鏡の中の他人

北大路京介

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第3話「名前」

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六ヶ月目。

吉村が予約の時間に現れた時、亜由美は少し緊張していた。

前回、吉村が弁護士だと知ってから、心の中に小さなざわめきがあった。

「こんばんは」

「こんばんは」

いつもと変わらない挨拶。

でも、亜由美の中では、何かが変わっていた。

吉村はセット面に座り、亜由美はクロスをかける。

「今日も、同じでいいですか」

「はい」

亜由美は髪に触れる。触れた瞬間、吉村の体温を感じる。

その温度に、ドキリとした。

「どうかしましたか」

「いえ」

亜由美は慌てて手を動かし始めた。

シャンプー、カット。いつもと同じ手順。

でも、今日はなぜか、吉村との距離が近く感じる。

カット中、亜由美は思い切って尋ねた。

「あの、吉村さん」

「はい」

「お仕事、弁護士さんなんですか」

吉村は少し驚いたような顔をした。

「ああ…この前の電話で」

「すみません、聞くつもりはなかったんですけど」

「いえ、構いません」

吉村は鏡越しに亜由美を見た。

「そうです。弁護士です」

「すごいですね」

「すごくなんかないですよ」

「でも、勝訴率93%って」

言ってから、亜由美は後悔した。

調べたことがバレてしまった。

吉村は少し目を見開いた。

「…調べたんですか」

「あ、その、すみません」

亜由美は顔が熱くなるのを感じた。

でも、吉村は怒っているようには見えなかった。

むしろ、少し笑っているような。

「別に、隠していたわけじゃないので」

「でも、プライバシーを」

「大丈夫です」

吉村は穏やかに言った。

「ネットに載っている情報ですから」

「そう、ですよね」

亜由美は安堵して、カットを続けた。

「でも、意外でした」

「何がですか」

「弁護士さんって、もっと…」

「もっと?」

「その、喋る人が多いのかなって」

吉村は小さく笑った。

「法廷では、喋りますよ」

「そうなんですか」

「ええ。職業柄、言葉は武器ですから」

言葉は武器。

その言葉に、亜由美は少しだけ怯んだ。

「でも、プライベートでは、あまり喋りたくないんです」

「どうしてですか」

吉村は少し考えてから、答えた。

「疲れるから」

「疲れる?」

「言葉を使うのは、エネルギーがいるんです。特に、仕事で使う言葉は」

「なるほど」

「だから、ここに来ると、ほっとします」

吉村は鏡越しに亜由美を見た。

「あなたは、無理に話させようとしない」

「そうですか」

「ええ。心地いいんです」

亜由美は、胸が温かくなるのを感じた。

「ありがとうございます」

「こちらこそ」

二人は、鏡越しに微笑み合った。

その瞬間、何かが変わった気がした。

ただの客と美容師の関係から、もう少し何か、近い関係へ。

でも、それが何なのか、亜由美にはまだ分からなかった。

カットが終わり、吉村は帰っていった。

一人になった亜由美は、予約表を開いた。

「吉村信幸」

フルネームは知っていた。でも、改めて見ると、その名前に重みを感じる。

信幸。

信じる、幸せ。

きれいな名前だ、と亜由美は思った。

スマートフォンを手に取り、再び「吉村信幸 弁護士」で検索する。

今度は、もっと詳しく調べた。

経歴、担当事件、勝訴事例。

そして、ある記事に目が止まった。

「水原俊介氏、労働裁判で係争中」

水原俊介。

亜由美の元夫の名前だった。

心臓が止まりそうになった。

記事を読み進める。

「原告側代理人は、青山綜合法律事務所の吉村信幸弁護士」

原告側。

つまり、吉村は、元夫を訴えている側の弁護士だということだ。

亜由美は、スマートフォンを取り落としそうになった。

どういうことだ。

吉村が、元夫の裁判に関わっている?

そして、その吉村が、半年間、自分の客として通っている?

偶然なのか。

それとも。

亜由美の頭の中が、混乱した。

いや、待て。落ち着け。

吉村は、亜由美が水原俊介の元妻だと知っているのだろうか。

知っているはずがない。亜由美は離婚後、旧姓の「篠塚」に戻している。店の名前も「Olive」。元夫との繋がりを示すものは何もない。

つまり、吉村は知らないはずだ。

これは、本当に偶然なのだ。

でも。

でも、この偶然は、あまりにも残酷だった。

亜由美は、スマートフォンを置き、頭を抱えた。

どうすればいいのだろう。

吉村に、伝えるべきだろうか。

「あなたが訴えている相手は、私の元夫です」と。

でも、それを言ったら、吉村はどう思うだろう。

利益相反、と言われるだろうか。

それとも、気まずくなって、もう来なくなるだろうか。

亜由美は、吉村に来て欲しくないわけではなかった。

むしろ、来て欲しいと思っていた。

月に一度の、あの静かな時間を。

でも、この秘密を抱えたまま、吉村と接することができるだろうか。

亜由美は、答えが出せなかった。

その夜、亜由美は眠れなかった。

ベッドの中で何度も寝返りを打ち、目を開けたり閉じたりした。

隣では、晴夏が安らかに眠っている。

亜由美は、娘の寝顔を見つめた。

この子を守るために、離婚した。

元夫の浮気、暴言、無関心。

それらに耐えられなくなって、亜由美は別れを選んだ。

そして今、その元夫が、誰かに訴えられている。

どんな理由なのだろう。

気になって、亜由美は再びスマートフォンを手に取った。

暗闇の中、画面の光が顔を照らす。

記事を読み進めると、理由が書いてあった。

「不当解雇による損害賠償請求」

元夫は、会社を不当に解雇されたと主張しているらしい。

でも、会社側は「正当な理由による解雇」と反論している。

そして、会社側の代理人が、吉村信幸。

つまり、吉村は、元夫と敵対している。

亜由美は、複雑な気持ちになった。

元夫とは、もう何の関係もない。

でも、元夫が苦しんでいると思うと、少しだけ胸が痛んだ。

いや、違う。

痛んでいるのは、吉村が元夫を攻撃していることへの、罪悪感だった。

自分は、吉村に髪を切らせている。

それは、敵に味方しているようなものではないか。

でも、吉村は何も知らない。

この状況は、あまりにも皮肉だった。

亜由美は、スマートフォンを置き、目を閉じた。

考えても、答えは出ない。

とりあえず、次の予約まで時間がある。

それまでに、どうするか決めよう。

そう自分に言い聞かせて、亜由美はようやく眠りについた。
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