遠き御国

満井源水

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汝の隣人を 3

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「インドの工場建設予定地候補、リストアップしたので確認お願いしますね」

「ああ、ありがとう」

 窓の外を見る彼は、爽やかであどけない少年性と、大人の艶めくような色気と風格が調和した魅力に充ちている。フェロモンではないが、何かこう麻薬じみた物質を帯びているような気さえする。

「我々のように人間は、それなりの数いるんだよな」

「そのようですね」書類から目を離さずに答える。

「それなら、苦しい人生を送ってる奴らにも見えているのがいるわけだろう」

「まあ、そうでしょう」

「そういう奴らって、何のために生きてるんだろうな。とっととくたばったほうが楽なんじゃないのか」平気な顔で差別。よくこれで社長になれたものだ。いや、この慈悲の無さでのし上がったのか。

「わかりませんよ。」

「君は死にたいとか思わないのか?」

「いえ別に。特に死にたくなるほどの苦悩はありません。頑張って生きるのもバカらしいな、と思いますが」

「ほう。現状に満足しているのか。君のような奴は死が救いであることを支えにいきているものかと」吉備社長が嘲るように笑う。

「そう言う社長はどうなんですか」

「ありあまる金を持ち、気に入った女は抱けて、気に入らん奴は消せるような立場にあって、そんなこと考えると思うか?」あまりにも傍若無人。

「昼飯にしよう」と社長が言い出したのは午後3時半。長引いた会議の疲れを残した顔で、年老いた夫婦の営む定食屋に向かう。普段の振る舞いはステレオタイプな成金の豪奢遊蕩なのに、こんなところは庶民派だ。緑の壁は一部黒ずんでいるし、客の大半はタバコの煙とスポーツ新聞を広げるサラリーマン。価格が安い分、相応の味でしかないため、正直なところ、あといくらかお金を出してもう少しいい店に行きたいなあ、と思う。でも社長いわく「こういう所で食うのが良いんだよ」らしい。もしかしたら、この店の味付けが濃い味好きにウケるせいかもしれない。舌は肥えていないのだろう。

 おやつの時間も過ぎたころ。大衆食堂の客は、カウンターに座る私と社長しかいなかった。天井の角あたり、棚の上の四角い箱が映すワイドショー。テロップが目に入る。

「え、これ大丈夫なんですか」小声で問う。

「よくあることだろう」画面を見もせず社長が言う。

「でも状況が違いますよ」

「人ひとりふたりの命じゃ何も変わらんさ。政府だって完全にアメリカの言いなりになってる」

 まあそれもそうか。それなら一安心。

「あの男は優しい目をしてる。人殺しの顔じゃあねえ」三歩分遠くから定食屋の親父が会話に割り込む。会話は聞かれていなかったようだ。我々はそんな心配微塵もしていない。だいいち目を見ただけでそんなことわかるものか。

「無事だといいですね」心の底から憂えるような顔。社長は善人のふりが上手い。

   ♦

 いくらなんでも迂闊すぎる。『君のお父さんが大きな怪我をした。今、病院にいるからすぐに来てくれ』なんて、小学生じゃあるまいし。それでもバカみたいについて行ってしまったのは、何かを失うことに怯えているからだろう。大事なものが指の隙間から抜けていくたび、俺の心のどこかがすり減っていった。もし次に、例えば友達とか親父に何かがあったら、俺はもう自分の足で立てないかもしれない。

「騙して悪いね。」

「何するつもりなんだよ」

 俺は両手を挙げている。さながら銃を突き付けられた人質のように、というか現在の状況はそれそのものだ。

「明日まで監禁されてもらう。大丈夫、上手く行けば君は程々の怪我で済む。」

「目的は」

「とある企業との交渉だ」

「何についての」

 男が右手でドアを開けた。左手の方が開けやすい構造だが、銃で塞がっている。

「センダーの製造をやめさせるのさ。」

「ああ、あの新兵器?」

「そうそう」

 埃っぽい部屋を進む。椅子とデスクが並んでいる。無人のオフィスみたいだ。

「条約無くした方がいいんじゃねえの?」

「僕たちの力じゃそこまで無理さ」

 奥まで進んだところで、伏せる人影が見えた。鎖と枷でがんじがらめの姿は、どこか滑稽に映る。

「あ」

「知り合い?」男は木島を見る。

「うん」

「そりゃ都合がよかった。監禁されるのも友達となら怖くないだろう」

「じゃあ、拘束させてもらう」

 鎖でつながれた哀れな人質は、これで二人になった。

「オッサンはさ、平和のためにこれやってんだろ?」木島が誘拐犯に問う。

「まあ、ある意味そういうことにもなる」

「協力するよ。手伝えることがあったら」

「じゃあ、彼と対話をしていてくれ。」

「それだけでいいの?」

「もちろん。それは後で重要な意味を持つさ。」

 ♦

 名前が呼ばれている。目覚まし時計以外の何か、あるいは誰かに起こされるのは何年ぶりだろうか。

「お、起きた?」
 
 誘拐された疲れが出たのか、なんだかこの日本語は不自然だがともかく、ぐっすり眠ってしまっていた。無理な体勢だったせいで首と腰が痛い。眼前には昨日連絡先を交換した男が転がっている。何から何までおかしな状況だ。

