単純だなぁ。
昼間も、桃花の言葉にすごく傷付いた直後に、郁美の優しさに救われた。今だって、サクラのメモに心がほぐされた。
我ながら単純な性格をしているなと思うけれど、それは別に、悪いことじゃないだろう。
辛いことにばかり目がいっていては、心が疲れてしまう。
それに自分の不幸に忙しいと、せっかく自分に向けられた優しさを見落としてしまう。
単純でよかったと、自分の性格を自画自賛している絵梨に、飲み物を注文した雅翔が話しかける。
「会社はどうだった?」
「友達がいるって、いいなって思いました」
「そう。よかったね」
雅翔の声が優しくて、耳に心地いい。
「……」
「で、昨日の話の続きなんだけど、復讐するにしても、まずは、絵梨ちゃんの話をもう少し聞かせて欲しいと思って。……不愉快かもしれないけど、その二人の会社でのこととか、教えて欲しいんだ……」
雅翔が神妙な表情で視線を向けてくる。
そう言われてすぐに、今日の桃花とのやりとりが頭をよぎる。
本当は復讐を断ろうかと悩んでいたけど、さすがに今日のような理不尽な悪意を向けられるのは許せない。もし今後もこうしたことが続くようなら、自分もなにか対策を取るべきなのかもしれないと思った。
そうでないと、心が疲弊していく。
「あの……」
これまでの悔しい思いをどう説明すればいいのかと悩んでいると、喉に言葉がつかえてしまう。
そのもどかしさに、無意識に唇を噛む。そんな絵梨の唇に、雅翔の右手が伸ばされた。
雅翔は右手で絵梨の頬に触れ、指で唇を押さえてきた。
「――っ!」
雅翔の指が触れた瞬間、ひび割れた唇にピリリとした痛みが走る。でもそれ以上に、唇に触れる彼の指に、自分の頬が熱くなったことが気になった。
「唇を噛んじゃ駄目だよ」
「……」
緊張で息も出来ずにいる絵梨を、雅翔は「駄目だよ」と、再び窘めて指を離した。
「すみません」
しゅんとする絵梨に、雅翔が気遣わしげな表情を向ける。
「なにか辛いことがあったなら、ちゃんと言葉で話して」
離れてもなお、唇に残っている雅翔の指の感触に、気恥ずかしさを覚える。
その感触を持て余すように自分の唇を指で押さえた。
「すみません、気持ちを言葉にするのが苦手で……」
そう言い訳しつつ、絵梨は、昼の出来事を雅翔と幸根に話した。
財布の件もなかなかの出来事だったが、ランチを取りつつ郁美に教えてもらった話はもっとショッキングだった。彼女によると、比留川は今の部署に異動してくる前から、恋愛関係を餌に、都合よく女性を利用する常習犯だったらしい。
他部署から異動してきた比留川が絵梨に目を付けたのは、たぶん企画部の安達部長が絵梨を買っていたからだと言われた。部長に評価されている絵梨を口説き、自分の出世のために利用したのだろうと。
そして、桃花もまた学生時代から人の恋人を寝取る常習犯だったらしい。
そんな桃花が、絵梨の恋人である比留川に目を付けたのは、郁美曰く、安達部長が絵梨の仕事を褒め、桃花に見習うように説教したことがきっかけだそうだ。
『いい子過ぎて損してるわね』
郁美に気の毒そうに苦笑された。けど、絵梨自身は、特にいい子でいた覚えはない。
「絵梨ちゃんの友達は、どうして部長の娘さんの学生時代のことまで知ってるの? 学生時代から知り合い?」
二人の飲み物を淹れ、雅翔と一緒に絵梨の話を聞いていた幸根が素朴な疑問を口にした。絵梨は、それに素早く答える。
「自分でSNSに色々書き込んでいるんです」
昼休みに、郁美に見せられたSNSは、本名は隠してあるが、一読して桃花のものとわかる内容だった。
自分が可愛いから、相手の女の子に魅力が足りないから。そんなつもりはなかったのに、友人の恋人が自分に心移りしてしまう……
そうした言葉が並ぶ桃花のSNSには、絵梨と比留川のことも、随分桃花に都合よく脚色して書き込まれていた。
その書き込みによると、絵梨はとっくに愛情の冷めている比留川の同情を引いて、なんとか彼を繋ぎ止めようと足掻いている可哀想な女らしい。
「二人とも最低だな」
雅翔の呟きに、仕事をしつつ話を聞いていた幸根も頷く。そして、絵梨に同情的な視線を向けて言った。
「その部長の娘さんって、なかなかいい性格みたいだね」
これまでの桃花の言動を思い出し、絵梨が唸る。
