鏡の中の他人

北大路京介

文字の大きさ
4 / 10

第4話「鏡の中の秘密」

しおりを挟む
一ヶ月は、またすぐに過ぎた。

その間、亜由美は何度も考えた。

吉村に、本当のことを言うべきか。

でも、その度に、言葉が出なかった。

そして、予約の日が来た。

午後六時半。

吉村は、いつもと変わらず現れた。

「こんばんは」

「こんばんは」

亜由美は、できるだけ普通を装った。

でも、心臓はバクバクと鳴っていた。

吉村はセット面に座り、亜由美はクロスをかける。

「今日も、同じで」

「はい」

亜由美は髪に触れる。その手が、微かに震えていた。

吉村は、気づいただろうか。

シャンプー、カット。

いつもと同じ手順。

でも、今日の亜由美は、いつもと違った。

カット中、ハサミを持つ手が何度も止まった。

吉村の髪を切りながら、亜由美は元夫のことを考えていた。

この人は、今、元夫と戦っている。

法廷で、言葉を武器にして。

そして、元夫を追い詰めているのだ。

亜由美は、吉村の顔を鏡越しに見た。

いつもと変わらない、無表情な顔。

でも、この顔の裏に、どんな感情があるのだろう。

冷徹、と記事には書いてあった。

本当にそうなのだろうか。

「あの」

吉村が口を開いた。

「はい」

「今日は、少し短めにしてもらえますか」

「短め、ですか」

「ええ。明日、大事な裁判があるので」

裁判。

その言葉に、亜由美の手が止まった。

「どうかしましたか」

「いえ」

亜由美は慌てて手を動かした。

「分かりました。少し短めに」

「お願いします」

亜由美は、吉村の髪を切り続けた。

でも、頭の中では、ずっと同じことを考えていた。

明日の裁判は、元夫との裁判だろうか。

もしそうなら、吉村はこれから、元夫を攻撃するのだ。

そう思うと、亜由美の手は重くなった。

カットが終わり、ドライヤーで髪を乾かす。

その時、吉村が鏡越しに亜由美を見て、尋ねた。

「あなたは、仕事と私生活を分けられる人ですか」

「え?」

突然の質問に、亜由美は戸惑った。

「仕事と、私生活」

「ええ」

吉村は真剣な顔をしていた。

「例えば、仕事で嫌なことがあっても、プライベートでは笑顔でいられるとか」

「それは…」

亜由美は少し考えた。

「難しいです」

「やはり」

「でも、努力はしています」

「どうして?」

「娘がいるので」

吉村は少し驚いた顔をした。

「お子さんが?」

「はい。七歳です」

「そうですか」

吉村は、少し考え込むような表情をした。

「それは、大変ですね」

「まあ、でも、楽しいですよ」

亜由美は笑顔を作った。

でも、その笑顔は少し硬かった。

吉村は、それに気づいたようだった。

「僕は、分けられないんです」

「え?」

「仕事と、私生活を」

吉村は鏡越しに亜由美を見つめた。

「仕事で冷徹にならなければいけない時、それがプライベートにも影響する」

「そうなんですか」

「ええ。だから、僕には、家族がいないんです」

その言葉に、亜由美は胸が締め付けられた。

「家族が、いない?」

「結婚もしていません。恋人もいません」

「どうして」

「仕事が、僕の全てだから」

吉村は、静かに言った。

「でも、時々思うんです。これでいいのかって」

亜由美は、言葉が出なかった。

吉村の声には、寂しさが滲んでいた。

「でも、ここに来ると、少しだけ人間らしくなれる気がするんです」

「人間らしく?」

「ええ。あなたの手が、僕を普通の人間に戻してくれる」

亜由美は、目頭が熱くなった。

この人は、孤独なのだ。

仕事に全てを捧げて、でもその代償として、人間らしさを失っている。

そして、この美容室が、吉村にとっての唯一の安らぎの場所なのだ。

亜由美は、吉村の髪を撫でた。

「ありがとうございます」

「いえ」

吉村は、小さく笑った。

「こちらこそ」

カットが終わり、吉村は帰っていった。

一人になった亜由美は、セット面の椅子に座り込んだ。

涙が、一粒、頬を伝った。

吉村に、本当のことを言えなかった。

でも、今日の会話を聞いて、亜由美は決めた。

言わない。

吉村にとって、この場所は大切なのだ。

それを壊したくない。

たとえ、秘密を抱えることになっても。

亜由美は、涙を拭い、立ち上がった。

鏡の中の自分を見つめる。

「大丈夫」

自分に言い聞かせて、亜由美は店の掃除を始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。

敏腕SEの優しすぎる独占愛

春咲さゆ
恋愛
仕事も恋愛も、兎に角どん底の毎日だった。 あの日、あの雨の夜、貴方に出逢うまでは。 「終わらせてくれたら良かったのに」 人生のどん底にいた、26歳OL。 木崎 茉莉 ~kisaki matsuri~ × 「泣いたらいいよ。傍にいるから」 雨の日に現れた、30歳システムエンジニア。 藤堂 柊真 ~Todo Syuma~ 雨の夜の出会いがもたらした 最高の溺愛ストーリー。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

先輩ちゃんと後輩くん

松田ねこ太郎
恋愛
経理部で勤めている伊澄(いすみ)は残業帰り中に子猫を保護した。 里親に出すまでは家で預かるため残業を減らそうとしていた時に 営業部の若手エース三上圭太(みかみ けいた)が現れた。 厄介ごとと共に―― 若手エースが苦手な先輩主人公と主人公が気になる後輩くんの攻防物語

大丈夫のその先は…

水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。 新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。 バレないように、バレないように。 「大丈夫だよ」 すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m

人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている

井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。 それはもう深く愛していた。 変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。 これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。 全3章、1日1章更新、完結済 ※特に物語と言う物語はありません ※オチもありません ※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。 ※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。

ローザリンデの第二の人生

梨丸
恋愛
伯爵令嬢、ローザリンデの夫はいつも彼女より仕事を優先させ、彼女を無碍にしている。 彼には今はもういない想い人がいた。 私と結婚したことにいい思いをしていないことは知っていた。 けれど、私の命が懸かっていた時でさえも、彼の精神は変わらなかった。 あなたが愛してくれないのなら、私は勝手に幸せになります。 吹っ切れたローザリンデは自分自身の幸せのために動くことにした。 ※投稿してから、誤字脱字などの修正やわかりにくい部分の補足をすることがあります。(話の筋は変わらないのでご安心ください。)

処理中です...