カサンドラ

岩崎みずは

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カサンドラ

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 オーブントースターに食パンを放り込み、卵とベーコンを焼く。コーヒーを淹れる。決して広くは無いキッチンでの、いつもと同じ動作。
 いつもと同じ朝。
 息子が、両手で目を擦りながらようやく階段を降りてくる。目覚まし時計が鳴り響いていたのは二十分も前だというのに、ぼんやり眠たそうな顔。
 さっさと食べなさい。遅刻するでしょう。昨夜は何時までゲームをやってたの。
 お決まりの小言を、私は今朝は口にしない。ただ、おはよう、とだけ言って、食卓についた息子の前にトーストとベーコンエッグの皿を置く。
 今日は水曜日で部活無いから、早く帰って来れるからさ。
 目玉焼きを載せたトーストを頬張りながら、唐突に息子が言う。
 あかね屋のコロッケ、買っといて。
 都内でも有名な老舗惣菜店あかね屋のコロッケは、開店前から行列が出来る程の人気で、午前中には売り切れてしまう。
 誕生日にはケーキと葡萄、それとひき肉のたっぷり入ったあかね屋の特上コロッケ。息子が幼稚園に通っていた頃からの我が家の定番メニューだ。
 少し嬉しくて、私の唇に微笑が浮かぶ。私は頷く。分かった、という印に。
 息子は今日で十五歳になる。バスケットボール部だから、というわけでもなかろうが、背はとうに私を抜いて、反抗的で、何かというと生意気な口ばかりきいて。何処へ行くにも私の手を握って離さなかったあの可愛げは遥か彼方に遠ざかってしまっていて。
 そんな息子が、学校の友人とではなく、今年も私と誕生日を過ごそうと考えてくれていることが、少し幸せで、嬉しい。
 勿論、口には出さない。一昨年も去年も、嬉しいのをわざと隠して、あんたもいい加減に誕生日を一緒に祝ってくれる彼女でも作りなさいよ。そう茶化してやったものだ。
 きっと、かれはかれなりに私に気を遣っているのだ。母一人、子一人の暮らしもいい加減に長い。
 ふと顔をあげた息子が、怪訝な表情を浮かべる。いつもと違うことに気づいたのかも知れない。私がかれを茶化さない事に、それとも、滅多にしない薄化粧をしている事に?
 私は、何も言わない。言わないが、心のなかで息子に詫びる。かれの好物のコロッケを買ってきてやれないことに。今年の誕生日を一緒に祝ってやれないことに。
 息子はなにか言おうとした。私を見つめ口を開きかけ、でも、思い直したように視線を逸らす。

 私は夢を見る。
 きっかけは何だったのだろう。自分自身にも分からない。でも、最初のあのときを思い出すことは出来る。
 ずっと、ずっと幼い頃だった。冬のある日、飼っていた小鳥が死んだ夢を見た。
 雛のときから餌を与え手乗りに育てた真っ白な文鳥。生まれつき片方の風切り羽が無く、跳びあがることは出来ても飛ぶことは出来なかった。
 夢のなかで、私は泣いた。餌をやるのを忘れていたのだ。凍えるような冬の寒さの前では、たった一度餌を替えるのを怠っただけで小鳥が死んでしまうなんて、その頃の私は迂闊にも知らなかった。
 泣きながら目が覚めて、私は慌てて餌箱に餌を流しいれた。
 予知夢、というのか。虫の知らせとでも言えばいいのか。私は夢に感謝した。霊感などないし、超自然なものなど信じたことは無いけれど、夢が警告してくれたお陰で、愛する存在(もの)を失わずに済んだのは事実だった。
 だが。
 一週間も経たないうちに、私は再び夢を見た。悪夢に魘され、全身に冷たい汗をかいて目を覚ましたことを今でも覚えている。
 週末、私はいつもと同じようにケイジを掃除した。いつもと同じに、鳥を部屋に放していた。ケイジの掃除をするときは、いつもそうするのだ。
 突然、かの女が私の肩から飛んだ。
 飛べない筈の小鳥の片方しかない風切り羽が、私の頬を一瞬、撫でた。
 かの女はベッドの横の窓に向かって、一直線に飛んだ。
 その窓は、開いていた。私が開けておいたのだ。
 何故なら、悪夢のなかで見てしまったから。普段は開けないその窓にぶつかったかの女の小さな体がカーペットの上にぽとりと落ちて、そのまま動かなくなった場面を。
 夢だ。ただの夢なのだ。
 でも私はその日、窓を開けた。小さな命を失うことを懼れて。
 窓から鳥が外に逃げたとしても心配はなかった。私の部屋は一階で、それに何より、片方の風切り羽しか持たないかの女は、遠くまで飛ぶことは出来ない。
 文鳥は開いた窓から体を躍らせ、多少不恰好ではあったが、外の芝生に着地した。夢のお陰で、今度もかの女の死は回避された筈だと思った。
 なのに。どうしてあの場所に、塀の上に、金色の目をした鴉がいたことに気づかなかったのだろう。
 黒い鴉は、死神の化身。
 鴉の頑強な嘴は、満足に飛ぶことの出来ない小鳥の体を引き裂くには十分に鋭くて。
 私の愛した白い小鳥は、死んだ。真っ黒い鴉に突き殺された。
 枯れた芝生の上、近所の子供が置き忘れた玩具のように、そこかしこに散らばった血塗れの羽。私は悲鳴をあげた。叫びながら、今度もこれが夢であればいいと思った。だが、それは夢ではなかった。