郁美の言葉を借りるならば、『恵まれた環境に生まれた桃花は、自分を特別な存在だと信じて疑わない』のだそうだ。
特別な存在の桃花は、愛されて大事にされることが当然だし、人を傷付けても構わない。そんな思い上がりが、今の桃花の性格を形成しているのだと、郁美は言っていた。
なかなか手厳しい意見だけど、絵梨の知る桃花の言動からも、そういったことを感じられる面が多々ある。
都内で親と暮らし、お金に不自由したことがない。家事の全てを母親に任せ、お給料を全部お小遣いにしている桃花には、自分の外見を磨くお金も時間もじゅうぶんにあるのだろう。
それ自体は別にどうでもいいのだが、彼女はこれまでも、絵梨に向かって「自分のこと自分でしなきゃいけないなんて可哀想」「地方出身って、お洒落にお金使えなくて可哀想」など、同情の体を装って、あからさまに見下した発言をしてきていた。はっきり言って不愉快だ。
「負け惜しみかもしれないですけど、ちゃんと仕事をして、誰にも迷惑をかけずに生活していることは、可哀想じゃないです」
それだけは譲れないと、語気を強める絵梨に雅翔が頷く。
「そうだね」
「ちゃんと自立してる絵梨ちゃんに向かって可哀想って……、その子どんな感覚してるんだよ」
苦い顔をする幸根に、絵梨は困ったように笑う。
「それはきっと、私の家庭の事情に対する嫌味も込められているんだと思います」
「どういう意味?」
「私、両親がいないんです。たぶん、それを彼から聞いて、私のことを『可哀想』って言ってるんだと思います」
隠しているわけではないが、公言しているわけでもない。
両親が早くに離婚して、母方の祖父母に育てられた――そんな断片的な情報で、『可哀想な子』と、決めつけられるのが嫌だったからだ。
「小さい頃に両親が離婚して、どちらも私を育てられない事情があったので、母方の祖父母に育てられました。だけど、大学まで卒業させてもらったし、そのおかげで好きな仕事に就けました。だから自分ではラッキーな方だと思ってます」
正直に言えば、多少の強がりもある。
それでも祖母が言うとおり、人生に幸せも不幸も同じ数だけあるのなら、不幸に溺れることなく、少しでも多くの幸せを見つけられる人でありたい。
だからこそ、離婚後、それぞれ早々に新しい家庭を築いた両親のことも許すことができた。絵梨を重荷に感じながら無理して育てられるくらいなら、好きに生きてもらえてよかったと思うことにしている。
「そういう考え方が出来るだけでも、絵梨ちゃんは間違いなく幸せな人だよ」
雅翔の言葉には、少しの同情も感じられない。
上辺のわかりやすい情報だけで絵梨を判断することなく、絵梨の考え方を踏まえて肯定してくれていることが嬉しい。
「ありがとうございます」
お礼を言ってカップを手にする。そんな絵梨の視線の先で、幸根が腕組みした。
「なにも知らずに、生い立ちだけで可哀想と見下すとか、ブランド物の財布持ってるだけで勝ち誇るとか……、その部長の娘さんは、なかなかにムカつく存在だな」
「確かに」
幸根ほどの激しさはないが、雅翔も渋い顔で頷く。
「しかしブランド物を持ってるのが、そんなに偉いのかねえ」
呆れる幸根に、雅翔がパチンッと、指を鳴らした。そして、その指を絵梨に向ける。
「手始めに、そこから始めようか?」
「え? どこからですか?」
不思議そうに首をかしげる絵梨に、雅翔が目尻に皺を作って微笑む。
「復讐だよ。その自慢大好きな部長の娘さんに、悔しい思いをさせるっていうのはどう?」
そう言われて、復讐のことを思い出した。
確かにこのままやられっぱなしは辛いので、少しぐらい復讐をしたい気持ちになっている。
桃花を悔しがらせる。もしそれが成功すれば、プライドの高い桃花のことだ、しばらく絵梨と距離をおいてくれるかもしれない。
――それはちょっと嬉しいかも。
思わず表情が明るくなる。そんな絵梨を見て、雅翔も表情を明るくする。
「でもどうやって、悔しい思いをさせるつもりですか?」
その方法が思いつかない絵梨に、雅翔が得意げな顔をする。
「今は秘密。……でも俺にいい考えがあるから、方法は任せてくれない?」
「……」
どんな方法なのか気になる。そう思いつつ絵梨は頷いた。
「さっそくだけど、絵梨ちゃん、今度の週末はなにか予定はある?」
