飛竜烈伝 守の巻

岩崎みずは

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其の弐 因果流転◆轟命

飛竜烈伝 守の巻

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 目を覚ましたとき最初に気づいたのは、遠く聞こえる読経の声だった。
 ひんやりとした薄暗い、見覚えのない部屋。その広い部屋の中央に敷かれた布団に、竜は寝かされていた。
 静かに身を起こす。
 驚いたことに、上掛けの下は裸だった。白い包帯や絆創膏に覆われた自分の手足が、嫌でも目に入る。
 ここは、何処なんだろう。
 えーと。俺は、三ノ輪城址で、あいつと、あの鬼、怪士と戦った。
 それからどうしたんだっけ?
 冷たい空気に肌を曝していると、少しずつ頭が冴えていく。
 確か、前にもこんなことがあった。三ノ輪での最初の戦いのときだ。目が覚めたら、婆ちゃんが俺の手当てをしてくれていた。
 ひょっとして、怪我をして気を失い、どっかに転がってるところを誰かに拾われて手当して貰うってのが、俺の得意技なのか?
 枕元に積まれたものを手に取り広げて見ると、それは泥や血の汚れを落とされ丁寧に畳まれた、竜の学生服だった。
 誰かが、ここに置いてくれたんだ。
 その誰か、とは、無論、敵ではあり得まい。そして服の横には、今の竜にとって何より大切なもの、虎が届けてくれたあの刀が、きちんと鞘に納められ、置いてあった。
 竜は右手を延ばし、鍔の部分にそっと触れた。冷たい鋼(はがね)が竜の指先から熱を吸い取って、少しずつ温もりを帯びていくのが分かる。それと同時に、それまで凍らせていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
 この刀を抱いて、婆ちゃんは死んだ。俺の目の前で。
 何をしとるか、竜。さっさと稽古を始めんか。先ずは素振りと切り替えし、二百本。
 頭の奥に、祖母の声が甦る。
 でも、もう二度と、婆ちゃんに怒鳴られることはないんだ。
 竜は、手のひらに爪が喰い込み、血が出る程に、拳を固く握り締めた。
 これまで自分の身に起こったことは全て、遠い昔に見た映画の一場面のように現実味を欠いているというのに。
 祖母の死。
 それだけは、残酷だが、紛れもない事実。
 静かに、背後の襖が引き開けられた。
「目が覚めましたか」
 声と共に不意に部屋の灯りが点され、暗闇に慣れた目を竜は瞬(しばたた)いた。
 眩しさに眇(すが)めた目のなかに入ってきた人物は、亜麻色の長い髪を背中で結わえた長身の青年だった。彫りの深い、日本人らしからぬ顔立ち。どこかで会ったような気がするが、思い出せない。
「あんたは、誰だ?」
 間の抜けた質問だとは承知しながら、青年に問う。
「あんたが俺を助けてくれたのか?」
 青年は否定の印に首を横に振り、にこりともせずに答えた。
「初めの質問からお答えします。わたしの名は白夜。老にお仕えしている者です。次の質問は、正確に言うなら、老の指示でわたしがあなたをここへ運びました」
「ろう?」
「あなたも既にお会いしている、雀部老のことです」
 そこまで聞いて、ようやく合点が行く。戦場に向かう朝に、竜はこの青年の姿を目にしていた。
 白夜(びゃくや)と名乗った青年は、見たところ竜よりも幾つか年上、二十歳前後といったところか。落ち着きはらった物腰から見れば、もう少し上かも知れぬ。だが、年少の竜に対する丁寧過ぎる言葉使いや慇懃な態度からは親しみが感じられず、竜は、第一印象で、白夜のことを好きになれそうもないと思った。
「着替えが済みましたら、広間のほうへいらしてください。老がお待ちです」
 それだけ言うと、かれは、入って来たときと同じように静かに襖を開け、足音もたてずに出て行った。
「おい、ちょっと」
 竜は慌ててTシャツとズボンを身につけた。袖を通す前に思いついて学生服の上着を広げ、頭上に翳してみる。
 思わず苦笑が漏れる程、あちこちが裂かれ、どころか、焼け焦げた箇所までがあった。
