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最後の恋は神さまとでした

光を失ったピアニスト/8

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 ピアノの鍵盤の前に座るが、あんなに旋律が浮かび、順調だった曲作りも、まるで才能が枯れてしまったかのように指先が動かなかった。

 事務所の社長が言ったことは、自身でも合っていると思う。ピアニストはピアノから離れてはいけないと。

 しかし、いざ弾こうとなると、あのツアー初日のように、ぐるぐるとふたりの面影が頭を駆けめぐるのだ。

 深緑の短髪を持ち、はしばみ色をした無感情、無動の瞳。シャープなあごのラインで、男の色香が漂う従兄弟。

(光……)

 自分の名前を呼ぶ低い声がまるで媚薬にように、体の奥からしびれさせて、恍惚とさせる。ドラックみたいな常習生に身を任せないように気をつけつつ、光命はあごに手を当て、冷静な頭脳をフル活動させる。

(夕霧への想いを断ち切ることが成功する可能性の高い方法……?)

 赤茶のくるっとクセのついた髪で、とぼけた瞳。可愛らしい顔立ちの、言葉を聞き間違えるという――大暴投をして、飛び上がってまで驚く女。

(光さん……)

 いつだって、自分に至福の時を与えてくれ、名前を呼ぶ女性らしい声で男性であることを強く感じさせる。

 光命はあごにまだ手を当てたまま、女との出来事を何ひとつ順番も内容も間違えることなく脳裏でなぞる。

(知礼だけを愛せると成功する可能性の高い方法……?)

 細い足を優雅に組み替え、ダンパーペダルにかける足を交代した。

(倒れないようにする可能性の高い方法……? 倒れる原因を見つけ排除しても、やはり倒れてしまう……。どのようにすれば、倒れなくなるのでしょう?)

 どのパターンをたどっても、八十二パーセントを越すことはなく、言動にはっきりと移せる境界線を超えない。ほとんどが二十パーセント代で、逆を言えば失敗する可能性が七十パーセント代ということだ。

「困りましたね……」

 ピアノのふたを閉じて、ため息をついた。先日行ったダンス会場で会った同級生たち。デーパートへと買い物へ行き、人混みの中に混じる親子連れやカップル。

 彼らと比べても仕方がないとわかっている。人それぞれ人生は違うのだから、自分は自分だと思うように心がけてはいても、光命は両肘をピアノのふたについて、額を手で押さえ、黒光りするボディーに元気のない自分の顔を映した。

「私は……。人を愛することも仕事も、何もかもが可能性を見出せず、中途半端。どのようにしたらよいのでしょう?」

 さっきから、ドアの下のほうでトントンとノックが続いていたが、部屋の主は気づかないほど、小数点以下二桁までの数字に捉われたままだった。

 ピアノがある部屋の外で、弟や妹たちが顔を見合わせている。

「お兄様、どうかしたのかな?」
「そうだね」
「本当にどうしたんだろう?」

 ツアーが中止になったとか、人を愛することがどうとか、そんなことはわからない子供たちのそばに、一人の女がやってきた。

 暖かな日差しが差し込む廊下で、弟がその人の名を呼ぶ。

「あ、知礼お姉ちゃん」
「ノックしても返事がないの」

 しょんぼりしている小さい人たちの前で、知礼は静かにうなずいた。

「そう……」

 ピアノの部屋に閉じこもっては、旋律を紡ごうとするが、もつれ立ち止まり、再び弾こうとするが、いきなり行き止まりへと迷い込んだように、進む道がなくて止まってしまう。

 そんなピアノの音が屋敷中に、もがきという名で散らばっている。知礼は呼吸を整えて、ドアをノックした。

「光さん?」
「…………」

 返事は返ってこなかった。耳を近づけても気配さえもせず、知礼はまた倒れたのかと心配になり、さっきより声を張り上げた。

「光さん? 光さん!?」
「知礼だけ入ってきて構いませんよ」

 光命の声色は遊線が螺旋を描いていたが、優雅さや芯の強さはどこにもなかった。小さな人たちはドアの前で、知礼の手のひらにタッチするように触れる。

「お姉ちゃん任せた」
「うん」

 しっかりとうなずき返してドアを開け、中へ入ると、カーテンはきちんとタッセルで止められ、レースのカーテンが午後の穏やかな日差しを招き入れていた。楽譜はきちんと端をそろえて神経質らしく綺麗に整頓されている。

 ゴミという概念がない世界では、ホコリやチリはひとつもなく、黒のグランドピアノは知礼の姿が鏡のように映り込むほどよく磨かれていた。

 ただ、そのふたは硬く閉じられ、白と黒が規則正しく並ぶ鍵盤は顔を見せていなかった。

 光を失ったピアニスト――

 知礼は何としても、この男を救いたいと思った。低いヒールの靴で大理石の上を歩き、椅子の隣へ立つ。

「光さん、私いいこと思いついたんです」

 ガラス細工のように儚くもろい繊細な美しさを持つ光命は、冷静な水色の瞳を知礼へと向けた。

「どのようなことですか?」

 出会った頃の悪戯心満載なピュアな男性ではなく、今は憔悴しょうすいし切っていて、いい意味での年の重ね方をしていないのは、彼より長く生きている人間には手に取るようにわかった。

 泣いてしまいそうだったが、それでも、少しでも彼の心の傷が癒えるのならと、知礼は願った。

「子供たちにピアノのレッスンをするのはどうですか?」

 誰かのために生きるのが、人は本当に幸せを感じることができる。心はそういうふうにできている。

 なぜなら、邪神界ができる前から、心――魂は存在していたのだから。たかだか五千年ぐらい反対の概念ができても、そうそう変わりようがないのだ。

 休息中のピアニストができることといえば、子供の数が急上昇している彼らに関わることではないだろうか。知礼はその結論にたどり着いた。それが世のため人のため。そして、愛する男のため。

 光命はそっと立ち上がり、

「知礼……」

 そう言って、彼は彼女を抱きしめた、彼女の視界から自分を隠してしまいたくて。冷静な頭脳という名の盾は、とうとう激情の獣に食い破られ、神経質な頬に涙が一粒落ちていった。

(愛の重複への贖罪しょくざいを果たせないまま、欲望の傀儡として囚われ、心に哀傷の痛みを深く刻んでゆく……)

 知礼の両腕がピアニストの背中に回され、何も言わずに抱きしめ返した。光命の頬にとめどなく涙は伝って、彼女の背後にある大理石に悲痛の波紋を描いてゆく。

(あなたは私を愛してくれる。ですが、私はあなた一人をきちんと愛せない)

 教会へ何度も行った。神の前で祈った。懺悔もした。心をしずめるために、目を閉じ神に感謝を捧げ続ける彼は、愛する人の温もりを感じながら、

(私はあなたに何をどのように返せばよいのでしょう?)

 大きな存在に、倫礼――自身を神として、青の王子として憧れてやまない、知りもしない彼女と同じような願いの仕方を彼はした。

(神よ、どうか全ての人々の愛に応えられる術を、私にお与えください――)

 こうして、光命は事務所からの宣伝で、自宅でピアノの講師をしながら、回復の機会をうかがうこととなった。

 しかし、これがのちに起きる大きな転機へとつながっているとは、勧めた知礼も、決心した光命も、夕霧命も誰もまだ知るよしはなかった。
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