「土曜日も日曜日も、なにも予定はないですけど……」
「じゃあ両方、俺と出かけるから空けといて」
雅翔は、そのまま待ち合わせ時間を決めていく。
よくわからないけど、なにか思いついたらしい。その証拠に、彼の端整な顔には悪巧みを楽しむような笑みが浮かんでいる。
「あの、どこに行くんですか?」
「それは、当日までの秘密」
唇に人差し指を当てる雅翔は、絵梨がいくら聞いても詳細を教えてくれなかった。
困り顔で黙り込む絵梨を見て、雅翔は楽しそうに目を細める。
その表情が本当に楽しそうなので、絵梨はその表情を壊してしまうのが嫌で、それ以上の追及を諦めた。
「わかりました。じゃあ、楽しみに週末を待つことにします」
「うん。そうして」
微笑む雅翔に、絵梨も頷き返した。
◇ ◇ ◇
「今日はメッセージなかった?」
絵梨が帰った後、テーブルランプの下を確認する雅翔に幸根が聞く。
「まあ、必ずメッセージを残すって決めてるわけじゃないし」
そう返しつつも、がっかりする表情をごまかしきれない。
雅翔の内心を見透かしている幸根が、ニヤニヤと笑った。
「そんな顔するなよ」
「これが普通の顔だよ」
「じゃあ、さっきまでのお前が、よっぽどニヤけてたってことだな」
ああ言えばこう言う。眉を寄せてため息を吐く雅翔に、幸根が苦笑しながら声をかける。
「もう、一年以上になるな」
「なにが?」
「お前と絵梨ちゃんが知り合ってから」
雅翔は、カップとソーサーの間に敷いてあるピンク色の和紙を引き出す。
桜の花びらの形に切り抜かれた和紙を照明にかざすと、絡まり合った繊維の中に金箔が透けて見えた。
「よくそんなに続いてるよな」
「そうだな……」
絵梨との間で交わしたメッセージの数々を思い出しつつ、雅翔が口元で笑う。そんな雅翔をからかうように幸根が言った。
「お前が来るようになってから、もう一年以上か。まったく、店をオープンさせたのは去年の春だったのに、半年近くも顔を出さないなんて、薄情な奴だよな」
「だから、忙しかったんだよ」
信頼しきっていた幸根の抜けた穴が大きくて、体制を整えるのに苦労していたとは口にしたくない。
雅翔は、悔しさを悟られないようにそっぽを向く。
「まあ、頼りになる俺が辞めて、困り果ててたんだよな。お前、なんでもかんでも自分で背負い込んで、いっぱいいっぱいになるタイプだもんなあ」
幸根に見透かされて、顔をしかめる。
「……」
幸根とは、殿春総合商社の同期だった。
周囲が次期社長の雅翔の扱いに戸惑う中、幸根だけは違っていた。
入社当初から「カフェの開店資金を貯めたらすぐに辞める」と公言していた幸根は、雅翔に媚びることも遠巻きにすることもなく、ただの同期として雅翔に接してくれた。
そして彼は宣言どおり、就職から五年で会社を退職し、このカフェをオープンさせたのだ。
一緒に仕事をしていた頃の幸根は、いい意味で肩に力が入っておらず、効率重視のスマートな仕事ぶりで非常にやりやすかった。
だからこそ、幸根が仕事を辞めた直後は、虚栄心と出世欲の強い部下とのやりとりに疲れ、仕事も気持ちもいっぱいいっぱいで身動きが取れなくなっていた。
特に、幸根の後任として自分の補佐に就いた部下には、悩まされた。
その部下は、大手総合商社への就職が、双六で言う「あがり」の状態だと思っている節があった。だからか、無事大手企業に就職をした自分は完璧な状態なのだから、今さら成長も努力もする必要がないと、言外ににおわす働き方が目についた。
自負心が強過ぎ、仕事を否定されるたびに拒絶反応を起こしていたのだ。
例えば、整理を頼んだ資料の仕上がりが不十分で雅翔が手を加えたら、「自分なりに頑張ったのに」「それなら自分でやればいいのに」と、露骨に不機嫌な態度を取ってくる。
そうかと思えば、「もっと責任のある仕事を任せてください」と言うので任せたら、期限ギリギリに「頑張ったけど、やっぱり無理でした」と、突き返された。
当時の大変さをまざまざと思い出し、雅翔が唸る。
「あの頃は本当に、大変だったんだよ」
件の部下は、雅翔が自分の努力を評価しないことに不満な様子だった。だが、雅翔の考えとしては、頑張っただけで褒められるのは学生までだ。
