世界でいちばん最後の

岩崎みずは

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17.

世界でいちばん最後の

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「ごめん、匡平」
 囁くような声で啓樹が繰り返す。
「いーよ。謝んなくて」
 こういうことは、謝られれば謝られる程に惨めになる。脱ぎ捨てたTシャツを拾い上げ、裏返しになったそれを1枚ずつ剥がしてまた身に着ける自分は随分と滑稽だ。
「男同士だから?だから、イヤなの?」
 責め口調にならないよう出来るだけの注意を払って問いながら、嫌な予感が的中したような気がしていた。
「なあ、答えろよ。女が相手だったら、平気なの?お前、彼女いたんだろ」
 啓樹は力なく首を横に振る。
「女の子でもダメ。中学と高校のとき、コクられて付き合った子がいたけど、どっちも、3か月くらいしかもたなかった。俺、ひとに触られるのが苦手なんだ。どうしても、嫌なんだ」
 強迫性障害というものだろうか。でも、カラオケボックスでも公園でも、匡平は啓樹に触れている。ずっと小さい頃は、毎日手を繋いで幼稚園に通っていた。ということは、だ。肌に触れられるのがなんでもかんでも全て嫌、ということではない。
「セックスが、嫌だってことか?」
 啓樹は黙って俯いたままだ。だが、否定も肯定もしないのは、認めたと同じことだった。性的なことに結びつかないのなら、手を握るのも肩を抱かれるのも心地よいと思えるのだろう、或いはキスくらいまでは受け容れられるのかも知れない。相手が、というより匡平が、それ以上の欲求をぶつけたりしない限りは。
 これで確定だ。啓樹はセックス嫌悪症、或いは恐怖症だ。
「でも、俺はひろを抱きたい。ひろとセックスしたい」
 啓樹がびくりと身を竦ませるのを見て、匡平は慌てて付け足した。
「いや、だからって、無理強いはしねえから」
 本当は、無理矢理にでも抱きたかった。啓樹を完全に自分のものにしたくて堪らなかった。だが、必死にその気持ちを抑えた。
 ごめん、と啓樹が呟く。声を出さずに、唇の動きだけで。
「俺、こんなだから、匡平に、付き合って、なんて言えない。匡平のことが好きで好きで、今だって、さっきまで女の子と一緒だったって聞いただけで嫉妬でおかしくなりそうなくらいに好きなのに、匡平の求めには応じられない。だから、俺と付き合ってるなんて思ってくれなくていい」
 だから、連絡出来なかったんだ、こうなるって分かってたから。
 苦しそうに告げる啓樹に、言ってやることは出来なかった。別に、寝ることだけが全てじゃないんだから、俺はそんなの気にしねーよ、とは。匡平にとって、いや、健康な男なら誰でもそうだろうが『好き』と『欲しい』はイコールだ。カラカラに枯れちまった爺さんでもあるまいし、慕い慕われる相手と体の関係を持てないなんて、そんなの随分と理不尽な話じゃないか。
「そうか」
 啓樹の望みが、まま事レベルの清い交際とかいうものなのだとしたら、それに最後まで寄り添える自信など、匡平にだって、ない。
「取り敢えず、今日は帰るわ。また連絡する」
 それだけ言って、ジャケットを手に立ち上がる。それまで項垂れていた啓樹が顔をあげ、何かを言おうとしたが、思い直したように口を噤んだ。
 建物から出ると、既に外は暗くなっていた。陽が沈むと同時に散り失せる昼間の暖かさは、アスファルトから立ちのぼる冷気にとっくに取って変わられている。
 触れられるのが嫌。セックスが嫌。それは、啓樹の子供時代のトラウマと関係するのだろか。両親の実の子ではないと知ったときから。愛情を信じられなくなったときから。だが、何も分からない。匡平にはどうすることも出来ない。
 学校を退学し、これからどうするつもりなのかと確かめに行った筈なのに、肝心なことをすっかり失念していたことをようやく思い出した。
 いや、それを聞き出したところで俺があいつになにをしてやれる?ひろを、あの棺桶みてえな部屋から連れ出すことも出来ない、俺みたいなガキに。
 母親が命を断った場所に、たった一人でとどまり続けるしかない啓樹。それを考えると、無力感に打ちのめされそうになる。
 吐く息が、白い。胸のなかにもぽっかりと空白が広がっていくような気がした。



