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2月のマリアージュ
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二月の夜は、硬い氷の塊に似ている。
タワーマンションの最上階、磨き上げられた大理石のテーブルに、ミーナとカズキは並んで座っていた。ミーナは深い深紅のシルクを纏い、カズキはボタン一つにまで潔癖さが宿る白いシャツを着ている。その姿は、一幅の絵画のように完成されていた。
テーブルには二本の恵方巻。
「一本食べ終わるまで、何があっても喋ってはいけない」
二人が決めたそのルールは、単なる行事の模倣ではない。言葉という不確かな道具に頼りすぎて、すれ違い続けた二人に課された、最後のリハビリテーションだった。
二人は無言で南南東を向いた。
最初の一口を噛みしめた瞬間、ミーナの脳内では濁流のように思考が溢れ出す。
(沈黙は、こんなにも暴力的に私を内側から叩く。咀嚼する音が、まるでお互いの腹の底を探り合うノイズみたい。カズキは今、完璧な角度で恵方を向いているけれど、その横顔の美しさに酔っている自分を、彼はどこかで客観視しているんじゃないかしら。この静寂を美徳だと思っている彼の潔癖さが、今は少しだけ鼻につく)
ミーナは我慢できなくなり、傍らにあった金縁のレターセットを引き寄せた。万年筆の先が、紙の上で鋭い音を立てる。
「沈黙は、雄弁な嘘つきね」
カズキは咀嚼を止め、その文字をじっと見つめた。彼は少しも表情を崩さず、緻密な設計図を書くような正確な筆致で返した。
「嘘をつけないから、黙っているんだ」
張り詰めた空気の中、ミーナは恵方巻を咥えたまま、挑発するように書き殴った。
「私の舞台、本当は退屈だと思ってたんでしょ? 拍手しながら、心の中ではクローゼットの整理のことでも考えていたんでしょ?」
カズキの手が止まる。彼はミーナの目をじっと見つめた。その瞳は、清廉な湖のように静かだ。彼はゆっくりと次のページをめくり、たった一行、こう記した。
「君の喉の震えだけが、僕に世界を信じさせてくれる」
ミーナの瞳に、不意に涙が溜まる。感情の昂りと、口いっぱいに詰まった恵方巻。その滑稽な対比が、彼女の自尊心を激しく揺さぶる。 (泣いている私、今、最高にドラマチック。でも、恵方巻を咥えたまま泣くなんて、どんな舞台でもあり得ない)
カズキは彼女のそんな葛藤を見透かしたように、自分の恵方巻を最後の一口まで飲み込むと、ペンを走らせた。
「全部、飲み込んだら、名前を呼んでいいかな」
ミーナも最後の一口を、必死に飲み込んだ。それは、過去のしがらみや、互いへの疑念をすべて胃の中に流し込む儀式のようだった。
沈黙が、解ける。
「……ミ―ナ」
カズキの声は、冬の夜気のように透き通っていた。ミーナはレターセットを乱暴に閉じ、言葉よりも先に、カズキのシャツの胸元に顔を埋めた。
「もういい。何も言わなくていいから」
豪華なシャンデリアの下、二人は抱き合った。外を追い出すべき鬼なんて、初めからどこにもいなかった。二人の内側にいた、疑いという名の鬼が、たった一本の太巻きと、不器用な筆談によって退治されたのだ。
窓の外では、春の気配を孕んだ風が、静かに夜を撫でていた。
タワーマンションの最上階、磨き上げられた大理石のテーブルに、ミーナとカズキは並んで座っていた。ミーナは深い深紅のシルクを纏い、カズキはボタン一つにまで潔癖さが宿る白いシャツを着ている。その姿は、一幅の絵画のように完成されていた。
テーブルには二本の恵方巻。
「一本食べ終わるまで、何があっても喋ってはいけない」
二人が決めたそのルールは、単なる行事の模倣ではない。言葉という不確かな道具に頼りすぎて、すれ違い続けた二人に課された、最後のリハビリテーションだった。
二人は無言で南南東を向いた。
最初の一口を噛みしめた瞬間、ミーナの脳内では濁流のように思考が溢れ出す。
(沈黙は、こんなにも暴力的に私を内側から叩く。咀嚼する音が、まるでお互いの腹の底を探り合うノイズみたい。カズキは今、完璧な角度で恵方を向いているけれど、その横顔の美しさに酔っている自分を、彼はどこかで客観視しているんじゃないかしら。この静寂を美徳だと思っている彼の潔癖さが、今は少しだけ鼻につく)
ミーナは我慢できなくなり、傍らにあった金縁のレターセットを引き寄せた。万年筆の先が、紙の上で鋭い音を立てる。
「沈黙は、雄弁な嘘つきね」
カズキは咀嚼を止め、その文字をじっと見つめた。彼は少しも表情を崩さず、緻密な設計図を書くような正確な筆致で返した。
「嘘をつけないから、黙っているんだ」
張り詰めた空気の中、ミーナは恵方巻を咥えたまま、挑発するように書き殴った。
「私の舞台、本当は退屈だと思ってたんでしょ? 拍手しながら、心の中ではクローゼットの整理のことでも考えていたんでしょ?」
カズキの手が止まる。彼はミーナの目をじっと見つめた。その瞳は、清廉な湖のように静かだ。彼はゆっくりと次のページをめくり、たった一行、こう記した。
「君の喉の震えだけが、僕に世界を信じさせてくれる」
ミーナの瞳に、不意に涙が溜まる。感情の昂りと、口いっぱいに詰まった恵方巻。その滑稽な対比が、彼女の自尊心を激しく揺さぶる。 (泣いている私、今、最高にドラマチック。でも、恵方巻を咥えたまま泣くなんて、どんな舞台でもあり得ない)
カズキは彼女のそんな葛藤を見透かしたように、自分の恵方巻を最後の一口まで飲み込むと、ペンを走らせた。
「全部、飲み込んだら、名前を呼んでいいかな」
ミーナも最後の一口を、必死に飲み込んだ。それは、過去のしがらみや、互いへの疑念をすべて胃の中に流し込む儀式のようだった。
沈黙が、解ける。
「……ミ―ナ」
カズキの声は、冬の夜気のように透き通っていた。ミーナはレターセットを乱暴に閉じ、言葉よりも先に、カズキのシャツの胸元に顔を埋めた。
「もういい。何も言わなくていいから」
豪華なシャンデリアの下、二人は抱き合った。外を追い出すべき鬼なんて、初めからどこにもいなかった。二人の内側にいた、疑いという名の鬼が、たった一本の太巻きと、不器用な筆談によって退治されたのだ。
窓の外では、春の気配を孕んだ風が、静かに夜を撫でていた。
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