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ねぇ、お兄ちゃん、一緒に帰ろう?

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「お兄ちゃん、一緒に帰ろう?」
 振り返ると、危なっかしい足取りで駆け寄ってきて、僕の手より少し長いコートの袖をギュッと掴む――ランドセルを背負った女の子がいた。はて? 僕に妹などいただろうか?
「お兄ちゃんどうしたの。……もしかしてまた彼女さんに振られたんだ。そうなんでしょう?」
 ふむ……僕に彼女がいた記憶など微塵もないのだが。この子はいったい何を言っているのだろうか。人違いもいいところだ。
 しかしどうしたものだろうか? この状況はあまり良くない。人に見られる前になんとかせねば。
 女の子はきょとんとした顔で僕を見つめてくる。
 ……いや何かがおかしい。この子はいったいどこを見ているんだ。微妙に顔の位置から視線がずれているような……目の焦点もいまいち合っていない。不気味だ。こういう輩とは関わらないのが一番だ。
「お兄ちゃん……どうしたの?」
 女の子は袖を引っ張り、どこか不安げな表情だ。どういうわけかいまだに僕を"お兄ちゃん"だと勘違いしている。
 ――さてどうしたものか。



 おかしい。いつもなら手を握ってくれるはずなのにそっけない。
 それになんだか"匂い"もおかしい。いつも感じてるお兄ちゃんの匂いに別のものが混じってる感じ。そういえばお兄ちゃん最近香水をつけ始めたって言ってたな……そのせいかもしれない。
 でも香水以外の匂いも混じってる気も……なんだろうこの匂い。嗅いだことのある匂いだってのは分かるけど、なんだったっけ?
 サビついた匂い、鉄かな? でもなんでお兄ちゃんから鉄の匂いがするんだろう?



 女の子は袖を離した。この場を去ろうとしたとき、僕はある音が近づいてくることに気づいた。ちっ、このガキのせいで無駄な時間を食ってしまった。
 僕はさっと自分の全身を確認した。不備はない。慎重に去るんだ。不穏な動きを見せてはならない。悟られてはいけない。これまでの苦労が無駄になってしまう。
 逸る気持ちを抑え、普段どおりに足を動かした。問題ない、いつもと同じだ。少し時間を食ってしまったが、問題ない。そうだ問題ない。――そのはずだ。



 聞き覚えのある音が耳に届いた。――パトカーだ。何か事件でもあったのかな?



 この子、どこか見覚えがある気がする。はてどこで見たんだろう。そんなに前じゃないような気がするのだが……僕の脳裏にはある一つの光景が蘇っていた。
「――死なない。死んでたまるか。俺が死んだら誰があの子の目になってやるというんだ。死なないぞ……し、死なな……」
 ――さっき僕が"殺したあの男"に似ている。
 あの子の目になる……? そうか、つまりこの子は目が見えない。だから"あの男のコートを着た僕"に兄の匂いを感じ取ったということか。
 そうだな。この子も人目のないところに連れて行って、あの男のように――
 そして僕は手を差し伸べた。


「お兄ちゃん、一緒に帰ろう?」
 あれ? この手、お兄ちゃんじゃ……ない……?
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