何度、「小学校の持久走じゃあるまいし、仕事は頑張ればいいってものじゃないからな」と、怒鳴りたくなったことか。
しかし、雅翔の立場でそれをすれば、パワハラと騒がれかねない。だから雅翔はひたすら堪えて、孤軍奮闘仕事に励むしかなかったのだ。
「俺って、いい社員だったでしょ」
幸根がニヤリと笑う。
「ああ。心からそう思うよ」
幸根はいつも「給料分の仕事しかしない」と、公言していた。そしてその言葉のとおり「努力を褒めてもらうため」ではなく「賃金に値する働き」をしていた。
もし幸根が、殿春総合商社での出世を望んでいたら、下手をすれば雅翔より早く上にいっていたかもしれない。
「なんでそんな夢を見たのか、私にも全然わからないんだけど……絵梨ちゃんがね、『不幸過ぎて生きているのが嫌になった』って、自殺する夢を見ちゃったの」
「はぁ……」
だからといって、何故それを自分に報告してくるのだ。
あまりのことに、表情を取り繕うのも忘れて桃花を見ていると、彼女がその理由を説明してきた。
「私、嘘とか苦手だから、ちゃんと謝っておきたかったの。だって、そんな酷い夢を見たのに、それを黙っているなんて、すごく悪いことしているみたいな気がして……」
「本当にごめんなさい」と、桃花が、一見すると悲しげに見える顔で見つめてくる。
その姿は、なんの悪意もないと錯覚しそうになるほど、愛らしさに溢れている。
――あなたがなにも言わなければ、私は嫌な思いをしなくて済んだんですけど……
でも、それを言葉にすれば絵梨の負けになる。
絵梨が感情のままに言葉を口にすれば、桃花はここぞとばかりに被害者面をして騒ぎたてるに違いない。
男性社員にウケがよく、部長の愛娘でもある桃花に謝られたら、こっちには『許す』という選択肢しかないのだ。
「……いいよ別に。逆に気を遣わせてごめんね」
白々しい口調になったのは仕方がないと思う。
「よかった。絵梨ちゃん優しいから、きっと謝ればなんでも許してくれると思ってたんだ」
なんでもを、わざと強調してくるところに仄暗い悪意が滲んで見える。
「……」
きつく唇を噛みしめて、ざらつく気持ちを必死に抑え込む。桃花は、そんな絵梨の表情を嬉しそうに見つめていた。
その時、郁美が見かねたように口を挟む。
「ねえ、話は終わり?」
財布を振って食事を買いに行きたいのだと意思表示をした。
「あっ! ごめんなさい」
今、郁美の存在に気が付いた、そう言いたげに大袈裟なくらい肩を跳ねさせて、桃花が上辺だけの謝罪をする。
「じゃあ、行こう」
郁美がさっさと絵梨を促してエレベーターホールへ歩きだす。
絵梨がその後に続こうとした時、桃花が絵梨の手を掴んだ。
「あのね。許してくれたお礼に、いいこと教えてあげる。……あんまり安っぽい物を使ってたらダメだよ。絵梨ちゃん自身が、男の人から安い女として扱われちゃうからね」
「……」
一瞬、なにを言われたのかわからずキョトンとする。
そんな絵梨に見えるように、桃花は手にしている財布を揺らす。それはブランドにあまり興味のない絵梨でも知っている、フランス発祥の有名ブランド品だった。
絵梨が手にしている財布とは、おそらく一桁は価格の違う品。
「普段使いの持ち物は、女性自身の価値を決めるバロメーターなんだから、もっと自分にお金を使わなきゃダメだよ。ただでさえ、絵梨ちゃんはマイナスからのスタートなんだから」
「――っ!」
――それはどういう意味だ。
絵梨が安物しか持っていないから、安い女として比留川にいいように利用されて、捨てられたとでも言いたいのか。
表情をなくし、自然と財布を握る指に力が入る。
下唇を噛んでぐっと言葉を呑み込む絵梨に、勝ち誇った笑みを残して桃花は去っていった。
――最低。
桃花の人間性も、その桃花に女性として負けた自分も。
このまま桃花に、一方的に感情をえぐられ続けたら、さすがに自分を保つ自信がない。これがこの先も続くのかと思うと、仕事を続けるのが辛くなるのは目に見えている。
何故自分がここまでの仕打ちを受けなきゃいけないのだろう。絵梨は現状への憤りを覚える。
復讐するは我にあり――グッと唇を噛みしめる絵梨の脳裏に、そう口にした雅翔の表情がふと蘇る。
彼のように、自信を持って自分の意見を言えるようになりたい。
「なに、あれ……」
怒りを呑み込みつつもそう呟いた絵梨に、郁美が冷めた声で言ってくる。
