僕は人々が嗅覚を奪われた世界で、アロマセラピストをしています。

梅屋さくら

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Perfume3.悲痛な決断と伯剌西爾での三日間。

48. 熱りが冷めて。

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 銀色の柱を支柱にして曲げられたU字型の長いスロープは、青みがかったガラスに縁取られていて、さながら流れる川のようである。
 その下でヒカルはギラギラした瞳と向き合っていた。

「奴が人の道を外れた行いをしたこと、そしてこうして謝罪が遅くなったこと、重ねてお詫びしたい」
「結果として嗅覚は戻りますし、昨日院長は大変な手術を立て続けに行ったと聞きました。本当に私は大丈夫ですので」

 鼻に塞がったような感覚は残っているものの、少し開いた隙間から院長のガルバナムの香りが流れ込む。特に刺激の強い香りなので分かりやすい。
 嗅覚のない日々を過ごしてみて初めて、香りに癒される感覚を理解した。常に香りに包まれていた日々がどれほど幸せだったかを実感した。
 ヴィトールによると、あの化学薬品を使用されて嗅覚が完全に戻る見込みがあるのは奇跡的だという。生来の結構丈夫な身体と鋭すぎる嗅覚のおかげだろう。
 それから院長は金銭や高級ホテルでの滞在延長などを提案してくれたが、ヒカルは頑なに断った。

「ペドロさんの罪はどうなるでしょうか」
「恐らく不起訴だ。示談成立、そして初犯。なによりヒカルが強く頼み込んでくれたからこその結果だと思うよ。本当にありがとう」
「海外渡航に何の影響もないですよね?」
「ああ、特に止められることはないだろう。……しかしすぐにニッポンに行くと約束は出来ないかもしれない」
「彼にも仕事が残っているのは分かっていますよ」
「それもあるが一番はそれではなくてな」

 彼の顔に翳りが見えたとき、軽やかな音が聞こえたとともにヒカルたちは眩しい光に照らされた。
 それから続々と浴びせられる光に手をかざして遮り、辛うじて目を開くと、そこにあったのはレンズと人の顔だった。人々は好奇の目を向けて何かをメモ帳に走り書きしている。

「エブリデイ新聞の者ですが、ペドロ氏はこれからどうされるつもりなのでしょうか?」
「サンライズ新聞の者です! 化学薬品を用いた罪を犯したのはこれが初めてなのでしょうか? これまでの患者も不安に思われているようですが」

 あっという間に二人は取り囲まれる。強く身体がぶつかったり足を踏まれたり、身動きが自由に取れない。

「あいつにはいわゆる“説明責任”を果たす義務があるんだ。ニッポンに行くのはこちらで熱《ほとぼ》りが冷めてからになると思う」

 院長は記者の騒がしさに打ち勝つように太い声でそう言った。そして「行ってくれ」と言いながらヒカルの背中を押して、大勢の群れから出す。
 人々の熱気から抜け出すと、新鮮な空気が彼の声を運んだ。

「また会おう!」

 ヒカルは手を大きく振って「また!」と叫ぶ。人の頭越しに彼の笑顔が見える。ペドロと同じその褐色の肌は白い歯を一層目立たせていた。
 キャリーケースを引いて搭乗口に入ろうとしたとき、パンツのポケットに手を突っ込んで立つヴィトールに気が付いた。白いTシャツにデニムパンツというラフな格好。ここに来たときのことを思い出す。
 片手を軽く挙げて、

「ペドロがニッポンに行くときは俺もついていく。だからまたすぐに会えるだろうよ。またな」

 と言うと、彼らしい派手な笑みを浮かべて歩いて行ってしまった。
 そこには彼の研究室と同じ消毒液の香りが強く残っていた。彼自身の香りは今のヒカルには感じ取れない。
 搭乗口の前で座り込んでスーツケースを広げる。そして初日、彼が土産としてくれたジャスミンとネロリの合成液を取り出した。ピンク色のその液体に鼻を近付けて息を吸うと、甘さと爽やかさの混じった不思議な香りがした。
 一息ついて小瓶を仕舞い込み、今度こそヒカルは搭乗口を通った。
 ガラス張りの窓から青空を見上げると、白く大きな機体が飛び立ったり降り立ったりしている。伯剌西爾の空はニッポンのそれより何倍も綺麗に見える。
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