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第6話「施術という名の儀式」
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次の予約日。
吉村は、いつもの時間に現れた。
「こんばんは」
「こんばんは」
二人の挨拶は、いつもと同じ。
でも、空気が違った。
前回の深夜の訪問以来、何かが変わった気がした。
吉村はセット面に座り、亜由美はクロスをかける。
その時、二人の指が触れた。
ほんの一瞬。
でも、その瞬間、亜由美の心臓が跳ねた。
吉村も、少しだけ目を見開いた。
「すみません」
「いえ」
亜由美は、慌てて手を引いた。
でも、手のひらには、まだ吉村の体温が残っている気がした。
「今日は、どうされますか」
「いつもと同じで」
「分かりました」
亜由美は、吉村の髪に触れる。
いつもと同じ髪質。
でも、今日は、触れるたびに心臓が高鳴る。
どうしたのだろう、私。
亜由美は、自分の動揺を隠すように、丁寧に髪をとかした。
「吉村さん」
「はい」
「あの日の裁判、どうでしたか」
吉村は、少し驚いたような顔をした。
「覚えていたんですか」
「はい」
「勝ちました」
「そうですか」
「ええ。相手は、控訴するかもしれませんが」
吉村は、淡々と答えた。
「でも、勝ちは勝ちです」
「よかったですね」
「そうですね」
でも、吉村の声には、喜びがなかった。
「でも、嬉しくないんですか」
亜由美は、思わず尋ねた。
吉村は、鏡越しに亜由美を見た。
「嬉しい、という感情が、よく分からないんです」
「え?」
「仕事で勝つことは、当然のことです。だから、特に嬉しいとは思わない」
「じゃあ、何も感じないんですか」
「安堵、でしょうか」
吉村は、少し考えてから答えた。
「負けなかった、という安堵」
「それは、寂しいですね」
亜由美は、正直に言った。
吉村は、少し驚いた顔をした。
「寂しい?」
「はい。勝っても嬉しくないなんて」
「でも、それが仕事です」
「仕事でも、嬉しいことはあっていいと思います」
亜由美は、吉村の髪を切りながら言った。
「私は、お客さんに『ありがとう』って言われると、嬉しいです」
「そうですか」
「はい。それがあるから、頑張れるんです」
吉村は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「僕も、嬉しいことがあります」
「何ですか」
「ここに来ることです」
亜由美の手が、止まった。
「あなたに会えること」
吉村は、鏡越しに亜由美を見つめた。
「それが、僕の喜びです」
亜由美は、言葉が出なかった。
胸が、熱くなった。
「吉村さん」
「はい」
「私も、です」
亜由美は、小さく言った。
「あなたが来てくれること、嬉しいです」
二人は、鏡越しに見つめ合った。
時間が、止まったような気がした。
そして、亜由美は我に返り、カットを再開した。
でも、手は震えていた。
今、何を言ったのだろう。
あなたが来てくれること、嬉しい、と。
それは、ただの社交辞令ではなかった。
本心だった。
亜由美は、吉村が来ることを、心待ちにしている自分がいた。
月に一度の、この時間を。
でも、それでいいのだろうか。
吉村は、客だ。
それ以上の関係になってはいけない。
でも。
でも、心は、そう言ってくれない。
シャンプー台へ移動し、亜由美は吉村の髪を洗い始めた。
いつもより、丁寧に。
いつもより、優しく。
吉村の表情が、緩んでいく。
「気持ちいいですか」
「はい」
「よかった」
亜由美は、微笑んだ。
この時間が、二人にとって特別なのだ。
それを、亜由美は認めた。
シャンプーを終え、セット面に戻る。
ドライヤーで髪を乾かしながら、亜由美は吉村の顔を見つめた。
目を閉じて、リラックスしている吉村。
この人は、どんな人生を歩んできたのだろう。
どんな孤独を抱えているのだろう。
そして、なぜ、こんなにも自分の心を揺さぶるのだろう。
カットが終わり、亜由美はクロスを外した。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
吉村は立ち上がり、鏡で自分の髪を確認した。
「完璧です」
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
吉村は、レジへ向かった。
でも、財布を出す前に、亜由美に尋ねた。
「篠塚さん」
「はい」
「もし、よかったら」
吉村は、少し迷うように言葉を選んだ。
「今度、お茶でもどうですか」
亜由美の心臓が、止まりそうになった。
「お茶、ですか」
「ええ。お礼がしたいんです」
「お礼なんて」
「いえ、させてください」
吉村は、真剣な顔をしていた。
「あなたには、感謝してるんです」
亜由美は、迷った。
行くべきだろうか。
それとも、断るべきだろうか。
でも、断る理由が見つからなかった。
というより、断りたくなかった。
「…分かりました」
「本当ですか」
「はい」
吉村は、嬉しそうに笑った。
その笑顔は、初めて見るものだった。
「ありがとうございます」
「いえ」
「では、来月の予約の後で」
「はい」
吉村は料金を払い、店を出た。
一人になった亜由美は、大きく息を吐いた。
何を、約束してしまったのだろう。
お茶。
ただの、お茶。
でも、それは、客と美容師の関係を超える行為だった。
亜由美は、鏡の前に立った。
「どうしよう」
