鏡の中の他人

北大路京介

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第5話「偶然という名の必然」

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翌日の夕方。

亜由美は晴夏を学童保育に迎えに行く途中だった。

いつもの道を歩きながら、昨日の吉村との会話を思い返していた。

「仕事が、僕の全てだから」

あの言葉が、頭から離れない。

吉村は、どんな気持ちで毎日を生きているのだろう。

法廷で戦い、勝利を重ね、でも誰とも心を通わせることなく。

亜由美は、そんな吉村が少し可哀想に思えた。

でも同時に、自分も似たようなものだと気づいた。

離婚してから、亜由美も誰とも深い関係を築いていない。

仕事と育児に追われて、恋愛どころではなかった。

いや、正確には、恋愛が怖かったのかもしれない。

また傷つくことが。

また裏切られることが。

信号が赤に変わり、亜由美は立ち止まった。

その時、斜め前方のカフェの窓が目に入った。

そして、亜由美は息を呑んだ。

窓際の席に座っているのは、吉村だった。

そして、その向かいに座っているのは。

水原俊介。

亜由美の元夫だった。

心臓が、激しく打ち始めた。

二人は、何かを話し合っている。

書類が、テーブルの上に広げられている。

俊介の表情は険しい。何かに怒っているようだ。

対して、吉村の表情は、いつもと同じ無表情。

でも、その目は鋭く、俊介を見据えている。

亜由美は、その場から動けなくなった。

これが、吉村の仕事なのだ。

人と対峙し、言葉で戦う。

そして、相手を追い詰める。

昨日まで、自分の髪を切っていた、あの優しい手で。

信号が青に変わったが、亜由美は渡らなかった。

ただ、二人を見つめていた。

その時、吉村が何かを言った。

俊介が、テーブルを叩いた。

周りの客が、驚いて振り向く。

吉村は、動じていない。

ただ静かに、俊介を見つめている。

そして、吉村が窓の外を見た。

亜由美と、目が合った。

時間が、止まった。

吉村の目が、わずかに見開かれる。

亜由美も、固まったまま動けない。

数秒が、永遠のように感じられた。

そして、亜由美は我に返り、慌てて歩き出した。

心臓が、破裂しそうだった。

見られた。

吉村に、見られた。

でも、吉村は、自分が誰だか分かっただろうか。

分からないはずだ。

ただの通行人。

たまたま、窓の外を見ていただけの。

でも。

でも、あの目は、確かに亜由美を認識していた気がした。

学童保育に着いた時、亜由美は息が切れていた。

走ってきたわけではないのに、呼吸が乱れている。

「ママ!」

晴夏が駆け寄ってきた。

「遅い!」

「ごめんね」

亜由美は晴夏の手を取り、帰路についた。

でも、頭の中は、さっきの光景でいっぱいだった。

吉村と、元夫。

二人が、あんなに近くにいた。

そして、自分も、そこにいた。

これは、偶然なのだろうか。

それとも、運命なのだろうか。

「ママ、聞いてる?」

「え?」

晴夏が、不満そうに見上げていた。

「さっきから話してるのに」

「ごめん。何?」

「今日ね、図工で絵を描いたの」

「そうなの。何を描いたの?」

「家族」

その言葉に、亜由美は足を止めた。

「家族?」

「うん。ママと、私」

「二人だけ?」

「うん」

晴夏は、何でもないように言った。

「だって、家族はママと私だけでしょ?」

亜由美は、胸が締め付けられた。

「そうね」

「でもね、先生がね、『パパは?』って聞くの」

「何て答えたの?」

「『いない』って」

晴夏は、少し寂しそうに笑った。

「でも、いいの。ママがいるから」

亜由美は、晴夏を抱きしめた。

「ありがとう」

「何で?」

「晴夏がいてくれて」

「変なママ」

晴夏は笑ったが、亜由美にしっかりと抱きついてきた。

この子を、守らなければ。

この子の笑顔を、守らなければ。

それが、亜由美の全てだった。

その夜、晴夏を寝かしつけた後、亜由美の携帯が鳴った。

非通知。

亜由美は、嫌な予感がした。

でも、出た。

「はい」

「篠塚さん」

その声は、吉村だった。

亜由美は、息が止まりそうになった。

「吉村、さん?」

「今から、髪を切ってもらえませんか」

「え?」

「お願いします。金額は、言い値で」

吉村の声には、切羽詰まったものがあった。

「でも、今は」

「お願いします」

その声に、拒否できなかった。

「…分かりました」

「ありがとうございます」

電話が切れた。

亜由美は、携帯を握りしめたまま固まった。

どうして、吉村は電話してきたのだろう。

予約外で、しかも夜中に。

そして、今日、あの場面を見られたことと、関係があるのだろうか。

亜由美は、晴夏の寝顔を確認した。

ぐっすり眠っている。

隣の部屋に住む大家さんに、短いメッセージを送った。

「急用で出ます。30分ほど留守にします。晴夏のこと、お願いできますか」

すぐに返信が来た。

「了解。気をつけてね」

亜由美は上着を羽織り、店へ向かった。

夜の表参道は、昼間とは違う顔を見せていた。

ネオンが煌めき、人々が行き交う。

でも、亜由美の目には何も入ってこなかった。

ただ、吉村のことだけを考えていた。

店に着くと、吉村はもう扉の前に立っていた。

「すみません」

