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第8話「判決の日」
しおりを挟む翌朝、亜由美は重い頭で目を覚ました。
昨夜のことが、夢だったような気がした。
吉村に抱きしめられたこと。
その温もり。
鏡の中に映った、二人の姿。
でも、夢ではなかった。
現実だった。
亜由美は、ベッドから起き上がり、洗面所へ向かった。
鏡に映る自分の顔を見る。
頬が、少し紅い。
「ママー!」
晴夏の声が、現実に引き戻してくれた。
「はーい」
亜由美は、急いで朝食の準備を始めた。
晴夏を学校に送り出し、店へ向かう。
今日は予約が三件。
いつもと同じ日常。
でも、心は、いつもと違っていた。
吉村のことが、頭から離れない。
あの抱擁は、何を意味するのだろう。
二人は、どこへ向かっているのだろう。
午後三時。
仕事の合間に、亜由美はスマートフォンでニュースを確認した。
そして、ある記事に目が止まった。
「水原俊介氏、控訴を断念。判決確定へ」
亜由美は、記事を読み進めた。
「不当解雇訴訟で敗訴した水原俊介氏(37)が、控訴を断念したことが明らかになった。代理人によると、『これ以上争っても意味がない』との判断から」
控訴を断念。
昨夜、俊介は「控訴する」と息巻いていたのに。
何があったのだろう。
記事には、さらに詳しいことが書かれていた。
「水原氏は判決後、相手側代理人の吉村信幸弁護士に対し、不適切な発言をしたとされ、弁護士会から警告を受けていた」
警告。
それは、昨夜吉村が言っていた「脅された」ことだろうか。
亜由美は、複雑な気持ちになった。
元夫は、負けたのだ。
そして、吉村が勝った。
それは、喜ぶべきことなのだろうか。
それとも、悲しむべきことなのだろうか。
亜由美には、分からなかった。
その時、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
振り返ると、そこには吉村が立っていた。
予約外の時間。
しかも、昼間。
「吉村さん」
「すみません。突然で」
吉村は、いつもとは違うカジュアルな服装だった。
シャツにジーンズ。
初めて見る姿。
「予約の方が」
「大丈夫です。少しだけ」
吉村は、店内を見回した。
他に客はいない。
「話したいことがあって」
「分かりました」
亜由美は、吉村を待合のソファに案内した。
二人で、向かい合って座る。
「どうしたんですか」
「裁判が、終わりました」
「ニュースで見ました」
「そうですか」
吉村は、少し驚いたような顔をした。
「じゃあ、知ってるんですね」
「はい」
「あの人が、控訴を断念したこと」
「はい」
吉村は、大きく息を吐いた。
「よかったです」
「よかった?」
「ええ。これで、僕とあの人の関係は終わります」
吉村は、亜由美を見つめた。
「だから、言えます」
「何をですか」
「昨夜、僕があなたを抱きしめたこと」
亜由美の心臓が、早鐘を打ち始めた。
「あれは、間違いではありませんでした」
「吉村さん」
「僕は、あなたのことが好きです」
その言葉に、亜由美は息が止まりそうになった。
好き。
吉村は、そう言った。
「でも、僕は弁護士です。あなたの元夫と敵対していた」
「知ってるんですか」
亜由美は、驚いて尋ねた。
吉村は、頷いた。
「調べました」
「いつから」
「あなたを、カフェの前で見た時から」
吉村は、静かに言った。
「なぜ、そこにいたのか。偶然にしては、できすぎていると思った」
「でも、本当に偶然だったんです」
「分かっています。調べて、分かりました」
吉村は、亜由美の手を取った。
「あなたは、水原俊介の元妻。でも、五年前に離婚している」
「はい」
「そして、娘さんを一人で育てている」
「はい」
「僕は、それを知った時、迷いました」
吉村の手は、温かかった。
「あなたに近づくべきではないと。でも、気持ちを抑えられなかった」
「吉村さん」
「だから、今日、はっきり言います」
吉村は、亜由美の目を見つめた。
「僕と、付き合ってください」
亜由美は、言葉が出なかった。
頭の中が、真っ白になった。
付き合う。
その言葉の重さ。
「私には、娘がいます」
「知っています」
「そして、元夫との関係も、複雑です」
「分かっています」
「それでも、いいんですか」
「いいです」
吉村は、迷いなく答えた。
「あなたがいれば、それでいい」
亜由美の目から、涙が溢れた。
「どうして、泣くんですか」
「分からない」
亜由美は、涙を拭った。
「でも、嬉しいんです」
「じゃあ」
「はい」
亜由美は、頷いた。
「私も、あなたが好きです」
吉村は、嬉しそうに笑った。
その笑顔は、今まで見た中で一番、人間らしかった。
「ありがとうございます」
「いえ」
二人は、手を握り合ったまま、しばらく見つめ合っていた。
そして、吉村が立ち上がった。
「今日は、これで帰ります」
「え?」
「ゆっくり考えてください」
「考える?」
「本当に、僕でいいのか」
吉村は、真剣な顔をしていた。
「僕は、仕事人間です。あなたや、娘さんを幸せにできる自信がない」
「吉村さん」
「だから、よく考えて。そして、次の予約の時に、答えを聞かせてください」
「でも、もう答えは」
「いえ、考えてください」
吉村は、優しく微笑んだ。
「僕は、あなたを急かしたくない」
そう言って、吉村は店を出た。
一人残された亜由美は、呆然と立ち尽くした。
そして、ソファに座り込んだ。
これは、本当に起きていることなのだろうか。
吉村が、自分のことを好きだと言った。
そして、付き合ってほしいと。
亜由美は、自分の頬を軽く叩いた。
痛い。
夢じゃない。
これは、現実。
亜由美は、鏡を見た。
鏡の中の自分は、泣いて、笑っていた。
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