鏡の中の自分は、困惑していた。
でも、同時に、少しだけ嬉しそうだった。
吉村は、いつもの時間に現れた。
「こんばんは」
「こんばんは」
二人の挨拶は、いつもと同じ。
でも、空気が違った。
前回の深夜の訪問以来、何かが変わった気がした。
吉村はセット面に座り、亜由美はクロスをかける。
その時、二人の指が触れた。
ほんの一瞬。
でも、その瞬間、亜由美の心臓が跳ねた。
吉村も、少しだけ目を見開いた。
「すみません」
「いえ」
亜由美は、慌てて手を引いた。
でも、手のひらには、まだ吉村の体温が残っている気がした。
「今日は、どうされますか」
「いつもと同じで」
「分かりました」
亜由美は、吉村の髪に触れる。
いつもと同じ髪質。
でも、今日は、触れるたびに心臓が高鳴る。
どうしたのだろう、私。
亜由美は、自分の動揺を隠すように、丁寧に髪をとかした。
「吉村さん」
「はい」
「あの日の裁判、どうでしたか」
吉村は、少し驚いたような顔をした。
「覚えていたんですか」
「はい」
「勝ちました」
「そうですか」
「ええ。相手は、控訴するかもしれませんが」
吉村は、淡々と答えた。
「でも、勝ちは勝ちです」
「よかったですね」
「そうですね」
でも、吉村の声には、喜びがなかった。
「でも、嬉しくないんですか」
亜由美は、思わず尋ねた。
吉村は、鏡越しに亜由美を見た。
「嬉しい、という感情が、よく分からないんです」
「え?」
「仕事で勝つことは、当然のことです。だから、特に嬉しいとは思わない」
「じゃあ、何も感じないんですか」
「安堵、でしょうか」
吉村は、少し考えてから答えた。
「負けなかった、という安堵」
「それは、寂しいですね」
亜由美は、正直に言った。
吉村は、少し驚いた顔をした。
「寂しい?」
「はい。勝っても嬉しくないなんて」
「でも、それが仕事です」
「仕事でも、嬉しいことはあっていいと思います」
亜由美は、吉村の髪を切りながら言った。
「私は、お客さんに『ありがとう』って言われると、嬉しいです」
「そうですか」
「はい。それがあるから、頑張れるんです」
吉村は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「僕も、嬉しいことがあります」
「何ですか」
「ここに来ることです」
亜由美の手が、止まった。
「あなたに会えること」
吉村は、鏡越しに亜由美を見つめた。
「それが、僕の喜びです」
亜由美は、言葉が出なかった。
胸が、熱くなった。
「吉村さん」
「はい」
「私も、です」
亜由美は、小さく言った。
「あなたが来てくれること、嬉しいです」
二人は、鏡越しに見つめ合った。
時間が、止まったような気がした。
そして、亜由美は我に返り、カットを再開した。
でも、手は震えていた。
今、何を言ったのだろう。
あなたが来てくれること、嬉しい、と。
それは、ただの社交辞令ではなかった。
本心だった。
亜由美は、吉村が来ることを、心待ちにしている自分がいた。
月に一度の、この時間を。
でも、それでいいのだろうか。
吉村は、客だ。
それ以上の関係になってはいけない。
でも。
でも、心は、そう言ってくれない。
シャンプー台へ移動し、亜由美は吉村の髪を洗い始めた。
いつもより、丁寧に。
いつもより、優しく。
吉村の表情が、緩んでいく。
「気持ちいいですか」
「はい」
「よかった」
亜由美は、微笑んだ。
この時間が、二人にとって特別なのだ。
それを、亜由美は認めた。
シャンプーを終え、セット面に戻る。
ドライヤーで髪を乾かしながら、亜由美は吉村の顔を見つめた。
目を閉じて、リラックスしている吉村。
この人は、どんな人生を歩んできたのだろう。
どんな孤独を抱えているのだろう。
そして、なぜ、こんなにも自分の心を揺さぶるのだろう。
カットが終わり、亜由美はクロスを外した。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
吉村は立ち上がり、鏡で自分の髪を確認した。
「完璧です」
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
吉村は、レジへ向かった。
でも、財布を出す前に、亜由美に尋ねた。
「篠塚さん」
「はい」
「もし、よかったら」
吉村は、少し迷うように言葉を選んだ。
「今度、お茶でもどうですか」
亜由美の心臓が、止まりそうになった。
「お茶、ですか」
「ええ。お礼がしたいんです」
「お礼なんて」
「いえ、させてください」
吉村は、真剣な顔をしていた。
「あなたには、感謝してるんです」
亜由美は、迷った。
行くべきだろうか。
それとも、断るべきだろうか。
でも、断る理由が見つからなかった。
というより、断りたくなかった。
「…分かりました」
「本当ですか」
「はい」
吉村は、嬉しそうに笑った。
その笑顔は、初めて見るものだった。
「ありがとうございます」
「いえ」
「では、来月の予約の後で」
「はい」
吉村は料金を払い、店を出た。
一人になった亜由美は、大きく息を吐いた。
何を、約束してしまったのだろう。
お茶。
ただの、お茶。
でも、それは、客と美容師の関係を超える行為だった。
亜由美は、鏡の前に立った。
「どうしよう」
鏡の中の自分は、困惑していた。
でも、同時に、少しだけ嬉しそうだった。
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