 ボロボロになった学生服が物語っているのは、竜が体験した闘いの激烈さにほかならない。これでよく自分は無事でいるものだ。
 竜は上着を羽織ると、部屋を飛び出した。どこに消えたのか、白夜の姿は既になく、竜の目の前には真っ暗な長い廊下が延々と続いている。
 ここは、あの寺なのだろうか。
 外からあの廃屋同然の寺を目にしたときは、これ程に広い造りとは想像もしなかった。
 いつの間にか、読経の声は止んでいた。
 幾度か回廊を巡り歩き回った後、ようやく襖の隙間から明かりの漏れている部屋を見つけ、竜はその中に足を踏み入れた。
 広い部屋だった。
 およそ二十畳程もあるだろうか。家具類が一切置かれていないだけに、余計に広く見える部屋の中央に、僧侶らしく袈裟を身に纏った雀部と、その少し後ろに控えるように正座した白夜が、竜を待っていた。
「随分と長いこと眠っておったが、気分はどうだね」
 雀部が、初めて出会ったときと同じ、穏やかに問いかける。
「お腹がお空きではありませんか?食事の支度が出来ています」
 雀部の暖かい声とは真逆の、冷たく抑揚のない白夜の口調。
 竜は、そのどちらにも言葉を返さなかったが、目の前に運ばれた膳から漂う食べ物の匂いに、いきなり胃の腑を強く掴まれたような気がした。自分が空腹だということすら、今の今まで忘れていたのだ。
 礼を言うのももどかしく、竜は、箸を掴むと、椀の中身をかき込んだ。白夜が用意してくれたのは粥のようなものだったが、ゆっくりと味わう余裕もなかった。
 目の前の雀部と白夜、二対の目が、まるで監視するように自分を見つめているのを感じる。だが、竜はそれを敢えて意識の片隅に追いやった。
 何より、雀部に訊かねばならぬことが、竜にはあった。
「婆ちゃんは?婆ちゃんがどこにいるか、知ってるのか」
 自分でも驚く程に、その問いは感情を交えない醒めた声で、がらんとした部屋の中に響いた。
 が、目を伏せた雀部の答えに、竜は激昂した。
「お婆さんのご遺体は、荼毘(だび)に付した」
「何だって?」
 竜の手から滑り落ちた箸と椀が膳にぶつかり、凄まじい音をたてた。竜は一息で部屋を突っ切ると、雀部に飛び掛かった。そのまま着物の襟元を掴み、締め上げる。
「ふざけんな。俺の婆ちゃんだぞ。俺に訊きもしないで、何で勝手にそんなことすんだよ?」
 もう二度と会えない。絶望的なその想いが、竜に我を忘れさせた。
 出来ることなら、もう一度祖母に会いたかった。眠る祖母に、これから自分がどうするべきかを問いかけたかったのに。
「落ち着きなさい」
 白夜が竜を、雀部の身体から引き離し、押さえつける。
「放せよ。放せッたら、馬鹿野郎」
 冷静な表情や口調とは裏腹に、竜の腕を捩じりあげる白夜の手には驚く程の力が籠められていた。
「落ち着いてお聞きなさい。老を責めるのは、間違いです。あなたがここに運ばれてきてから、もう三日が経っているのですよ」
 白夜の言葉に、我に帰る。咳き込みながら老人は白夜を促し、竜を掴んだ手を離させた。
 全身の力が抜けた竜は、その場に座り込んだ。
 俺は、何をやってるんだろう。
 連れ去られた親友を取り戻すことも出来ず、たった一人の家族も失って、その上、助けて貰っておきながら、その恩人の前で聞き分けのない子供みたいに暴れるなんて。
 無性に、自分自身が情けない。
 結局、俺は、一人じゃ何も出来ない馬鹿なガキなんだ。
「お前さんは、この短い間に、随分と辛いことに耐えて来たんじゃな」
 心の中で、張り詰めた何かがゆっくりと解けていく。涙が零れそうになり、竜は慌てて瞬きを繰り返した。
 老人が竜の肩に手を置き、笑いかける。その微笑は、途方もない優しさ、無限の慈愛を覗かせていた。
 竜は悟った。あの読経は、虎のための鎮魂歌だったのだ。
「もう一人で耐えなくていい、儂らはお前さんの味方じゃよ」
 雀部の言葉が、深く胸に沁みた。
 膝をつき、拳で涙を拭う竜の肩を、まるで幼い子供にするように、老人が優しく叩いてくれている。その皺だらけの骨ばった手は、かつて竜の手を引いてくれた祖母のそれに、不思議な程、よく似ていた。
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