名も無き星達は今日も輝く

内藤晴人

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狂想曲

─13─囁かれる噂

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 ふと人の気配を感じて、大司祭カザリン=ナロード・マルケノフは経典のページをくる手を止めた。
 顔を上げると、戸口に立つ人物と視線が合う。
 穏やかな面差しで入るようにうながすが、来訪者は立ちつくしたまま動こうとしない。
 一体、どうしたのだろう。
 疑問に思いながらも、大司祭は常と変わらぬ静かな口調で語りかけた。

「どうしたの? お入りなさいな」

 声に応じて長身を屈め一礼したのは他でもなく、ルウツ神官騎士団長のアンリ・ジョセだった。
 しかし常とは異なり、今日は白銀の甲冑姿ではなく、神官の制服とも言える飾り気の無い質素な長衣をまとっていた。
 柔らかく微笑む大司祭に対し、だがジョセは表情を崩すことなくわずかにうなずくと、後ろ手で扉を閉める。
 なおも所在無げに戸口に立ち尽くすジョセに、大司祭は無言で座るよう促した。
 再び一礼し腰をおろすなり深々とジョセは溜め息を吐き出す。
 それからようやく彼は、重い口を開いた。

「……宮廷は、まさに伏魔殿ですね。ミレダ殿下が今までご無事でおられたことが、不思議なくらいです」

 投げかけられた言葉に、大司祭は悲しげに眉根を寄せる。
 それは、予想通りの反応だったのだろう。
 更に深い吐息を漏らすと、ジョセはおもむろに懐から一枚の紙を取り出して、卓の上に広げた。

「どこで誰が耳をそばだてているやもしれません。私が申し上げたいことは、すべてここに」

 万一何者かに聞かれれば、我々の命も危うい、そうジョセは言外に告げていた。
 理解した大司祭は、紙上に視線を落とす。
 文字を追うその顔は、目に見えて青ざめていく。
 それは他でもなく、先帝の|崩御ほうぎょにまつわる様々な噂だった。
 先帝は病死ではなく、毒殺されたということ。
 毒を盛った人物は先帝と深い関係がある人物であるということ。
 その人物は、今至高の冠を戴いている存在であるということ。
 大司祭の顔は、目に見えて青ざめていく。

「色々とささやかれてはいたけれど……まさか……」

 言葉の続きを、ジョセは片手を上げて遮え切り、大司祭の手から落ちた紙を裏返す。
 無言のままペンを取り上げ、ただ一言こう記した。
『是』、と。
 黒々と光る文字を無言のまま見つめていた大司祭。
 一方のジョセは、淡々と更にペンを走らせる。

──先帝陛下がお隠れになった後、陛下の御典医や、先代のフリッツ公爵閣下など複数の親しい人物が不審な死を遂げています。それが口封じなのかは、未だ調べが及ばず……。また、何故今になってこのような話が出てきたのかも……──

「ありがとう。もう、いいわ」

 大司祭の叫びにもにた言葉に、ジョセはあわてて手を止めペンを置いた。
 そして、心底申し訳なさそうに深々と頭を垂れた。
 無理もない。
 物心付くころから司祭館で育った、純粋無垢な心を持つ大司祭である。
 ジョセが暴いてきた事柄はあまりにも血生臭く、受け入れがたい物なのだろう。
 目尻ににじむ涙を拭うと、大司祭は努めて落ち着いた声でジョセに告げた。

「謝らなければならないのは、私の方。調べて欲しいと頼んだのは、私。こうなるとは覚悟していたつもりだった。でも……」

 心のどこかで誤りであってほしい、そう願っていた。
 けれどかすかな望みが消えた今、取るべき道はただ一つしか残されていない。
 卓の引き出しに手をかけると、大司祭は一通の封筒を取り出してジョセの前に置いた。
 恭しくジョセはそれを取り上げると、いぶかしげに広げる。
 果たしてそこには、こう書かれていた。
『通行許可証』と。

「猊下……これは一体……」

 目を伏せたまま大司祭はつい、とペンを手に取った。
 そして、先ほどまでジョセが書いていた後にこう続ける。

──今の私が頼れるのは、貴方だけ。お願い。すぐにでも皇都を発って──

 しばしジョセは、沈痛な面持ちで紙面を見つめる。
 大司祭の筆跡は、その心境を表すかのように細く弱々しいものだった。
 小さく吐息をついてから、今一度ジョセもペンを取り、その後に書き加える。

──しかし、どこへ向かえば良いのですか? それに私が動くとなれば、立場上なんらかの大義名分が必要かと……──

──ペドロが言うには、あの子は今アレンタにいるだろうと。貴方は私の名代として飢饉に見舞われた辺境の視察という名目でオトラベスの街へ向かって。そこで……──

 オトラベスは巡礼街道の、聖地に最も近い宿場町である。
 ようやくジョセは合点がいった。

──ペドロと合流すれば良いのですね。その後は?──

 一瞬の空白。
 しばし黙考した後、大司祭は決断を下した。

──あの子を助けて。お願い、一刻も早く……──

 声無き叫びに、ジョセは思わず口元を覆った。
 この大司祭の意向に従うことは、皇帝の命に反することに等しい。
 そして事が明るみに出れば、最悪追手が差し向けられるだろう。
 やや固い表情を端正な顔に貼り付けて、ジョセはペンを走らせる。

──ご指示に従った結果、神官としての禁忌を犯すことになるやもしれません。万一私が他者をあやめてしまったその時は……──

 けれど。
 彼の弟子は、この三年弱の間、ずっとその自己矛盾と戦っていたのだ。
 人々を救い導く存在でありながら、自らの手で敵を屠り続けてきた……。
 その事実に、ジョセの顔には苦渋の表情が浮かぶ。
 そんな彼に向かい、大司祭はこう書き加えた。

──その時は私はこの地位を辞して、一生一神官として見えざるものに懺悔ざんげします。そうさせてしまうのは、他ならぬ私なのだから……──

 もはや大司祭に迷いが無いことは明らかだった。
 先ほどとは打って変わって力強い筆致。
 じっとジョセはその一文を見つめていたが、顔を上げた時にはすがすがしい笑みを浮かべていた。

──すべては、御心のままに。この未熟者の上に、見えざるもののご加護が有らんことを、どうぞお祈りください──

 つい、と大司祭の頬を涙が伝い落ちた。
 ジョセはさらに書き続ける。

──私は必ずお役目を果たし、愛弟子と共に猊下の御許へ戻って参ります──

「それまでどうか、お心安らかな日々を」

 言うが早いが、ジョセはそれまで筆談を交わしていた紙を取り上げ、ためらうことなく燭台の上にかざす。
 あっという間にそれが灰になるのを見届けて、ジョセは立ち上がり一礼する。
 不安げな大司祭の視線を背に受けて、ジョセは振り返ることなく部屋を後にした。
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