「目障りだから早く消えろって、言ってるようなものじゃない?」
「……?」
顔を上げた絵梨に、郁美は肩を竦める。
「比留川が自分のものになって、悔しがる絵梨の顔もじゅうぶん堪能した今、貴女は邪魔だから消えてって、言いにきたんじゃない?」
「えっ!」
郁美に比留川とのことを話したことはない。
驚き、表情を強張らせる絵梨の肩を、郁美がぽんと軽く叩く。
「今日は私が奢るから、どこかのお店でゆっくり食べよう」
そう言って、郁美がさっさと歩き出す。
「えっと……ごめん」
先にエレベーターに乗り込んだ郁美が、絵梨を待ってボタンを押す。そして、申し訳なさそうに肩を落とす絵梨に視線を向けた。
「なにが? 比留川とのことを黙ってたこと?」
コクリと頷く絵梨を郁美が笑う。
「なんでも報告するのが友達ってわけじゃないでしょ。それに私が気付いたのも、比留川の婚約発表の時、絵梨の驚く顔を見てだし。……それまでは、単に比留川のこと好きなのかな? くらいにしか思ってなかったから」
そこまで気付いていて、なにも言わずに見守ってくれていたんだ。
学生時代、女子に王子様と慕われていたのは、外見だけでなく内面も踏まえてのことだったのだろうと、納得がいく。
「私……郁美が男だったら、惚れてるかも」
「なにバカなこと言ってるの。……まあ、話してくれていたら、こんなことになる前に止めたのにって後悔は残るけど」
郁美が、財布の角で自分の眉間を叩く。
「え?」
「まあ、その辺のことも含めて話してあげるよ。ほら、早く行こっ」
ちょうどエレベーターが一階に着き扉が開いたところで、郁美が絵梨を促す。
――郁美の言葉、なんとも言えない含みを感じるな。
嫌な予感を覚えた絵梨は、財布を握り直して郁美の背中を追いかけた。
◇ ◇ ◇
仕事帰り、絵梨が一葉に顔を出すと、まだ雅翔の姿はなかった。
「よかった……」
昼休み、郁美と食事をしてる時に、雅翔から昨日の話の続きをしたいから今日の帰りに会えないかとメールをもらった。そこで仕事帰りに一葉で待ち合わせの約束をしたのだ。
明確な時間は決めなかったけれど、待たせるより、待つ方が気楽でいい。
先に到着したことに安堵しつつ、いつものカウンター席に腰を下ろし飲み物を注文した。
そして幸根が自分に背を向けている間に、テーブルランプの下を確認し、メッセージを引っ張り出す。
それは、昨日絵梨が忍ばせたメモではなく、サクラからのメモに代わっていた。
『きっとそのうち、いいことがあるから大丈夫だよ。 サクラ』
見慣れた文字に、ホッと息が漏れる。
「ありがとう」
メモに向かってお礼を言い、それをポケットに忍ばせたところで、店の扉が開く気配がした。
振り向くと、スーツ姿の雅翔と目が合った。
「お待たせ」
雅翔は羽織っていた薄手のアウターを椅子の背もたれに掛け、絵梨の隣の席に腰を下ろす。
その瞬間、ふわりと甘さを含んだ爽やかな香りが漂ってきた。
メーカーまではわからないけど、よくある男性用オーデコロンとは違う、深みのある複雑な香りだ。彼の香りに何故かドキリとし、絵梨は焦って言葉を返した。
「いえ、私も今きたところです」
「よかった」
そう言って微笑む雅翔の目尻に、小さな皺が出来る。
――なんだか可愛い。
正確な年齢はわからないけど、絵梨より年上なのは確かだ。整いすぎて、まったく隙のない彼の雰囲気が、笑った瞬間に少しだけ幼くなる。そのことに気付くと、意味もなくくすぐったい気持ちになった。
――我ながら、単純だなぁ。
昼間も、桃花の言葉にすごく傷付いた直後に、郁美の優しさに救われた。今だって、サクラのメモに心がほぐされた。
我ながら単純な性格をしているなと思うけれど、それは別に、悪いことじゃないだろう。
辛いことにばかり目がいっていては、心が疲れてしまう。
それに自分の不幸に忙しいと、せっかく自分に向けられた優しさを見落としてしまう。
単純でよかったと、自分の性格を自画自賛している絵梨に、飲み物を注文した雅翔が話しかける。
「会社はどうだった?」
「友達がいるって、いいなって思いました」
「そう。よかったね」
雅翔の声が優しくて、耳に心地いい。
「……」