 私は、夢を見る。
 祖父が亡くなった夢を見たとき、誰にも言わなかった。母親が突然に逝ってしまったときも。私はその場に居合わせなかったから、私が夢に見たと同じ場面が実際に起こったのかどうかは知る由も無い。むしろ、そんなことを私に話そうとする人が現れたとしても、私は耳を塞いだだろう。
 夫が死んだときだけは、別だ。
 バイクで通勤していた夫を、その朝、私は必死で止めた。夢で見たことは口にしなかった。
 雨で道が滑って危ないから、今日だけは電車かタクシーを使って。
 泣きながら、ほとんど半狂乱になってそれだけを繰り返す私は、あのとき夫の目にどう映っただろうか。
 おかしな発作に襲われた病人を目の前にしたような、心配しながら、同時に何か気味の悪いものでも見るような狼狽えたかれの表情を、私は忘れることは出来ない。
 夫は、バイクの事故では死ななかった。その代わり、乗っていた電車の脱線事故で死んだ。かれは、同じ事故で亡くなった二十三人のうちの一人に過ぎなかった。

 死神の手から逃れることは不可能なのだろう。例え予知することが出来たとしても。それまでの経験から私が学んだ唯一の真実。
 回避しようとすればするほど、より過酷な死が待っている。
 カサンドラ。
 ギリシア・ローマ神話の一人の登場人物の名が、私の脳裏を過ぎる。
 トロイの王の娘にして、凶事の預言者。人々は、不吉なことしか口にしないその娘を疎み、遠ざけたという。太陽神は自分の愛を拒んだ少女に呪いをかけたのだ。誰もかの女の予言を信じないという呪いを。
 誰一人信じてくれないと知りながら、何故カサンドラは予言を言葉にしたのだろう。未来を知ったところで、運命を変えることなど出来はしないのに。
 でも、私は違う。私は言わない。誰にも何も言わない。大切な人を誰も不安にさせたくはない。
 息子は玄関先でまだぐずぐずとしている。私の顔を見て何か言おうとするような仕種を繰り返す。
 傘を持って行ったほうがいいわ、きっと雨になるから。
 息子が口を尖らせる。
 さっきニュースの天気予報で、今日は一日晴れだって言ってんのを聞いたばっかじゃん。
 私は息子に笑いかける。私たちにとって大切な記念日。今日だけは、かれを急かしたり叱ったりしない。
 涙は見せない。薄化粧をしてよそ行きの服を着て髪を整えた、精一杯のきれいな姿のままで、かれの記憶のなかにとどまりたい。
 私は何も言わず首を横に振る。今日、雨は降る。それを知っているから。
 昨夜の夢。
 雨のなかで死んでいる自分がそこに見えた。
 自転車で買い物に出た私は、通りの角を曲がり損ねた乗用車にはねられ、濡れたアスファルトに叩きつけられるのだ。今日、私は、死ぬ。
 お母さん。
 思い切ったように、息子が口を開いた。ここ最近私を呼ぶときのオカン、とかお袋、なんていう生意気な呼びかけではなく、ずっと小さな頃の頼りなげな口調そのままに。
 十五歳の息子は、その瞬間だけ、五歳の子供に戻ったように見えた。
 なんで、いまにも泣きそうな顔をしているの?
 その問いに私は答えない。その代わり、微笑してみせた。

                                        《Fin》
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