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1:プロローグは突然に

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 2129年  バンコク

 もう少し、もう少しなのに……。
「あ~っ! もうわからない~! なによこれ~!」
 思わず頭をかきむしった。もう何時間こうやってコンピューターの前でデータとにらめっこしてるのかしら。ってかもう三日目?
「ちょっとは休憩したら? 気分転換も必要だよ」
 後ろからユーリの暢気な声がする。もう、コーヒーのいい匂いさせちゃって。
「もう少しなのよ。ほら、この部分が邪魔をして読めないのよ。どのデータとも一致しないの。これさえわかれば原因箇所の特定に入れるんだけど」
「どれどれ……」
 ユーリがコーヒーカップ片手にモニターの染色体情報を覗き込んだ。
「うん。わからないねぇ」
 はやっ!
「僕は薬品部だから専門外だし」
「だったら声かけないでよ。一瞬でも期待した私が馬鹿だったわ」
「専門家に訊けばいいじゃない。ウォレスさん、今日は出動してないから。さっき見かけたよ」
 うっ……!
 いやまあ、それが一番手っ取り早いのはわかってるし、恐らくあの人なら私が三日かかっているこの問題も、ものの数分で答えを出してくれるかもしれない事はわかっている。でもねぇ……
「研究班が実働隊の人に訊いてどうするのよ?」
「実働隊っていってもあの人は特別だろ? ここの出来が違うみたいだし」
 ユーリは私の頭を指一本でつんつんと突いた。年上だと思って子供扱いだし。
「いいもん。どうせ私は役立たずの上におバカだもん」
「あらあら。そういうふくれっ面も可愛いねぇ。マルカちゃんはちっともおバカじゃないよ。A・Hのくせに遺伝子工学のスペシャリストなんだから」
「スペシャリストかどうかは別としても、A・Hのくせには無いでしょう? 自分だってそうじゃん。ってか、ここにいる人ほぼ全員でしょうが」
 ここはG・A・N・P本部の研究棟。様々な事件、事故で運ばれて来たA・Hの生態や、現場に残された証拠を分析するのが仕事。
 設立者であるキリシマ博士の意向通り、この組織はA・Hだけで構成されている。私も所属している研究班と医療チームだけは一部例外でノーマルタイプの学者もいるが、それだって少数だ。
 ちなみにユーリ・タナカはリカオンが入っているから鼻と耳がとてもいい。実働隊の方にいてもいい人なのに、A・Hには珍しく薬品や化学が好きな変わり者で、危険を好まないのでここにいる。この怠け者め。
 私は……。
 ああ、なぜ生みの親は、私にこんな何の役にも立たない能力を与えたのだろうか。同じ研究所生まれの他のA・Hと違い、何も世間の役に立てないのが子供の頃からコンプレックスで、せめて勉強だけでも……と研究者の道に進んだのだ。
「で? 訊きに行かないの? なんなら僕が呼んで来てあげようか?」
「あ~! だめだめっ! ぜ~ったい呼んでこないで!」
「三日かかってもだめなんでしょう? ここは素直に……」
 気の利いた言い訳を思いつかなかったので、私は適当に言ってみた。
「だって……ほら、あの牙見たことある?」
 ぶっ、とユーリがコーヒーを吹き出した。
「汚いなぁ、もう」
「何か? 君は喰われるとでも思ってるわけ? いくら彼が狼で君がアンテロープだったって、それはないだろ? それに僕にだって牙くらいあるよ、ほら」
 そう言いながらユーリが口を開けた。糸切り歯がちょっと伸びて尖がってるくらいの牙。
「そんな貧相なの牙とは言えないわよ」
「失礼な。リカオンだって狼と同族の立派な肉食獣だよ。というか、リカオンって狼って意味だし」
「とても同族に見えない……ってか、あなたと彼を同列に並べないでよ。失礼な」
 あ、今のはちょっと失言?
「ははぁ~ん。そういうことね」
 ほらやっぱり。この怠け者肉食獣は変に勘がいい。
 ユーリはにやっと意地悪く笑ってコーヒーカップを置く。ちょっと、コンソールパネルの上に置くのはやめてよ。
「まったく、同じ男としては妬けちゃうよねえ。医局のナースもオペレーションルームのお姉さん達も、食堂のおばさんまで幅広くハートマークの目だよ。頭がいいだけでも充分なのに、その上ルックスまでいいなんて許せないよな。それを本人がまーったく気がついていないのがまた気にくわない」
 おお、愚痴ですか。
「……ユーリも眼鏡でもかけてみれば?」
 これまたいい加減なことを言ってみる。ま、所詮土台が違うんだから……。
「いいね。そうすりゃ、マルカちゃんは僕の事をハートマークの目で見てくれるの? そんなワケ無いでしょうが。ささっ、赤ずきんちゃん。恥ずかしがらずに、素直に狼さんの所に手伝いのお願いに行ってらっしゃい……君の解析の後でないと、僕のお仕事も出来無いんだよ。早くね」