「で、昨日の話の続きなんだけど、復讐するにしても、まずは、絵梨ちゃんの話をもう少し聞かせて欲しいと思って。……不愉快かもしれないけど、その二人の会社でのこととか、教えて欲しいんだ……」
雅翔が神妙な表情で視線を向けてくる。
そう言われてすぐに、今日の桃花とのやりとりが頭をよぎる。
本当は復讐を断ろうかと悩んでいたけど、さすがに今日のような理不尽な悪意を向けられるのは許せない。もし今後もこうしたことが続くようなら、自分もなにか対策を取るべきなのかもしれないと思った。
そうでないと、心が疲弊していく。
「あの……」
これまでの悔しい思いをどう説明すればいいのかと悩んでいると、喉に言葉がつかえてしまう。
そのもどかしさに、無意識に唇を噛む。そんな絵梨の唇に、雅翔の右手が伸ばされた。
雅翔は右手で絵梨の頬に触れ、指で唇を押さえてきた。
「――っ!」
雅翔の指が触れた瞬間、ひび割れた唇にピリリとした痛みが走る。でもそれ以上に、唇に触れる彼の指に、自分の頬が熱くなったことが気になった。
「唇を噛んじゃ駄目だよ」
「……」
緊張で息も出来ずにいる絵梨を、雅翔は「駄目だよ」と、再び窘めて指を離した。
「すみません」
しゅんとする絵梨に、雅翔が気遣わしげな表情を向ける。
「なにか辛いことがあったなら、ちゃんと言葉で話して」
離れてもなお、唇に残っている雅翔の指の感触に、気恥ずかしさを覚える。
その感触を持て余すように自分の唇を指で押さえた。
「すみません、気持ちを言葉にするのが苦手で……」
そう言い訳しつつ、絵梨は、昼の出来事を雅翔と幸根に話した。
財布の件もなかなかの出来事だったが、ランチを取りつつ郁美に教えてもらった話はもっとショッキングだった。彼女によると、比留川は今の部署に異動してくる前から、恋愛関係を餌に、都合よく女性を利用する常習犯だったらしい。
他部署から異動してきた比留川が絵梨に目を付けたのは、たぶん企画部の安達部長が絵梨を買っていたからだと言われた。部長に評価されている絵梨を口説き、自分の出世のために利用したのだろうと。
そして、桃花もまた学生時代から人の恋人を寝取る常習犯だったらしい。
そんな桃花が、絵梨の恋人である比留川に目を付けたのは、郁美曰く、安達部長が絵梨の仕事を褒め、桃花に見習うように説教したことがきっかけだそうだ。
『いい子過ぎて損してるわね』
郁美に気の毒そうに苦笑された。けど、絵梨自身は、特にいい子でいた覚えはない。
「絵梨ちゃんの友達は、どうして部長の娘さんの学生時代のことまで知ってるの? 学生時代から知り合い?」
二人の飲み物を淹れ、雅翔と一緒に絵梨の話を聞いていた幸根が素朴な疑問を口にした。絵梨は、それに素早く答える。
「自分でSNSに色々書き込んでいるんです」
昼休みに、郁美に見せられたSNSは、本名は隠してあるが、一読して桃花のものとわかる内容だった。
自分が可愛いから、相手の女の子に魅力が足りないから。そんなつもりはなかったのに、友人の恋人が自分に心移りしてしまう……
そうした言葉が並ぶ桃花のSNSには、絵梨と比留川のことも、随分桃花に都合よく脚色して書き込まれていた。
その書き込みによると、絵梨はとっくに愛情の冷めている比留川の同情を引いて、なんとか彼を繋ぎ止めようと足掻いている可哀想な女らしい。
「二人とも最低だな」
雅翔の呟きに、仕事をしつつ話を聞いていた幸根も頷く。そして、絵梨に同情的な視線を向けて言った。
「その部長の娘さんって、なかなかいい性格みたいだね」
これまでの桃花の言動を思い出し、絵梨が唸る。
郁美の言葉を借りるならば、『恵まれた環境に生まれた桃花は、自分を特別な存在だと信じて疑わない』のだそうだ。
特別な存在の桃花は、愛されて大事にされることが当然だし、人を傷付けても構わない。そんな思い上がりが、今の桃花の性格を形成しているのだと、郁美は言っていた。
なかなか手厳しい意見だけど、絵梨の知る桃花の言動からも、そういったことを感じられる面が多々ある。
都内で親と暮らし、お金に不自由したことがない。家事の全てを母親に任せ、お給料を全部お小遣いにしている桃花には、自分の外見を磨くお金も時間もじゅうぶんにあるのだろう。
