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Perfume3.悲痛な決断と伯剌西爾での三日間。
44. 僕にはもう。
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別棟にあるペドロの研究室はヴィトールのそれよりもいくらか自然的で暖かみのあるものだった。壁中に吊るされた乾燥した花々がその暖かみを特に演出している。
綺麗に整頓された机の上にたった一枚だけ資料のコピーらしき紙が置いてあったのだが、彼はすぐにそれを回収してくしゃくしゃに丸めて捨てる。
すごい慌てようだったのでヒカルは何だか申し訳ない気持ちになった、別に紙の一枚くらい気にしないのに、と。
ペドロについて歩く間、彼のイランイランの香りをより強く感じた。
むせ返るような甘い香りはエキゾチックで、彼の褐色の肌や青い目によく似合う。好き嫌いが分かれる香りではあるが、ヒカルはかなりこの匂いが好きであった。
ガラス戸で閉め切られた箱にカラフルな液体の入った瓶が並んでいる。
「僕は主に植物から液体として香りを抽出する方法や着色する方法を研究しています」
そう言って彼はすり鉢とスポイトを指した。
ヒカルの場合はヒサシの特殊能力で液体抽出が容易に行えるのだが、本来は液体抽出の研究分野はかなり発展しているほど重要な問題である。
植物の状態では香りが感じ取りづらく、ただすり潰しただけでは香り成分が揮発してしまうからだ。
液体として抽出することでマスクに染み込ませるなどして治療出来る。
研究の話をするペドロはずいぶん生き生きしていた。次々と瓶を取り出しては実験過程を細かに語る。
先ほどのガラス戸の奥にあった五本の瓶を説明し終えると一息ついて、途端に浮かない顔を見せる。
「僕は実地的な治療よりこういう研究のほうが向いてると思うんです。今ある技術の中で何かをするよりも出来ることの範囲を広げるほうが、というか……」
「ではスクールに残って研究することも考えたのですか?」
「はい、教授も僕を引き止めてくれました。ですが祖父や父が認めてくれなかった。祖父はセラピストではありません、だからこそセラピストとしても働ける僕が必要だったんです」
拳に骨が浮かび上がり、ひどく力が入っているのがわかる。わなわなと震えているようにも見える。
大病院の息子という未来が約束された立場で一見恵まれているようだが、彼はその幸福の中で縛られていたのだ。真っ直ぐに敷かれた強固なレールからはなかなか脱線出来ないように。
ふと拳から力を抜いて、机の下のほうの引き出しから小さな木箱を取り出した。その中には同様にガラス戸がついていて小瓶が入っている。
瓶の中の液体はまるでラピスラズリのように深い青色。
それをこちらに差し出して、匂いを嗅ぐよう促す。
栓を外すと溢れ出す甘い香り……これはペドロと同じイランイランの香りだと気が付いた。
「自分の香り作ってみたくて。でも意外と自分では分からないから苦労しました」
彼はにこにこして、この香りを合成するプロセスを説明した。たしかに自分では自分の香りを認識しづらい。相当な時間をかけて完璧な香りを合成したことが窺える。
瓶に鼻を近付けて手で仰いで香りを鼻腔の奥へと流し込む。
ピリッ。
鼻の中にある一本の血管が切れたように痛む。
ピリッピリッ。
続けて一本、二本とその感覚は広がっていき、遂には鼻全体が痛みに捕われた。
そして鼻が塞がったように何も感じなくなっていた。吹き抜ける空気の冷たささえ感じ取れない。イランイランの香りを惜しみなく発していたはずの液体からも匂いがしない。
……麻痺だ。
ペドロを見ると、そこにはあの美しい彼からは想像出来ないほど醜い顔があった。
「僕、あなたに興味がありました。潰す対象としての興味が」
青い目はいつの間にか、まるで瓶の中の液体のように深い青色に変わっていた。形の良い唇が左右非対称に歪んでいる。
「どういうことですか、これは……!」
朦朧とする意識に逆らってかろうじて言葉を発するヒカルに、ペドロはさらさらの金髪をかき上げて見下すような視線を向けた。
「同じ能力なしなのに優秀で、注目されているあなたが僕は気に入らなかった。だからそのご自慢の鼻を使えなくしてやろう。それだけですよ」
「あなただって相当優秀ではありませんか」
「それでも祖父が認めているのはあなたのほうだ!」
それまではあくまで穏やかな声色を保っていたが、突然研究室に広がる怒声。ヒカルは思わず身体をびくりと震わせる。
「僕だってたくさん努力してきたのに祖父の目には写れなかった!」
そう叫び、不気味な笑みを浮かべる彼を見ながらも、次第にヒカルの意識が遠のいていく。
研究室の扉が軋む音を立てて開き、
「いやあつい長話してしまったよ」
とヴィトールが笑って入ってきた。
床に膝をつくヒカルを見て駆け寄り、
「おい、どうした⁉︎ ペドロ、何があったんだ」
とペドロのほうを見た途端、ヴィトールは口をつぐんだ。その狂気じみた表情に恐れを抱いたのだ。
