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想像以上の夏

050 懇願

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薄暗い瑠璃の部屋の中、ほんの少しばかりの月明かりが差し込むのでうっすらとしか視界は確保されていない。
そんな中で、まるでこれから一夜を共にしてしまうかのような空気感が漂うのは潤が勝手に思っているだけなのだが、この感覚を瑠璃も感じているのだろうかと思ってしまう。

その場には困惑と混乱だけしか存在していない。他にも覚える感情は多々あるのだが、そんなことは今どうでも良かった。

「――このままでいいの?」
「はい、お願いします」
瑠璃の声が震えているのがわかる。本意ではないのかもしれない。ではどうしてこんなことをしているのか、考えても答えが出ない。
絶対に意味がなくこんなことをする子ではないと理解しているので、仕方なくこのまま話を聞くことにした。

「それで、俺としては正直戸惑っているんだよね……」
「知ってます!けど、先輩はどきどきしませんか!?」
「いや、そりゃドキドキしてるよ!むしろドキドキしっぱなしだよ」

潤の意思を曖昧に伝えるが、瑠璃はそれを承知の様子で意思よりも感情を尋ねる。思ったままの感情、それは素直なままで嘘偽りはない。

「瑠璃ちゃんがどうしてこんなことをしているのか正直わからないよ」
「先輩は私の気持ちを知っていますよね?」
「まぁ、うん、あれから変わってなければだけど……」
「変わっていません!何も!ううん、変わりました!前よりもずっとずっと先輩が好きになりました!」
「あのさ、どうして俺のことそんなに好きになったのか聞いてもいい?……また怒らせるかもしれないけど」

視線が合わないまま会話だけが続く。
向けられる気持ちに対して、それだけ好かれるような自信はない。それだけのことをしたような覚えもない。

「先輩を好きになった理由ですか。じゃあ話す代わりにお願いを聞いてくださいね?」
「お願いと言われても、俺にできることならだけど」
「はい、先輩にもできることです」
「じゃあ、うんわかった。何をすればいい?」

どんな要求をされるのかわからないのだが、目を伏せたまま要求されることに対してまずこの状況をどうにかしないといけないなと思う。

「……先輩、もう一度、もう一度だけキスさせてください」
「えっ!?」

もう一度と言われても、さっきは不意討ちをされたのだ。それを、同意を求められて承諾していいものか迷ってしまう。
迷う理由は明白だ。先程重ねられた唇の感触が忘れられない。
それほどの柔らかさと気持ち良さ、そして名残惜しさを残してしまっていたのだから。

それでも―――。

「そんなこと――」
「――できますよ、してください」

それでもなんとか感情を抑え込み断ろうかと思うのだが、差し込むように口を挟まれた。確かに出来ないことはない。やるかやらないかだ。

数秒迷ってしまう。
先程の柔らかな感触はただ触れているだけでも相当気持ちが良かった。
もう一度あの感触を得たいと思うのは本能的な部分だということはこんな状況でも冷静に分析できていたのだが、本能と理性の狭間で揺れる。

ぐっと手に力がはいる。
繋がれた指に力が入ることを感じた瑠璃も少しばかり身体を固くさせる。

ゆっくりと、ゆっくりと瑠璃に顔を近付ける。本当に可愛らしい、うっとりとしたその眼は見ていると惹き込まれそうになる。

顔を近付けてはいるのだが、それでも本当にキスをしてしまってもいいものかと迷ってしまう。

それでもしかし、欲求に勝てずにそっと瑠璃の唇に自分の唇を静かに重ねる。
先程得た気持ちの良い感触。柔らかな感触が再び訪れる。
このまま重ねた唇をどうしたらいいものか具体的にはわからないのだが、それでも動かしてみる。
離れそうで離れない重なったその唇は小さな音を立てる。同時に瑠璃の息遣いが、吐息が口腔内に入ってくる。
そのまま本能的に舌を重ね合ってしまっていた。

―――。

―――――。

―――――――。

どれほど唇を重ねていただろうか。キスに夢中になってしまっていることに今更気付いた。


「―――はぁ、はぁ、はぁ……せ、せん、ぱい?」
「な、なに?」

瑠璃が震えるような声で、懇願するような声を放つので耳を傾ける。その表情もまた色っぽくて可愛らしい。

「このまま、抱いて、くれませんか?」
「――!?」

その言葉を聞いて動きが止まる。止めるつもりはなかったのだが、止まってしまった。考えないわけではないのだが、いざ言葉にされることで現実感が増す。

潤の動きが止まるのを体感している瑠璃は、どうして止まってしまうのかという意を示すように不思議そうに首を傾げた。

数秒の沈黙が流れる。

「…………ごめん、こんなことしておいて言える義理じゃないかもしれないけど、無理だ」

止まった動きをもう動かす気にはならない。
その意思を感じ取ったのか、瑠璃は優しい笑みを浮かべて、繋がれていた手をそっと離した。

「……先輩ならそう言うと思ってましたよ」

浮かべた笑みのまま、ぽつりと涙が頬を伝った。


「……もしかして、俺を試したの?」
「そういう言い方もできますけど、先輩が手に入るなら本当にこのまま抱かれてもいいと思っていましたよ?」
「どういうことか聞かせてもらっても?」
「はい、そう約束しましたから」

涙を一滴流した後は、いつもの瑠璃の表情である。しかし、物憂げで儚げな少女の表情を見せている。先程の恥ずかしさはあるのだが、二人きりだ。今なら何でも話せる気がした。