それ自体は別にどうでもいいのだが、彼女はこれまでも、絵梨に向かって「自分のこと自分でしなきゃいけないなんて可哀想」「地方出身って、お洒落にお金使えなくて可哀想」など、同情の体を装って、あからさまに見下した発言をしてきていた。はっきり言って不愉快だ。
「負け惜しみかもしれないですけど、ちゃんと仕事をして、誰にも迷惑をかけずに生活していることは、可哀想じゃないです」
それだけは譲れないと、語気を強める絵梨に雅翔が頷く。
「そうだね」
「ちゃんと自立してる絵梨ちゃんに向かって可哀想って……、その子どんな感覚してるんだよ」
苦い顔をする幸根に、絵梨は困ったように笑う。
「それはきっと、私の家庭の事情に対する嫌味も込められているんだと思います」
「どういう意味?」
「私、両親がいないんです。たぶん、それを彼から聞いて、私のことを『可哀想』って言ってるんだと思います」
隠しているわけではないが、公言しているわけでもない。
両親が早くに離婚して、母方の祖父母に育てられた――そんな断片的な情報で、『可哀想な子』と、決めつけられるのが嫌だったからだ。
「小さい頃に両親が離婚して、どちらも私を育てられない事情があったので、母方の祖父母に育てられました。だけど、大学まで卒業させてもらったし、そのおかげで好きな仕事に就けました。だから自分ではラッキーな方だと思ってます」
正直に言えば、多少の強がりもある。
それでも祖母が言うとおり、人生に幸せも不幸も同じ数だけあるのなら、不幸に溺れることなく、少しでも多くの幸せを見つけられる人でありたい。
だからこそ、離婚後、それぞれ早々に新しい家庭を築いた両親のことも許すことができた。絵梨を重荷に感じながら無理して育てられるくらいなら、好きに生きてもらえてよかったと思うことにしている。
「そういう考え方が出来るだけでも、絵梨ちゃんは間違いなく幸せな人だよ」
雅翔の言葉には、少しの同情も感じられない。
上辺のわかりやすい情報だけで絵梨を判断することなく、絵梨の考え方を踏まえて肯定してくれていることが嬉しい。
「ありがとうございます」
お礼を言ってカップを手にする。そんな絵梨の視線の先で、幸根が腕組みした。
「なにも知らずに、生い立ちだけで可哀想と見下すとか、ブランド物の財布持ってるだけで勝ち誇るとか……、その部長の娘さんは、なかなかにムカつく存在だな」
「確かに」
幸根ほどの激しさはないが、雅翔も渋い顔で頷く。
「しかしブランド物を持ってるのが、そんなに偉いのかねえ」
呆れる幸根に、雅翔がパチンッと、指を鳴らした。そして、その指を絵梨に向ける。
「手始めに、そこから始めようか?」
「え? どこからですか?」
不思議そうに首をかしげる絵梨に、雅翔が目尻に皺を作って微笑む。
「復讐だよ。その自慢大好きな部長の娘さんに、悔しい思いをさせるっていうのはどう?」
そう言われて、復讐のことを思い出した。
確かにこのままやられっぱなしは辛いので、少しぐらい復讐をしたい気持ちになっている。
桃花を悔しがらせる。もしそれが成功すれば、プライドの高い桃花のことだ、しばらく絵梨と距離をおいてくれるかもしれない。
――それはちょっと嬉しいかも。
思わず表情が明るくなる。そんな絵梨を見て、雅翔も表情を明るくする。
「でもどうやって、悔しい思いをさせるつもりですか?」
その方法が思いつかない絵梨に、雅翔が得意げな顔をする。
「今は秘密。……でも俺にいい考えがあるから、方法は任せてくれない?」
「……」
どんな方法なのか気になる。そう思いつつ絵梨は頷いた。
「さっそくだけど、絵梨ちゃん、今度の週末はなにか予定はある?」
「土曜日も日曜日も、なにも予定はないですけど……」
「じゃあ両方、俺と出かけるから空けといて」
雅翔は、そのまま待ち合わせ時間を決めていく。
よくわからないけど、なにか思いついたらしい。その証拠に、彼の端整な顔には悪巧みを楽しむような笑みが浮かんでいる。
「あの、どこに行くんですか?」
「それは、当日までの秘密」
唇に人差し指を当てる雅翔は、絵梨がいくら聞いても詳細を教えてくれなかった。
困り顔で黙り込む絵梨を見て、雅翔は楽しそうに目を細める。
その表情が本当に楽しそうなので、絵梨はその表情を壊してしまうのが嫌で、それ以上の追及を諦めた。
「わかりました。じゃあ、楽しみに週末を待つことにします」