「いえ」

亜由美は鍵を開け、店内の電気をつけた。

吉村が入ってくる。

いつもと違う雰囲気だった。

スーツは乱れ、ネクタイは緩んでいる。

髪も、少し乱れている。

「座ってください」

吉村はセット面に座った。

鏡越しに、二人の目が合う。

「どうされましたか」

亜由美は、できるだけ平静を装って尋ねた。

「切ってください」

「でも、三日前に切ったばかりで」

「分かっています」

吉村は、鏡の中の自分を見つめた。

「でも、切ってほしいんです」

「何かあったんですか」

吉村は、しばらく黙っていた。

そして、静かに言った。

「今日、あなたを見ました」

亜由美の手が、止まった。

「カフェの前で」

「…はい」

「なぜ、あそこにいたんですか」

「通りかかっただけです」

「偶然?」

「はい」

吉村は、亜由美を鏡越しに見つめた。

「本当に?」

「本当です」

亜由美は、嘘をついた。

正確には、半分だけ嘘だった。

通りかかったのは偶然だ。

でも、そこに元夫がいることは、知らなかったわけではない。

吉村は、しばらく亜由美を見つめていた。

そして、諦めたように目を閉じた。

「そうですか」

「吉村さん」

「はい」

「あの方は、誰ですか」

亜由美は、思い切って尋ねた。

吉村は目を開け、苦笑した。

「仕事の相手です」

「裁判の?」

「ええ」

「大変そうでしたね」

「まあ、いつものことです」

吉村は、そう言ったが、声には疲れが滲んでいた。

「でも、今日は特に厄介でした」

「どうして?」

「相手が、感情的だったので」

吉村は、ため息をついた。

「論理で話そうとしても、感情で返してくる。それが一番、難しいんです」

亜由美は、元夫のことを思い出した。

確かに、俊介は感情的な人だった。

怒りやすく、すぐに声を荒げる。

話し合いにならないことが、何度もあった。

「でも、それも仕事のうちです」

吉村は、自分に言い聞かせるように言った。

「感情を切り離して、ただ事実だけを見る」

「できるんですか」

「できます。いや、できなければいけません」

吉村は、鏡の中の自分を見つめた。

「でも、疲れるんです」

「疲れる?」

「ええ。人間らしさを、殺し続けるのは」

亜由美は、吉村の髪に手を伸ばした。

「だから、髪を切りに来たんですか」

「はい」

吉村は、目を閉じた。

「あなたの手に触れられると、人間に戻れる気がするんです」

亜由美の胸が、熱くなった。

この人は、本当に孤独なのだ。

そして、この店が、吉村の唯一の居場所なのだ。

「分かりました」

亜由美は、クロスをかけた。

「切りますね」

「お願いします」

亜由美は、ハサミを手に取った。

でも、今日は切る場所がない。

三日前に切ったばかりだ。

だから、亜由美は、吉村の髪を撫でた。

ただ、優しく、丁寧に。

「気持ちいいですか」

「はい」

吉村の声は、穏やかだった。

亜由美は、シャンプー台へ案内した。

「横になってください」

吉村は、素直に横になった。

亜由美は、いつもよりも時間をかけて、吉村の髪を洗った。

お湯の温度、指の動き、全てに心を込めて。

吉村の表情が、少しずつ緩んでいく。

眉間の皺が消え、口元が柔らかくなる。

「篠塚さん」

「はい」

「ありがとうございます」

「いえ」

「あなたは、優しい人ですね」

「そんなこと」

「いえ、優しい」

吉村は、目を閉じたまま言った。

「だから、もう少しだけ、ここにいてもいいですか」

「もちろんです」

亜由美は、吉村の髪を洗い続けた。

時間が、ゆっくりと流れていく。

店の外では、夜の街が騒がしい。

でも、店の中は、静かだった。

二人だけの、静かな時間。

亜由美は、この時間が終わってほしくないと思った。

でも、いつかは終わる。

全ての時間は、終わる。

シャンプーを終え、タオルで髪を拭く。

そして、セット面に戻る。

「今日は、カットはしません」

「え?」

「切る場所がないので」

吉村は、少し驚いた顔をした。

「でも、僕は」

「大丈夫です。十分です」

亜由美は、微笑んだ。

「髪を切ることだけが、美容師の仕事じゃないんです」

吉村は、しばらく亜由美を見つめていた。

そして、小さく笑った。

「そうですね」

「はい」

吉村は立ち上がり、財布を取り出した。

「今日は、いくらですか」

「いりません」

「でも」

「今日は、サービスです」

亜由美は、首を横に振った。

「次回、ちゃんと切らせてください」

吉村は、少し困ったような顔をした。

でも、財布をしまった。

「ありがとうございます」

「いえ」

吉村は、扉へ向かった。

でも、扉の前で立ち止まり、振り返った。

「篠塚さん」

「はい」

「あなたに、会えてよかった」

その言葉に、亜由美の胸が締め付けられた。

「私も、です」

吉村は、微笑んで扉を開けた。

そして、夜の街へ消えていった。

一人になった亜由美は、セット面の椅子に座り込んだ。

鏡の中の自分を見つめる。

頬が、少し紅い。

心臓が、まだ早鐘を打っている。

これは、何なのだろう。

この気持ちは。

亜由美には、まだ名前がつけられなかった。

でも、確かなことが一つあった。

吉村のことを、もっと知りたい。

そう思っている自分がいた。
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