 で、結局私はユーリに研究室を追い出された。
 ユーリは彼がトレーニングルームにいるって言ってたけど……。
「あれ? マルカ姫じゃん。こんな時間に研究室から出てくるなんて珍しい」
 先に別の意味であまりお会いしたくない奴と出会ってしまった。
 海獣のA・Hのヒューイ。何を思ったのか、私にデートの誘いをしてきた奴だ。そこそこの男前だが、プレイボーイで有名。私はこういうちょっと頭の悪そうな男はタイプじゃないのよね。友達としてはありだけど。勿論デートは丁重にお断りした。
 というか仕事でそれどころじゃないし。
「なになに? 先日のお返事、気が変わった?」
「いえ、変わってません。あなたを探してたんじゃありませんから」
「つれないなぁ。そんな可愛い顔して結構キツイよねぇ。で、誰を探してるの?」
「ウォレスさん、見ませんでした?」
 その名前を聞いて、ヒューイは露骨に嫌な顔をした。ほう、さっきユーリが言っていたのはホントなのね。
「まさかマルカちゃんまで……」
 いや、先に声をかけたのはあんたでしょうが? しかもそのまさかだし。
 とりあえずは誤魔化すというより事実だけを述べておく。
「仕事のお話があるだけです。あなた相手にDNA解析の話が出来ますか?」
 ヒューイはホッとした顔をしている。
「あ、そういうコト。よかった~」
 よくはないわよ。だからといってあなたには分はないんだし。
「ディーンならさっきまでいたけど……休憩に入ったんじゃない?」
「そうですか。ありがとうございました。では」
 我ながらそっけない態度でトレーニングルームを去ろうとした時だ。
「ねえ、マルカちゃん。もう一度考え直してよ」
 ヒューイがいきなり抱きついてきた。
 ちょっと! やめてよねっ!
 私は咄嗟にヒューイを躱すために力いっぱい飛んだ。
 ぴょーんっ。
 唯一私に与えられた身体能力、自慢のジャンプで弧を描いて天井近くまで。
 ああ、気持ちいい。
「おおっ……すげえ!」
 周りから声が上がったのと、トレーニングルームの扉が開いて人が入って来たのとどちらが早かっただろう。
「うそっ!」
「えっ?」
 それは一瞬にして最悪の出来事だった。
 着地するはずの場所に人が来た。よける暇さえなかったろう。しかも……
 何ともいえない鈍い音がして、床ではないやわらかい所に私の足は当たった。
 そう、まさに思いっきり全身の重みをかけてとび蹴りした形だ。かろうじて顔は直撃しなかったものの、肩にモロにヒットした。
 ばたーん!
 相手は勿論床に思い切り倒れた。勢いで眼鏡が飛んだ。
「おおっ……ひでぇ」
 またも周りから声が上がった。
「ディーンが女の子に蹴り倒されたぞ……」
 そう、たった今、私が蹴り倒した相手こそ、まさに探していた人……十代で生物学と遺伝子工学を極め、自らをA・Hへと進化させた元天才学者、そして今は現場で活躍してるG・A・N・P隊員……ディーン・ウォレスさんだったのだ。
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