「うん。そうして」
微笑む雅翔に、絵梨も頷き返した。
◇ ◇ ◇
「今日はメッセージなかった?」
絵梨が帰った後、テーブルランプの下を確認する雅翔に幸根が聞く。
「まあ、必ずメッセージを残すって決めてるわけじゃないし」
そう返しつつも、がっかりする表情をごまかしきれない。
雅翔の内心を見透かしている幸根が、ニヤニヤと笑った。
「そんな顔するなよ」
「これが普通の顔だよ」
「じゃあ、さっきまでのお前が、よっぽどニヤけてたってことだな」
ああ言えばこう言う。眉を寄せてため息を吐く雅翔に、幸根が苦笑しながら声をかける。
「もう、一年以上になるな」
「なにが?」
「お前と絵梨ちゃんが知り合ってから」
雅翔は、カップとソーサーの間に敷いてあるピンク色の和紙を引き出す。
桜の花びらの形に切り抜かれた和紙を照明にかざすと、絡まり合った繊維の中に金箔が透けて見えた。
「よくそんなに続いてるよな」
「そうだな……」
絵梨との間で交わしたメッセージの数々を思い出しつつ、雅翔が口元で笑う。そんな雅翔をからかうように幸根が言った。
「お前が来るようになってから、もう一年以上か。まったく、店をオープンさせたのは去年の春だったのに、半年近くも顔を出さないなんて、薄情な奴だよな」
「だから、忙しかったんだよ」
信頼しきっていた幸根の抜けた穴が大きくて、体制を整えるのに苦労していたとは口にしたくない。
雅翔は、悔しさを悟られないようにそっぽを向く。
「まあ、頼りになる俺が辞めて、困り果ててたんだよな。お前、なんでもかんでも自分で背負い込んで、いっぱいいっぱいになるタイプだもんなあ」
幸根に見透かされて、顔をしかめる。
「……」
幸根とは、殿春総合商社の同期だった。
周囲が次期社長の雅翔の扱いに戸惑う中、幸根だけは違っていた。
入社当初から「カフェの開店資金を貯めたらすぐに辞める」と公言していた幸根は、雅翔に媚びることも遠巻きにすることもなく、ただの同期として雅翔に接してくれた。
そして彼は宣言どおり、就職から五年で会社を退職し、このカフェをオープンさせたのだ。
一緒に仕事をしていた頃の幸根は、いい意味で肩に力が入っておらず、効率重視のスマートな仕事ぶりで非常にやりやすかった。
だからこそ、幸根が仕事を辞めた直後は、虚栄心と出世欲の強い部下とのやりとりに疲れ、仕事も気持ちもいっぱいいっぱいで身動きが取れなくなっていた。
特に、幸根の後任として自分の補佐に就いた部下には、悩まされた。
その部下は、大手総合商社への就職が、双六で言う「あがり」の状態だと思っている節があった。だからか、無事大手企業に就職をした自分は完璧な状態なのだから、今さら成長も努力もする必要がないと、言外ににおわす働き方が目についた。
自負心が強過ぎ、仕事を否定されるたびに拒絶反応を起こしていたのだ。
例えば、整理を頼んだ資料の仕上がりが不十分で雅翔が手を加えたら、「自分なりに頑張ったのに」「それなら自分でやればいいのに」と、露骨に不機嫌な態度を取ってくる。
そうかと思えば、「もっと責任のある仕事を任せてください」と言うので任せたら、期限ギリギリに「頑張ったけど、やっぱり無理でした」と、突き返された。
当時の大変さをまざまざと思い出し、雅翔が唸る。
「あの頃は本当に、大変だったんだよ」
件の部下は、雅翔が自分の努力を評価しないことに不満な様子だった。だが、雅翔の考えとしては、頑張っただけで褒められるのは学生までだ。
何度、「小学校の持久走じゃあるまいし、仕事は頑張ればいいってものじゃないからな」と、怒鳴りたくなったことか。
しかし、雅翔の立場でそれをすれば、パワハラと騒がれかねない。だから雅翔はひたすら堪えて、孤軍奮闘仕事に励むしかなかったのだ。
「俺って、いい社員だったでしょ」
幸根がニヤリと笑う。
「ああ。心からそう思うよ」
幸根はいつも「給料分の仕事しかしない」と、公言していた。そしてその言葉のとおり「努力を褒めてもらうため」ではなく「賃金に値する働き」をしていた。
もし幸根が、殿春総合商社での出世を望んでいたら、下手をすれば雅翔より早く上にいっていたかもしれない。
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