聖女になれなくて

明智 颯茄

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出会い編

銃声は都会の海に消えて(part3)

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「――こうしてやる、ありがたく思え」
「え……?」

 現実に意識が戻ってくると、イリアが口の端を歪めて、得意げに微笑んでいた。そうして、瑞希の上に掛け布団がめくり上げられる。

「ん?」

 まずは右から次は左から。イリアは今度ベッドの下に織り込まれているシーツを引っ張り出した。それを瑞希の頭からつま先までぐるぐると巻きつける。

「うわっ! ちょっと待って――」

 あっという間に、ベッドにある全ての布地は、瑞希の体を縛りつけ――ミイラにした。

 視界はグレーがかった白。天井もドアもイリアさえもうかがい知れない。かろうじて、頭のほうに曲げていた手で、瑞希はシーツの底辺を押し込む。

 すると、そこで見たものは、

「あははははっ!」

 晴れ渡る青空の下で、絹のように柔らかな風が吹く草原で、目を輝かせている純粋な子供が、声を上げて笑っているみたいなイリアがいた。彼の別の一面に突如出くわして、夢見る頃を過ぎた瑞希でもドキッとする。

(あ……)

 彼女の手は力なくベッドに落ちた。頬にシーツの端が引っかかるが、笑っているイリアが真正面にいることには変わりなかった。

(何だか楽しそうだ。イリアさんは、どうしてこんなに天使みたいに無邪気に微笑めるんだろう? 何か理由があるのかな?)

 御銫とは違って、瑞希と大して歳は変わらないようだった。自分はこんなに笑えるだろうかと、じっと見つめたまま考えていると、何かがイリアの怒りのセーフティーピンを抜いたらしく、可愛らしい笑顔は一気に超不機嫌に戻って、ベッドを乱暴にバンと叩き、

「貴様、そこでおとなしく寝ていろ。俺に逆らうとはどういうつもりだ! 俺にこれ以上手間をかけさせないように、動きを封じてやった。ありがたく思え」

 パッと瑞希から身を引いて、後ろ髪引かれることなく、イリアはドアから出て行った。扉は彼の性格を表しているように、きちんと閉められた。

「え、え、えぇっっっ!?!?」

 何がどうなっているのかはわからなかったが、イリアの逆鱗に触れてしまったようで、ミノムシ姿のまま瑞希は落ち着きなく叫び声を上げる。

「す巻きにされた~!」

 手よりも破壊力がある足で、この状況を蹴散らしたいところだ。しかし、それも叶わず。左右に転がることもできず。瑞希はわめき散らし続ける。

「これを解けっ!! 本国へ帰せっっっ!!!!」

 そこではたと気づいた。あの出会ってからの、針のような銀髪と鋭利なスミレ色の瞳を持つ男の性格を。

「この言い方じゃたぶん、イリアさんには届かない……」

 瑞希は何度か咳払いをして、にっこり営業スマイルに変わった。猫なで声で、人がよさそうに呼びかける。

「イリアさ~ん! お願いします~~! 解いてくださ~い! ご飯食べたいです~! お腹すきました~!」

 目の縁ギリギリに瞳を寄せて、部屋のドアが開くのを待った。しかし、足音ひとつ、それどころか気配もなく。天涯孤独みたいな静けさで、瑞希は唯一よく見える天井を見上げながら、ポツリつぶやく。

「……放置だ。完全放置」

 あんまりな仕打ちだと瑞希は思った。お金を払おうとしただけであって、請求をしたわけではないのに。イリアのことを考えてしたことが、なぜか恩をあだで返された。

「どうしよう? 脱出する方法……?」

 フライング気味の、生きたままのミイラ化。ここはタイミングよく隠し持っていた刃物が重宝しそうだが、素人――バツ二フリーターが持っているはずもなかった。

「とにかく、どこかずれているところを探そう」

 左腕は完全にやられていた。まったく動かせない。ミニスカートとタンクトップ、と、拘束グッツの間を右手だけで行き来する。

「ん~~? こっち? ……ない。じゃあ、こっちは……」

 悪戦苦闘の末、イリアの放置プレイから、瑞希が無事に解放されたのは、一時間以上も経ってからだった。

「やっと出られた」

 乱れた髪を直そうと、首をプルプルと振ると、香水の香りが部屋に舞い上がった。ずれてしまったサンダルを足だけでチョチョイと直し、ドアノブを回す。

「イリアさん?」

 首だけ廊下にのぞかせたが、相変わらずオレンジ色の柔らかな明かりが、スポットライトのように大理石の上に、丸い花を咲かせているだけだった。

 連れてこられたであろう方向へ、瑞希のローヒールはカツカツと小刻みに音を立ててゆく。

「あれ? いない」

 一緒に食事をするはずだったテーブルで、ろうそくの炎は姿を消していた。薄暗い中で、料理の乗った皿はひとつだけ――放置プレイ。瑞希は引き返して、最初にいた椅子のないテーブルが佇む場所へゆく。