暗い瑠璃の部屋、電気を点けることがないのは何でも話せるとは言ってもまだ明るい電気の下でお互い顔を見ることができないので自然とそのままだった。

二人ともベッドを背もたれにして隣り合い座る。

「まず、一つずつ話しますね」
「うん」

そうして瑠璃は、中学の時のことを遡る様にして話す。

「私が先輩のことを知ったのは、杏奈ちゃんのお兄さんとしての先輩じゃないんです」
「えっ!?そうなの?」
「はい、お互い全く知らない状態で、中学の渡り廊下ですれ違った時に先輩のことを知ったんです。名前はその時に」
「そんなことあったかな?ごめん、覚えてないんだけど?」
「だと思いますよ。私の方が一方的に覚えただけですから」

断片的に話す内容に潤は全く覚えがない。その時の状況をより詳細に話す。

それは、中学一年で既に胸の大きな瑠璃は、身長の低さも相まってコンプレックスに感じていた。同級生以外にも二年生・三年生にもすれ違いざまに囃し立てられることがあった。
聞こえていないところで言われるならまだしも、微妙に耳に入る。
そう言われることに少しばかり慣れてしまった頃、周囲の同級生も同じように成長する子も多くはないが多少はいるのでコンプレックスもいくらかはマシにはなった。
秋、そんな中でのひと時、渡り廊下ですれ違った際に同じように二年生の先輩たちに言われた。

『おい、あの子、胸大きいな!それにめちゃくちゃ可愛いぞ!』
『あほかお前は。可愛いは褒め言葉だけど、胸の大きさは人によっては気にするみたいだからあんまりそういうこと言うなよ?』
『んー、そっか、そうだな。すまん潤ありがと、気を付けるわ。聞こえてないといいけどな』
『どうだろうな?聞こえてたらお前は嫌な思いをさせたかもしれないってことだからな』

『―――潤、先輩、かぁ……。初めて言われたなそんなこと』

遠く離れていく会話。
すれ違いざまだったので振り向いても後ろ姿と名前しかわからなかった。同学年の男子なら大体わかるのだが違った。
そこで初めてのことで潤の名前を覚えてしまうのだが、一年の時は潤が誰だかわからなかった。

二年になって杏奈と同じクラスになり、その気さくな性格の杏奈と何故かすぐに仲良くなった。杏奈の方から瑠璃に声を掛けたのだが妙に気が合った。
その杏奈の兄が潤だと知るのにそんなに時間が掛からなかったのだ。

それから学校でも杏奈の家でも潤のことを自然と目で追うようになる。好きとは違う、ただ気になるだけだった。
杏奈と仲良くならなければそれもなかったかもしれない。杏奈は瑠璃にとって本当に親友と呼べる友達だった。そんな杏奈の兄がどんな人で、何故あのような言葉を言えたのかが気になった。他の男子と何が違うのだろうと。

ただ、直接的な接点がなく、常に杏奈を介してしか潤と接することはなかった。だが、そんな少しだけの関りでも潤の優しさを実感できた。年上ということも相まって憧れを持ち始める。


「そっか、ごめん」
「い、いえ、謝ることじゃないですよ!」

瑠璃の話を聞いて申し訳なくなるのだが、瑠璃は両手を振る。

気になるということからいつの間にか好きになっているということになるのだが、それが明確にいつからなのかは自覚はない。自覚したのは、潤が卒業した後、中学で顔を見ることができなくなってからだった。妙な寂しさに襲われ、その感情が好きだと自覚するのは、高校生になった潤を杏奈の家に遊びに行った時、顔を見た時だった。

それから想いを募らせ、告白するきっかけは初詣になり、そこから先は潤も知るところ。


「そうなんだ、ありがとう」
「そのありがとうは嬉しいです」

にこりと微笑まれる。向けられた笑顔が可愛らしい。


「そんな先輩だから、私が誘惑しても絶対に乗らないって思ったんです。まぁ私初めてあんなことしたから誘惑って言ってもよくわからなかったんですけどねぇ」
「いや、それについてはごめん、かなりヤバかった。ぶっちゃけ流されそうだった」
「えっ!?」
「瑠璃ちゃんが凄く、それこそもの凄く可愛く色気があったから」
「そ、そんな……」

恥ずかしそうに思い出す瑠璃の言葉を受けて、潤も瑠璃の甘い声を思い出す。それだけで心臓の鼓動が早くなる。だが、さっきの瑠璃の言葉を聞いて同時にその行動が差す意味も多少は理解した。
隣には俯いて顔を赤らめている瑠璃がいる。暗いので赤らめているかどうかはわからないのだが、断言出来るほどに瑠璃の様子はそう見える。

「けど、瑠璃ちゃんは俺が止まるって信じていたんだよね?」
「はい、今のを聞いて正直惜しいことしたとは思いますけど、先輩の中には花音先輩がいますから」

そうだ、だから瑠璃は潤が止まると思っていたのだった。その信頼と期待を裏切りかねない程に揺らいでしまっていたのだが、もしそうなったらそうなったで瑠璃を真っ直ぐ見るつもりもあったとは今思っていることで、そうなった時のしこりがどうなるかなんてわからない。

「でも―――」

瑠璃は顔を上げて潤を見上げる。

「もう一度言います。 先輩が、先輩が好きです。 大好きです! もし……先輩が花音先輩を諦めるのなら、私を見てもらえませんか? お願い、します! 私なら、先輩をあんなに、あんなに悲しい顔になんてさせません!絶対に!」

決意と覚悟と懇願と戸惑いの入り混じった複雑な感情を言葉と表情に織り交ぜながら二度目となる告白をした。

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