 母親が誰かと早口に喋っている声で目が覚めた。日曜日だというのに、朝っぱらから騒々しいことだ。軽く嫌味の一つでも言ってやろうと眠い目を擦りながら部屋から出ると、スマートフォンを手にしたままの母親と廊下で鉢合わせしそうになった。
「匡平、これ見て」
 母親の頬が紅潮し、いつになく興奮している。BGMでも流してやったら今にも踊りだすのではなかろうか。
「赤ちゃんの動画。お父さんに頼んで送ってもらったのよ」
 早朝からの電話の相手はどうやら父親だったらしい。見たいとも返事をしていないのに、画面を目の前に突き付けられた。
「いや、動画ったって。これ、寝てるだけじゃん」
 保育器、ではないのだろうが、病院のベッドのなかで寝ているだけの赤ん坊の姿。可愛いんだか可愛くないんだかすらもよく分からない。
 寝てて当り前でしょ、生まれたばかりなんだから、とまるで匡平がアホウでもあるかのように言うと、母親はまたうっとりとした目で画面に見入る。
「やっぱり血が繋がってるのよね、赤ちゃんの頃のあんたとそっくり」
 その台詞には思い切り異を唱えたかった。俺はこんな猿みてえじゃねえよ、と言い返したかったが、逆鱗に触れることが分かり切っていたので黙っていた。 
「年末年始はあちらも実家に帰るだろうし何かと忙しいだろうから、赤ちゃんの顔を拝めるのは二月か三月くらいかしらね」
 何度も再生を繰り返しながら、母親が呟く。
「顔を拝める、って、まさか母ちゃん、親父の家に乗り込むつもりじゃないだろ?」
 幾ら赤ん坊の顔が見たいからと言って、新婚家庭に旦那の別れた元妻に遊びに来られた日には、沙都子も堪ったものではあるまい。
「馬鹿ね、私が行けるわけないでしょ。あんたが行くのよ」
 強気に言い返す母親が、少し気の毒になってくる。これが、匡平の好きな洋画や海外ドラマの世界であれば、一人の男の新旧の妻が親交を深めるといったようなストーリーも今までどこかで見かけたかも知れない。日本より離婚率の高い国ではステップファミリーなど珍しいものではなく、血の繋がりに関係なく家族が結びついているイメージがある。だが、生憎、ここは日本だ。少なくとも、日本人のほうが欧米より、血の繋がりというものを重視しているような気がする。沙都子に好意を持っていようが、どれだけ赤ん坊の顔を見たかろうが、匡平の母親が沙都子に歩み寄るなど、大概の人間からは非常識なことだと取られるだろう。
 二月か、三月。風邪が流行る時期は避けて、春くらいのほうがいいかもね。その頃には赤ちゃんの首も座る筈だから、抱っこさせて貰いなさいね、と言われ、匡平は聞こえない振りをした。一人っ子歴十七年の匡平にとって、初めての兄弟だ。血の繋がった弟なのだから確かに間近で見てはみたいが、視えぬ取扱い注意ラベルがベタリと貼られているような代物を腕に抱いてみたいとまでは思わない。
 きひひひひ、と母親が奇妙奇天烈な笑い声を立てる。俗にいう、鬼姫笑いというヤツだろうか。
「ああ、楽しみだこと。髪を振り乱して子育てに奮闘して、せいぜい苦労すればいいのよ。あんな上品ぶって本ばかり相手にしてきたような人がどんなふうになるのか見物(みもの)だわね」
 匡平は溜め息をついた。本音は沙都子を気に入っているくせに、事あるごとに悪態をつくのは相変わらずだ。
「そういうのやめろよな。新人OLのピチピチお肌にジェラシー全開のお局みてえじゃんかよ。幾ら佐藤さんが若くて可愛いからって」
 ふん、と鼻を鳴らし、母親は匡平を見据える。
「若いって、あんた、あの司書さんが幾つだと思ってんのよ」
 多く見積もって、俺と一回り違うくらいだろ、と答えた匡平に、母親はまたしても馬鹿にしたような笑みを返した。
「ほんっと女を見る目がないわね、この青二才が。あの子、私と10歳違う程度よ」
 言葉に詰まった。匡平は沙都子の年齢を二十代の後半だと踏んでいた。だが、母親と10歳違いとなると、三十代の半ばから後半ということになる。とてもではないが、そんな年齢には見えなかった。
 ああいう地味なタイプは若く見えるのかしらね、とまたもや毒を吐いた後、母親は、ふと真面目な表情になった。
「二十代の体力だって子供を育てるのって大変なのに、立派だって思うわ。まあ、今どきは三十代、四十代での初産だって珍しくないから、あの子に限ったことじゃないけど」
 ふ、と溜め息を漏らし、両手の指を組む。
「放っておいても子供は育つ、なんて言ってる馬鹿もいるけど、クソ喰らえよ。赤ん坊なんて、寒いも痛いも泣くしか表現出来ないし、食事もシモの世話も出来なきゃ、四・五か月くらいにならなきゃ自力で寝返り一つ打てないのよ。誰に褒められるわけでもないのに母親は必死に子供の面倒を見て、育てて、それで、十五年も経てば、産んでくれなんて頼んだ覚えはない、なんて悪態つかれてさ」
 匡平は黙り込んだ。荒れていた中学生の頃、その台詞を母親に向かって幾度も吐いた。あまりに馬鹿で幼稚で、くしゃくしゃに丸めて屑籠に放り込みたいような恥ずかしい記憶。
 だから、しっかり見てきなさい。母親っていうのがどれだけの自己犠牲の上に成り立っているもんか。最低、自分の母親だけは大事にしなきゃ、って気持ちになる筈よ。
 当時の仕返しでもするつもりなのか、畳み掛けるように母親は続ける。土下座でもして全て白紙に返して欲しいと思う反面、休日のこんな朝っぱらからこれ以上捻じ込まれるのは堪らない。早々に逃げ出そうとしたとき、不意に気づいたことがあった。母親は、指を組むことが多くなった。チェーンスモーカーらしく、今までは煙草とライターが常に指に挟まれていたというのに。
「そういや、かーちゃん、いつから禁煙してんだっけ?」
 匡平の母親は微笑し、組んだ指のうえに目線を落とした。
「あのひとの喪に、服してたの」
 誰のことか訊くまでもない。あのひと、とは藤代霜子のことだ。
「それと、願掛け。無事に赤ちゃんが生まれてきますようにって」
 じゃあ、無事に生まれたんだから、また吸えるじゃん、あ、禁煙解除だからテンション高かったんだ、と茶化して返すと、母親は静かに首を横に振った。
「今までは手持無沙汰だったから吸っていただけ。もういいのよ」
 どれ程明るく振る舞ってはいても、母親はまだ藤代霜子の死から立ち直れてはいない。それが分かっているから、匡平はそれ以上何も言わなかった。胸の前で固く組まれた両手の指。それは、祈りを捧げるひとの姿によく似ていた。
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