「えっと……木島、だっけ」

「そうそう、覚えてくれてんじゃん、嬉しいぜ。」

 俺が言えたことではないが、緊張感が無い。

「助けに来てやったぞ」左の二の腕に巻かれた緑のバンダナを見せ、木島がポーズを決める。

「君も捕まったように見えるけど」

 木島がチッチッっと舌を鳴らす。

「これも作戦だよ。油断させるためのな」そういう木島の顔は、何かに怯えているようだ。

「どうかした?」

「あ、いや、怪我、痛そうだなって思って……」

「大丈夫だよ。見た目ほど痛くないから」

「そ、そう。ならいいんだ」なんだか煮え切らない言い方。

 沈黙。大して親しくない相手とのそれ程苦痛なものはない。お互い向かい合わせで壁にもたれ、沈黙など気にしていないふり。

「何か隠してる?」突然のことに面食らったのか、木島はわかりやすく取り乱す。

「は、え、いや、何でもねえ……ことも……ねえか」

「おめーが寝てるとき聞いたんだ。あのオッサン、俺たちのうちどっちかは片方は確実に殺す気だ。」

「そうか」

「な、何でそんなに他人事みたいなんだよ」

「えっと、実は____」

「おっと。一旦黙ってくれ。」木島が制止する。

 階段をテンポよく靴裏がノックする音。ドアの前で止まる。

「やあ、ただいま人質諸君。」ドアが開く。
 
「朝飯抜いたから腹減ったんだけど。」緊張感の無い男だと思ったが、まさか誘拐犯本人を目の前にしてもそうだとは。

「明日失う命に必要かい?君たちは人質だ。僕の機嫌一つで撃ち殺すことも出来る。長生きしたいなら丁寧な言葉遣いを心がけてくれたまえ」

 男の昨日言っていた内容からして、機嫌を損ねた程度で殺すことも考えにくい。しかし、誘拐なんてやってのけるクレイジーな人間を信じて行動するのは、あまりに短慮だろう。

「どこ行ってたの?」それでも木島は臆しない。いや、臆していないふりをしてる。不器用なやつ。

「買い出しだ。人質のライブ中継をするにあたって君たちを痛めつけようと思ったが、やりすぎて喋れなくなっても困る。だから程々で切り上げて、あとはメイクでごまかそう、というわけさ」

 こんなことを淡々と話している時点でやはりまともではない。

「決行は明日だ。今日は君たちを徹底的に痛めつける。食事も与えない。拘束は解かない。何か質問は」

 少し考えて、木島が口を開く。

「俺たちは殺されるとしたら、いつなんだ」

 しばし沈黙が流れて、男が答える。

「先方が僕の要求をすぐ飲んだら、君たちはすぐ解放する。ただ、そんなことおそらく無いだろう。」

「そこでまず訊いておきたいんだが、君たちに勇気ある友人はいるかな?」

 質問の意図を掴みかね、人質二人は言葉に詰まる。

「英雄足り得る存在はいるか、と訊いている。具体的には、銃を持った誘拐犯に立ち向かえるような」

「吉備と猿渡……かな」木島が小声で呟く。二人を巻き込むことに対する恐怖が表情にみなぎっている。

 誘拐犯の顔色が変わる。何か光明を見出したような目の輝き。上がる口角。「吉備……?おお、君たちは彼の友人か!ならば手間が省ける」小声で何か不気味に呟いている。

「では、その吉備くんと猿渡くん、でいいのかな?二人の連絡先は知っているかい?」

「没収されたスマホに入ってるよ」木島が顎で男のポケットを示す。

「なるほど、では英雄に選ばれたのは猿渡くんだ。」

「あれ、吉備って人じゃないの」つい訊いてしまった。さっきの口ぶりではてっきり吉備くんとやらがそうだと。

「言っちゃなんだけど、吉備の方がヒーローに向いてると思うよ。」木島の印象でも英雄足り得るのは吉備らしい。

「彼には他にやることがあるだろう。では、猿渡くんの外見的特徴について教えてくれたまえ」

 木島が天井を見上げる。「えっと、やせ形のメガネで、勉強できそうだなーってかんじ?あと、」

 木島が男を見据える。「腕に青いバンダナをつけてます。」

「よろしい」男はパチンと指を鳴らした。
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