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僕は振っただけです。

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 ――僕はナイフを振りたかっただけだ。人を殺したかったわけじゃない。ナイフを振った軌道上に首があっただけだ。彼は死んだけど、僕に殺意はない。これって殺人じゃなくて事故だよね。だって僕はナイフを振りたかっただけなんだから――。




 私の彼氏は警察官だった。彼は正義感溢れる人で、まっすぐな目に私は惹かれた。
 いつだって彼は人のことばっかりで、自分なんて二の次。私とデートしている時だって、困っている人を見れば放っておけず、デートを放り出す人だ。
 警察官は彼にとって職業ではない。生き様だった。そんな彼だから私は好きになった。
 彼はヒーローだった。私にとって、みんなにとって、憧れのヒーローだったのだ。だから許せない。私から彼を奪った少年が憎い。殺してやりたいほどに。




「なるほど。あなたは彼の恋人だったわけだ。それで僕に何を望む。言っとくけど、僕に殺意はなかったよ。当たり前じゃないか。僕は見てのとおり、十七歳の高校二年生だ。人を殺す度胸なんてない。ましてや人を殺したいなんて思ったことすらない。いやいや、ホントだよ?」
 少年は私が彼の恋人だと知っても、顔色一つ変えない。罪悪感なんて微塵もない。自分が悪いとも思ってない。申し訳なさそうな目すらしなかった。
「彼の命を奪ったことは事実でしょ?」
 少年の言い分なんてどうでもいい。仮に殺意がなかったとしても、命を奪ったことに変わりはないのだから。
「まぁね。僕も運が悪い。ナイフを振っただけなのに、まさか人の首を切り裂いてしまうとは。彼が死んだせいで、僕の人生は台無しだ。せめて生きていれば良かったのに。彼はひとでなしだね」
 目の前が真っ赤になった。彼のせいにする少年に怒りがこみ上げる。許せない許せない許せない。
「全部お前のせいだ!」
 少年が死ねば良かったんだ。死ぬべきはお前だ。お前が生きているから、彼は死んだんだ。
 彼は正義のヒーローだった。世界を救うには小さな犠牲は止む無し。少年はまた人を死に追いやるだろう。彼の変わりに私が正義を執行する。
「なんだいその手は? あぁ、僕を殺す気なのか。殺人は良くないよ。ほんと、良くないよ」
「お前が言うな!」
 私は少年の首に手を伸ばした。苦しんで死んでもらうために。
「だから僕は人を殺したわけじゃない。ナイフを振っただけだ。あなたも言えばいい。ただ手を伸ばしただけだと。強く握り締めただけだと。その結果、僕が死んでもあなたは人殺しじゃない。あなたが人殺しなら、僕も殺人者になってしまう。それは嫌だからね。さぁ、あなたはどうする?」
 私は少年の恐ろしさをようやく理解した。少年にとって死は恐怖ではない。首を絞めたって苦しまないだろう。
 少年が恐れているのは人殺しだとされることだ。
 ならば私がすべきことはただ一つ。
「私はあなたを殺す。あなたを殺人者だと、あなた自身に認めさせるために」
 少年の顔が歪んだ。そこにあるのは怒りだ。多分、私も似たような顔をしていることだろう。今の私は怒りの化身だ。少年を殺さないと怒りは収まらない。
「認めろ。あなたは人を殺した。あなたは私と同じ殺人者だ」
 少年の息が荒くなる。じたばたともがいている。いい気味だ。私の怒りを知れ。人殺しめ。
「違う違う違ーう! 僕は殺してない。ナイフを振っただけだ。あれは殺人じゃない。事故なんだ、事故なんだ、事故なんだよー!」
「いいえ殺人よ」
 少年の顔が憤怒に染まった。手を伸ばしてくる。
「私の首を絞めるつもり?」
 奇妙な顔だった。怒っているようで笑っている。人を馬鹿にしたような嘲る顔。何かがおかしい。私はとんでもない失敗をしたのではないか。そんな気持ちにさせられる。
「いーや……だよ?」
 目の前が赤く染まった。手に力が入らない。私を見下ろす少年の顔が目に入る。何かを言っている。何も聞こえない。何を言っているのかが分からない。何も分からない。
 私はどうなるの?




