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狂想曲
─14─静かな対決
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皇国の実権を一手に握り、思い通りにならぬことは何一つないと目されていた宰相マリス侯は、少し迷っていた。
いや、迷うと言うよりは悩んでいた。
彼を不穏な思いにさせていたのは、他ならぬ皇帝メアリである。
病弱ではあるが頭は良く、物事を判断するには常に理論が先に立つ少女。
それが彼が初めてメアリに拝謁した時に抱いた印象だった。
考えるよりも先に行動を起こし、理論よりも感情が先に立つきらいのある妹姫のミレダよりも、理知的なメアリの方が一国を支える皇帝にふさわしい。
そう確信したからこそ、マリス侯はメアリに忠誠を誓い、結果今の地位を手にしたのである。
だが、宰相の予想に反してメアリはその内面に恐るべき狂気を孕んだ人間だったのである。
打てば響くような聡明さは、本性を覆い隠す仮面に過ぎなかった。
その仮面の下には、幼い子どもが持つ独特の残酷さが隠されていたのである。
成長と共にそれは増大し、今では細い一本の糸で理性を保っているようにも見受けられた。
悪いことに、女帝の心に潜むどす黒い闇は、このところ更にその深さを増しているようなのである。
女帝の中で沸き上がる負の感情は、近いうち彼女自身を飲み込むやもしれん。
そうすれば、この国は危うい。
おぼろげながらにそう感じたのは、先の御前会議の時だった。
まともに動ける兵力を欠いている今、自らの私怨から蒼の隊の出兵をごり押しし、あまつさえ総大将に妹姫を指名するなどと……。
その時の様子を思い出して、宰相は深々とため息をつく。
言うまでもなく、皇帝には伴侶はおらず、当然その血を受け継ぐ者はいない。
先帝崩御の後、皇位を脅かすであろう人物に血の粛清が下った今、継承権を持つのは妹姫ミレダと、暗愚と噂される皇帝姉妹の従兄弟フリッツ公イディオットのみであるにも関わらず、だ。
皇帝に万一のことがあれば帝位に就く立場の人物を戦の最前線に送り出すなど、冷静に考えればあってはならない事である。
この時ばかりは宰相も肝を冷やした。
自らの立場をかえりみず、思わず立ち上がり女帝を押し留めようとしたくらいである。
だが無情にも彼が行動を起こすよりも早く、ミレダはその命令を受け入れてしまったのだ。
自分は皇帝の人となりを見誤っていたのかもしれない。
かすかな疑問は、強い確信に変わりつつあった。
しかし今更、何を一体どうすれば……。
思い悩みながら議場を後にし、自らの館へ戻ろうとしていた時だった。
「宰相閣下、こちらにおわしましたか。執務室にお姿がなかったので、お探しいたしました」
不意にかけられた声に、マリス侯は顔を上げる。
かしこまってこちらを見るのは、神官騎士団長アンリ・ジョセであった。
はて、と宰相は首をひねる。
なぜなら名家の出とはいえ嫡子ではないジョセは、幼い頃に司祭館へ出された根っからの聖職者。
どろどろとした政の世界とは、まったく無縁の道を歩んで来たからだ。
そんな清廉な人物が、俗世にどっぷりと浸かった自分を探しているとは、果たしてどういう風の吹きまわしだろうか。
尋常ではないものを感じ居住まいを正す宰相に向かい、ジョセは歩み寄ると改めて礼儀正しく深々と一礼した。
「こ……これはジョセ卿。このような珍しい所で、しかも私に用件とは一体如何とされましたか?」
「恐れながら、宰相閣下のお許しをいただきたく参上いたしました」
思いもよらない人物から、やはり想定外の言葉を投げかけられて、宰相は僅かに片方の眉尻を跳ね上げる。
が、穏やかなジョセの双眸からは、その心中をうかがい知ることはできない。
果たしてどのようなことを、と身構える宰相をよそに、ジョセはやや伏せ目がちに、常と変わらぬ静かな口調で告げた。
「実は、大司祭猊下におかれましては、この度の飢饉にひどくお心を痛めておられまして……。願わくは御自ら聖地に赴き祈りを捧げたいとお考えなのですが、立場上叶いがたく。そこで私に……」
その申し出に、宰相は内心ほっと安堵の息をつきつつも、おくびにすら出さず鹿爪らしい顔で応じる。
「ジョセ卿に名代を仰せ付けられた。そういうことですかな?」
何かを探り出すかのような宰相の言葉に、ジョセは短く御意と返答し、深々と頭を垂れる。
慈悲深い大司祭のこと、もっともな申し出ではある。
けれど今は、公にはしていないが国の命運を賭けた大戦を控えた今の時期である。
長年政敵を出し抜き、陰謀渦巻く宮廷を生き延びてきたマリス侯の経験が、何かを告げている。
