飛竜烈伝 守の巻

岩崎みずは

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其の肆 冥戦剣変◆迷図

飛竜烈伝 守の巻

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 白夜と名乗った青年は、槍の名手だった。
 鋭い槍穂は、何度も正確にかれの急所に向かって繰り出された。だが、如何な使い手といえ、所詮、生身のただの人間。獅子王の敵ではなかった。
 幾度倒され打ち払われも、それでも諦められぬのか、我武者羅に立ち上がる。その白皙の額は、ばっくりと割れ、滴る鮮血が、端正な顔を朱に染めている。
「もう、やめたらどうだ」
 五度目、或いは六度目かに、かれを地に叩きつけたとき、獅子王は思わず口に出した。
 獅子王には理解出来なかった。
 たかが、現世(うつしよ)の塵の如き存在でしかない男。獅子王がかつて生きた時代、戦国の世では考えられない平和を、安穏を享受し、ぬくぬくと暮らしてきただけの筈の人間が見せる、この死に物狂いの意地は、一体何なのだろう。
 勝敗は既に見えている。もはや、この先の戦いは、徒労でしかない。何よりも、自身より脆弱な者を嬲り殺すなど、誇りが許さなかった。
 折れた槍を杖に、何とか立ち上がろうともがく白夜の、ひび割れ、乾いた血がこびりついた唇が、微かに動いたのが見えた。黙れ、と呟いたのに違いない。その返答に獅子王は、ふと、虚しさを覚えた。弱いということは、結局、罪悪なのかも知れない。己れを護るだけの力すら持たぬ弱者に、生命を語る権利などは無いのだ。
 獅子王は青年の体を蹴り上げた。仰向けに倒れた胸の上に、巨大な足を振り下ろす。
「動けまい。敗北を認めるがいい。命まで取ろうとは思わぬ」
 ほんの少し力をこめるだけ、足に体重を乗せるだけでよい、それだけで、かれのアバラは粉砕され、折れた骨の破片が臓物に喰い込む筈だ。
「黙れと言った筈。常世から迷い出でた幽鬼の戯言など、聞く耳は持たぬ」
 青年は激しく咳き込み、真っ赤な血の塊りを吐いた。血を吐きながら、最期の悪あがきのつもりか、血だらけの両手の指が、獅子王の左足、踝の辺りを掴んだ。
「殺したくば、殺すがいい。手心など無用。だが、この白夜も、ただで殺されはしませんよ」
 一瞬、獅子王は、白夜に掴まれた左足に、鋭い無数の針で突かれたような痛みを感じた。だが、それはそう感じただけなのかも知れぬ。
「第一、あなたなどに、竜を渡すわけにはいかない」
 青年の言葉が、獅子王には意外だった。すると、この混血の青年は、ただ、飛竜のためだけに戦っていたというのだろうか。
 獅子王は、声に出して言ったわけではないが、答えるように、青年は続けた。苦しげに息を継ぎながら、呟くように。それでも、言葉は明瞭だった。
「どういうわけか、わたしはかれが気に入っているのですよ。何より竜との喧嘩も、まだ勝負がついていないのでね」
 かれは、逆に、獅子王に問うた。
「憐れなり、幽鬼よ。現世に迷い出て、盲目となり果てたか。愚かな復讐の狂気に囚われた主(あるじ)に仕え、同じ袋小路に足を踏み入れるとは。更に今、その先に何を望む?」
 獅子王は答えなかった。否、答えることが出来なかったというほうが正しい。飛竜のことを語ったときの、微かな皮肉を含んだ楽しげな口調とはまるで違う。白夜の問い掛けは、限りなく静かで、かつ、上品な非難であり、同時に、どこか苦痛にも似たものを含んでいた。
 死を目前にしてさえ濁ることのない、白夜の辛抱強い目の光が、獅子王の心の奥深く封じられた何かに触れた。
 掴まれたままの左の足を敢えて振り解こうとはせず、だが、少しずつ力を加えていく。
 二度と聞きたくはない、骨の砕ける不快な音がした。白夜は一度だけ小さく呻き、その両手から力が抜けた。
 それきり、青年は動かなくなった。
 死んだのか?
 獅子王は、白夜が最期まで離そうとしなかった折れた槍を拾い上げると、かれの手に握らせてやった。くだらぬ感傷だ、と思いながら。
 後悔は無かった。後悔など、今さらしたところで何も始まらぬ。この男が自ら選んだことなのだから。
 だが。
 そう己れの心に言い聞かせながら、白夜の呟いた言葉が、獅子王の胸のうちに静かに響き始めたのも、また、事実だったのである。
 穏やかな白夜の言葉、かれの遺したもの。かれの息遣い。最後の問いかけ。
 復讐の狂気に囚われた主、神子上紹巴に仕え、同じ袋小路に足を踏み入れるとは。
 更に今、その先に何を望む?
 憐れな幽鬼。かれ、白夜は、そうも言った。吐き捨てるようにではなく、罵りの語調でもなく。ただ、どこかに深い悲しみと非難をこめて。
 存外、それは真実かも知れない。
 確かに、獅子王も含めかれら闇隠弐は、無限の迷宮を彷徨っているのだ。
 だが、それも総て承知の上のことだった。白夜如き若造に指摘されるまでも無い。
 それにしても。
 刃を交えた獅子王だからこそ、分かる。白夜は、間違いなく、高潔で清廉な男だった。その男が、飛竜のために命を投げ出したのだ。もっとも、白夜は「飛竜」ではなく、「竜」と呼んでいたけれど。
 飛竜。かつての戦友(とも)。
 飛竜のことを思い出すと、未だ、軋むように胸が痛む。そんな己れの心弱さを、獅子王は激しく呪った。
 飛竜。
 不思議な程、ひとを惹きつける男だった。然程、特別な人物であったわけでは決して無い。家柄も判然としない、どころか、出自さえも皆目分からぬ、ある日、三ノ輪に迷い込んだ浮浪児に過ぎぬ少年。だが、成長するにつれて、かれの周りには常にひとが集まるようになった。まるで、飛竜自身が強い光を放つ星ででもあったかのように。
 そうだ。お館さまでさえ。
 誰にも心を許すことのなかった主君、神子上紹巴でさえもが心を開いた、最初で、そしておそらくは最後の男。かれの裏切りを目の当たりにした獅子王ですら、あれは何かの間違い、ただの悪夢であったのだと考えることがある。
 悪夢の只中に身を置いている、現在(いま)であっても。
 不破。 
 懐かしい声が聞こえたような気がした。獅子王は咄嗟に頭を巡らせた。空耳だと胸の内では分かっていながら。
 久遠の光のなかで、かつての友が、かれの名を呼んだ。初夏の光を一身に浴び、青葉の香りを甦らせて。
 そう。幻ではない。かつて、飛竜は確かにかれを、そう呼んだのだ。
 不破。
 ふわ、と。
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