「言っとくけど、僕はあなたを殺したわけじゃない。ナイフを振ったに過ぎないんだよ。って、もう聞こえてないか」
 物言わぬ女を蹴飛ばした。首からごぼっと血が溢れてくる。床が赤黒く染まった。
「何で誰も来ないのかな。ここは取調室なのに。そもそもどうして彼女だけ部屋に入ってきた」
 僕は部屋の入り口で倒れている取調官をまたいで外に出た。
「彼女さえ来なきゃ、とっくに外に出てたんだけどなぁ」
 外に出ると異臭がした。取調室に漂っているのと同じ臭いだ。廊下には死体が散乱していた。どの死体も首を切られている。
「どうりで誰も来ないわけだ」




「何だこれは?」
 聞き込みを終え、署に戻った一人の刑事を待ち受けていたのは、血なまぐさい死体の数々だった。
「荒田ー、池澤ー」
 刑事は同僚の名前を呼んだ。生きていてほしいと願った。彼は署内を走り回った。どこもかしこも死体だらけ。生存者は見つからない。
「どうしてこんなことに」
 彼は死体を見ているうちに気づいた。どの死体も首を切られていることに。脳裏を過ぎるは一つの事件。十七歳の少年の手による警官殺し。
「たしか署内にいたはずだ。逃げ出したのか?」
 彼は少年がいたはずの取調室に向かった。廊下には無数の死体。鼻をつく強烈な臭いに思わず顔をしかめた。
 取調室のドアは開いている。彼の喉がごくりとなった。腰のホルスターに手を伸ばす。万が一の事態に備え、武器庫から持ち出したのだ。
「仲間の敵討ちだ」
 彼は拳銃を構え、部屋の中に飛び込んだ。
「動くな! 手を上げ……」
 少年はいた。――物言わぬ死体となって。側には一人の女が座っている。
「あら、こんばんは」
 女はにっこりと微笑んだ。ごぼっと音が鳴った。首から血があふれ出ている。彼はゾクリとした。
「あんたがやったのか?」
 彼は尋ねつつ、拳銃を女に向けた。いつでも撃てるようにだ。
「やったとは?」
 女は不思議そうに首を傾げている。彼は吐き気がした。首が千切れそうになっているのに、平然と言葉を交わす女におぞましさも感じている。
「そいつを、みんなを殺したのかと聞いているんだ!」
 彼の怒号に女はきょとんした。少年に目をやり、それから落ちていたナイフを拾った。
「私は誰も殺してない。私の首を切ったのは、この子だもの」
「じゃあ、そいつを殺ったのは誰だ?」
「知らない。でも首を切ったのは私」
 女はナイフを振り回しながら、ふふっと笑った。
「あんたが殺したんじゃないか」
 彼の言葉に、女は目を見開いた。プルプルと唇を震わせ、ナイフ片手にゆらりと立ち上がった。
「おかしなことを言う。私はただナイフを振っただけ。少年は運悪く、死んだの。殺人じゃなくて事故よ。少年は私を殺そうとしたけど、私は違うわ。外のみんなだってそう。私がナイフを振り回してたら近づいてきたの。彼らから近づいてきたんだもの。死んだって自業自得。私は悪くないよね。だってナイフを振り回してただけなんだから。人を殺そうなんて思ったこともない」
 彼は少年の取調べに立ち会った刑事の一人だった。少年と同じ、いやそれ以上の狂気を感じた彼は思わず引き金を引いてしまった。
 弾は吸い込まれるように女の額に向かった。真っ赤な花が咲く。彼女は後ろ向きに倒れた。
 彼は恐る恐る女に近づく。手を伸ばし、脈を確認した。動いていない。死んでいる。本当に?
 彼の脳裏には、首から血を流しながら動く女の姿がこびりついている。ありえないと分かっているはずなのに、また動くのではないか、そう思えてならない。
 彼は女の死体に向けて、拳銃を発砲した。何度も何度も。顔面を踏みつける。何度も何度も。取調室の椅子を叩き付けた。何度も何度も。
 警察署の様子がおかしいと通報を受けた別の署の刑事が駆けつけるまで、彼は女の死体を破壊し続けた。




 彼は後に語る。――俺は撃っただけだと。
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