その真意は、如何。
そう問いただそうとした時だった。
突然乾いた拍手の音が聞こえてきた。
いや、迷うと言うよりは悩んでいた。
彼を不穏な思いにさせていたのは、他ならぬ皇帝メアリである。
病弱ではあるが頭は良く、物事を判断するには常に理論が先に立つ少女。
それが彼が初めてメアリに拝謁した時に抱いた印象だった。
考えるよりも先に行動を起こし、理論よりも感情が先に立つきらいのある妹姫のミレダよりも、理知的なメアリの方が一国を支える皇帝にふさわしい。
そう確信したからこそ、マリス侯はメアリに忠誠を誓い、結果今の地位を手にしたのである。
だが、宰相の予想に反してメアリはその内面に恐るべき狂気を孕んだ人間だったのである。
打てば響くような聡明さは、本性を覆い隠す仮面に過ぎなかった。
その仮面の下には、幼い子どもが持つ独特の残酷さが隠されていたのである。
成長と共にそれは増大し、今では細い一本の糸で理性を保っているようにも見受けられた。
悪いことに、女帝の心に潜むどす黒い闇は、このところ更にその深さを増しているようなのである。
女帝の中で沸き上がる負の感情は、近いうち彼女自身を飲み込むやもしれん。
そうすれば、この国は危うい。
おぼろげながらにそう感じたのは、先の御前会議の時だった。
まともに動ける兵力を欠いている今、自らの私怨から蒼の隊の出兵をごり押しし、あまつさえ総大将に妹姫を指名するなどと……。
その時の様子を思い出して、宰相は深々とため息をつく。
言うまでもなく、皇帝には伴侶はおらず、当然その血を受け継ぐ者はいない。
先帝崩御の後、皇位を脅かすであろう人物に血の粛清が下った今、継承権を持つのは妹姫ミレダと、暗愚と噂される皇帝姉妹の従兄弟フリッツ公イディオットのみであるにも関わらず、だ。
皇帝に万一のことがあれば帝位に就く立場の人物を戦の最前線に送り出すなど、冷静に考えればあってはならない事である。
この時ばかりは宰相も肝を冷やした。
自らの立場をかえりみず、思わず立ち上がり女帝を押し留めようとしたくらいである。
だが無情にも彼が行動を起こすよりも早く、ミレダはその命令を受け入れてしまったのだ。
自分は皇帝の人となりを見誤っていたのかもしれない。
かすかな疑問は、強い確信に変わりつつあった。
しかし今更、何を一体どうすれば……。
思い悩みながら議場を後にし、自らの館へ戻ろうとしていた時だった。
「宰相閣下、こちらにおわしましたか。執務室にお姿がなかったので、お探しいたしました」
不意にかけられた声に、マリス侯は顔を上げる。
かしこまってこちらを見るのは、神官騎士団長アンリ・ジョセであった。
はて、と宰相は首をひねる。
なぜなら名家の出とはいえ嫡子ではないジョセは、幼い頃に司祭館へ出された根っからの聖職者。
どろどろとした政の世界とは、まったく無縁の道を歩んで来たからだ。
そんな清廉な人物が、俗世にどっぷりと浸かった自分を探しているとは、果たしてどういう風の吹きまわしだろうか。
尋常ではないものを感じ居住まいを正す宰相に向かい、ジョセは歩み寄ると改めて礼儀正しく深々と一礼した。
「こ……これはジョセ卿。このような珍しい所で、しかも私に用件とは一体如何とされましたか?」
「恐れながら、宰相閣下のお許しをいただきたく参上いたしました」
思いもよらない人物から、やはり想定外の言葉を投げかけられて、宰相は僅かに片方の眉尻を跳ね上げる。
が、穏やかなジョセの双眸からは、その心中をうかがい知ることはできない。
果たしてどのようなことを、と身構える宰相をよそに、ジョセはやや伏せ目がちに、常と変わらぬ静かな口調で告げた。
「実は、大司祭猊下におかれましては、この度の飢饉にひどくお心を痛めておられまして……。願わくは御自ら聖地に赴き祈りを捧げたいとお考えなのですが、立場上叶いがたく。そこで私に……」
その申し出に、宰相は内心ほっと安堵の息をつきつつも、おくびにすら出さず鹿爪らしい顔で応じる。
「ジョセ卿に名代を仰せ付けられた。そういうことですかな?」
何かを探り出すかのような宰相の言葉に、ジョセは短く御意と返答し、深々と頭を垂れる。
慈悲深い大司祭のこと、もっともな申し出ではある。
けれど今は、公にはしていないが国の命運を賭けた大戦を控えた今の時期である。
長年政敵を出し抜き、陰謀渦巻く宮廷を生き延びてきたマリス侯の経験が、何かを告げている。
その真意は、如何。
そう問いただそうとした時だった。
突然乾いた拍手の音が聞こえてきた。
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