ヒカルが完全に意識を失う前に見たのは、悲しみに顔を歪めるペドロだった。
「僕にはもう、得ることが出来ない。奪うしかなかったんだ」
喉を締め付けられているような声で、ペドロはそうつぶやいた。
綺麗に整頓された机の上にたった一枚だけ資料のコピーらしき紙が置いてあったのだが、彼はすぐにそれを回収してくしゃくしゃに丸めて捨てる。
すごい慌てようだったのでヒカルは何だか申し訳ない気持ちになった、別に紙の一枚くらい気にしないのに、と。
ペドロについて歩く間、彼のイランイランの香りをより強く感じた。
むせ返るような甘い香りはエキゾチックで、彼の褐色の肌や青い目によく似合う。好き嫌いが分かれる香りではあるが、ヒカルはかなりこの匂いが好きであった。
ガラス戸で閉め切られた箱にカラフルな液体の入った瓶が並んでいる。
「僕は主に植物から液体として香りを抽出する方法や着色する方法を研究しています」
そう言って彼はすり鉢とスポイトを指した。
ヒカルの場合はヒサシの特殊能力で液体抽出が容易に行えるのだが、本来は液体抽出の研究分野はかなり発展しているほど重要な問題である。
植物の状態では香りが感じ取りづらく、ただすり潰しただけでは香り成分が揮発してしまうからだ。
液体として抽出することでマスクに染み込ませるなどして治療出来る。
研究の話をするペドロはずいぶん生き生きしていた。次々と瓶を取り出しては実験過程を細かに語る。
先ほどのガラス戸の奥にあった五本の瓶を説明し終えると一息ついて、途端に浮かない顔を見せる。
「僕は実地的な治療よりこういう研究のほうが向いてると思うんです。今ある技術の中で何かをするよりも出来ることの範囲を広げるほうが、というか……」
「ではスクールに残って研究することも考えたのですか?」
「はい、教授も僕を引き止めてくれました。ですが祖父や父が認めてくれなかった。祖父はセラピストではありません、だからこそセラピストとしても働ける僕が必要だったんです」
拳に骨が浮かび上がり、ひどく力が入っているのがわかる。わなわなと震えているようにも見える。
大病院の息子という未来が約束された立場で一見恵まれているようだが、彼はその幸福の中で縛られていたのだ。真っ直ぐに敷かれた強固なレールからはなかなか脱線出来ないように。
ふと拳から力を抜いて、机の下のほうの引き出しから小さな木箱を取り出した。その中には同様にガラス戸がついていて小瓶が入っている。
瓶の中の液体はまるでラピスラズリのように深い青色。
それをこちらに差し出して、匂いを嗅ぐよう促す。
栓を外すと溢れ出す甘い香り……これはペドロと同じイランイランの香りだと気が付いた。
「自分の香り作ってみたくて。でも意外と自分では分からないから苦労しました」
彼はにこにこして、この香りを合成するプロセスを説明した。たしかに自分では自分の香りを認識しづらい。相当な時間をかけて完璧な香りを合成したことが窺える。
瓶に鼻を近付けて手で仰いで香りを鼻腔の奥へと流し込む。
ピリッ。
鼻の中にある一本の血管が切れたように痛む。
ピリッピリッ。
続けて一本、二本とその感覚は広がっていき、遂には鼻全体が痛みに捕われた。
そして鼻が塞がったように何も感じなくなっていた。吹き抜ける空気の冷たささえ感じ取れない。イランイランの香りを惜しみなく発していたはずの液体からも匂いがしない。
……麻痺だ。
ペドロを見ると、そこにはあの美しい彼からは想像出来ないほど醜い顔があった。
「僕、あなたに興味がありました。潰す対象としての興味が」
青い目はいつの間にか、まるで瓶の中の液体のように深い青色に変わっていた。形の良い唇が左右非対称に歪んでいる。
「どういうことですか、これは……!」
朦朧とする意識に逆らってかろうじて言葉を発するヒカルに、ペドロはさらさらの金髪をかき上げて見下すような視線を向けた。
「同じ能力なしなのに優秀で、注目されているあなたが僕は気に入らなかった。だからそのご自慢の鼻を使えなくしてやろう。それだけですよ」
「あなただって相当優秀ではありませんか」
「それでも祖父が認めているのはあなたのほうだ!」
それまではあくまで穏やかな声色を保っていたが、突然研究室に広がる怒声。ヒカルは思わず身体をびくりと震わせる。
「僕だってたくさん努力してきたのに祖父の目には写れなかった!」
そう叫び、不気味な笑みを浮かべる彼を見ながらも、次第にヒカルの意識が遠のいていく。
研究室の扉が軋む音を立てて開き、
「いやあつい長話してしまったよ」
とヴィトールが笑って入ってきた。
床に膝をつくヒカルを見て駆け寄り、
「おい、どうした⁉︎ ペドロ、何があったんだ」
とペドロのほうを見た途端、ヴィトールは口をつぐんだ。その狂気じみた表情に恐れを抱いたのだ。
ヒカルが完全に意識を失う前に見たのは、悲しみに顔を歪めるペドロだった。
「僕にはもう、得ることが出来ない。奪うしかなかったんだ」
喉を締め付けられているような声で、ペドロはそうつぶやいた。
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