岩波紗霧の詩

北大路京介

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岩波紗霧の詩

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雨の滴が窓を叩く。湿り気を帯びた六月の昼休み、校内放送のスピーカーが、咳払いのようなノイズを吐き出した。

「えー、雨ですね。皆さん、お弁当はおいしいですか。今日は趣向を変えて、私が書いた詩を朗読しようと思います。タイトルは、赤い階段」

マイク越しに聞こえる岩波紗霧の声は、ひどく透き通っていた。若草のような清らかさと、煮詰めたジャムのような粘り気が同居している。教室内で騒いでいた生徒たちの動きが、その奇妙な温度感の声に射抜かれたように止まる。

「一段、二段。踊り場で、上靴の踵が震えている。二年生の、廊下。右から三番目の窓。鍵が壊れていることに、誰も気づかない。いいえ、気づかないふりをしている。風が吹く。ガタガタと震える。まるで、これから落ちる誰かの膝のように」

放送部員の生徒たちは、この日の放送予定に「朗読」などなかったことに困惑し、放送室の重い防音扉を開けようとした。しかし、内側から鍵がかかっている。小窓から覗くと、紗霧はマイクを両手で包み込むように持ち、うっとりと目を閉じていた。

「彼は手を伸ばす。でも、床には今朝こぼれた牛乳。ワックスと混ざって、とても滑りやすい。あ、滑った。彼の指先が、雨に濡れたサッシを空しく滑り落ちる」

直後、放送室のスピーカーから、ズシャッ、という生々しい摩擦音が響いた。続いて、ヒュッ、と空気を切り裂くような音がノイズに混じる。

「不思議ですね。人は死を目前にすると、悲鳴を出す前に一度、それを飲み込むんです。喉の奥で炭酸が弾けるみたいな音がする。……今、聞こえましたか? 三組の佐藤くんが、今、飲み込んだ音」

生徒の一人が、廊下の窓が開いていることに気づき、青ざめて駆け寄った。そこには、詩の中で描写された通りの牛乳の染みが広がっている。

紗霧の声は続く。 「皆さん、事故が起きているのに、どうして箸を止めないんですか。クラスメイトが窓の外で、指一本でぶら下がっている実況を聞きながら食べる唐揚げは、そんなに美味しいですか。職員室の先生方も、今、出欠確認の書類にハンコを押すのに夢中ですよね。その無関心の重さが、彼の指を一本ずつ剥がしていくんです。……あ、小指が、離れた」

放送室の小窓から見える紗霧の顔は、いつの間にか異様な形相に変わっていた。口角は耳元まで吊り上がり、見開かれた瞳は、血走ったまま虚空を見つめている。彼女の指先は、見えない何かの首を絞めるように、マイクスタンドを強く握りしめていた。

「私、思うんです。幽霊よりも、月曜日の朝に『おはよう』って言わなきゃいけないことの方が、ずっと怖い。挨拶をするたびに、自分の魂が薄い紙みたいに削れていく。だから私は、こうして皆さんの魂が削れる音を、詩にして届けたいんです。……あ、落ちた。スイカが割れるみたいな音。でも、スイカよりずっと、優しい音」

ドサッ、という鈍い音が校庭から響き、全校生徒が凍りついた。

「……そして、この放送を一番近くで聞いているあなた。あなたの背後の扉が、今、ゆっくり開く。私はもう、あなたの真後ろに立っている」

放送室の前で扉を叩いていた部員たちが、一斉に振り返る。しかし、そこには誰もいない。ただ、廊下の突き当たりにある鏡に、真っ白な顔をして微笑む紗霧の姿が一瞬だけ映り、掻き消えた。

「……なんて。冗談ですよ。でも、放送室の鍵、閉め忘れたのは本当です」

スピーカーから聞こえた紗霧の笑い声は、唐突に激しい叫び声に変わった。 「やめて! 来ないで! 誰、あなた誰なの――ッ!」

凄まじいノイズと共に、放送が途切れる。生徒たちがようやく扉をこじ開けたとき、そこには誰もいなかった。ただ、無人の卓の上で、古い録音テープだけがカタカタと虚しく回り続けている。

マイクの横には、岩波紗霧の眼鏡が置かれていた。それは、ついさっきまで体温が宿っていたかのように、雨の湿気で白く曇っていた。
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