「どこにもいない?」

 魔法を使ったようだった。イリアのあのすらっとした長身はどこにもなかった。

 探すことを諦めた瑞希は、食卓が広がる部屋へ戻ってきた。

「とにかくご飯は食べよう。一生懸命作ってくれたものだから、残すのはよくないよね」

 さっと椅子に座り、ナプキンを取り上げて、膝の上に適当に置く。消えてしまっているろうそく。今も斜めがけしているバッグのポケットから、慣れた感じで銀色の四角いものを取り出した。

 ジェットライター登場。ただのライターではなく、ジェットでないといけない。瑞希にもそんなこだわりがあった。わざわざデパートで購入したライター。

 優れもの。着火ボタンは側面についていて、手のひらをグーで握れば、ゴーッと灼熱の音を立て、ろうそくが炎色を鮮やかに取り戻した。

 さっきの支払い事件はどこかへうっちゃって、瑞希は顔の前で合掌。

「いただきま~す!」

 冷めていようがどうでもいいのだ。緑色した固く青臭いバナナを好む瑞希にとっては。本来よりも硬めの肉にナイフを入れるが、スムーズに切れてゆく。

 フォークにわしづかみにされたラム肉のローストという魅惑は、彼女の口に妖しく近く。

 禁断の果実を知るような、ドラッグみたいな常習性が味覚に植えつけられる。舌に触れたら最後……とうとう触れてしまった

「ん~~! おいしいっっ!!」

 悶え死にそうなほど、瑞希は椅子の上でグラグラと円を描くように、上半身を揺らしに揺らす。

「できるだけちっちゃく切って、少しずつ味わって、長い間この肉汁に浸りたい~~!」

 まわりの豪華さとミスマッチの貧困層。ワイングラスに入った水を慣れない手つきで取り上げ、スパイダー型の街明かりを眼下に望む。

「綺麗な景色だね。この景色と料理をプレゼントしてくれたイリアさんに、お礼を言いに行こう。食べ終わったら……」

 あの狭いアパートに帰って、今日も惣菜かお菓子。排気ガスだらけの空気の中で、騒音に囲まれて過ごすと思っていた。

 だが、予想外のことも起きるもので、今は遠い空の下――外国。

 一人きりになってしまったが、決して口にできない夕食。瑞希は自然とウキウキと心踊り、大理石の上で足をパタパタさせ、時々目を閉じては堪能のため息をもらし続けてしまうのだった。

 貧乏さ全開でチビチビ食べていた皿はようやくカラになった。瑞希は再び合掌。

「ごちそうさまでした。片づけないと……キッチンはどこだろう?」

 ご馳走になったのだ、それぐらいはしないと思って、瑞希はキョロキョロしたが、やけに生活感のない部屋だった。

 イリアがいなければ、帰れないのだろう。それならばと思い、瑞希は遊び始めた。ミニスカートはさっと椅子から立ち上がり、半円を描くようにつながっている間仕切りを右へ急いで走ってゆく。

「キッチンさ~ん! どこですか~?」

 瑞希は走るのをやめた。耳を澄ますが答えるものはいない。

「返事がない。キッチンさんはここではお留守だ」

 今度は反対側――左へ向かって走ってゆく。

「キッチンさ~ん! 聞こえてたら返事してくださ~い!」

 それでも、彼は姿を見せなかった。

「返事がない。っていうか、何だか変だな……?」

 違和感が大きく、笑いの前振りは強制終了した。瑞希は腕組みをして、右足でパタパタと大理石の床を叩く。

 キッチンがない。
 間仕切りでつながる部屋たち。
 椅子が置かれていないテーブルだけがある。

 そうして彼女は、この答えを導き出した。

「――っていうか、ここホテル?」

 さっきミイラにされた部屋に走ってゆき、近くにあった書斎机の引き出しを開けると、四角い紙の束が現れた。

「あ、レターセットにホテルの名前が書いてある……」

 扉から回路へ出て、全面ガラス張りの夜色へと寄ってゆく。透明な壁に手をつけると、その冷たさが広がった。

「ルームサービスだったってこと? そうだ、そうだね。イリアさんとは言葉は思いっきり通じてる……。外国のホテルに滞在してるってことかな? スイートルームなのかも……」

 今でも遠くでライトアップされている塔を背景にして、瑞希は部屋へと振り返る。

「あれ? じゃあ、イリアさんは何をしてる人なんだろう?」

 あの銀髪の向こうで、鋭利であったかと思うと、何の前触れもなく、純真に変わるスミレ色の瞳。ゴーイングマイウェイに引きずられっぱなしで、全身の面影はうまく浮かばない。

 瑞希は同じ過ちを犯してなるものかと、両手を胸の前で力強く握りしめて、決意を固めた。

「とにかく、どうなってるのかわからないけど、イリアさんがいないと、本国に帰れない気がするから探そう!」

 やる気満々だったが、彼女の記憶力崩壊は、鶏が跪くほど見事で、さっき見てもいなかったところから探し始めた。

「イリアさ~ん! いない!」

 スイートルームの広いガラス窓で、右往左往する瑞希の姿を、星々が静かに見守っていた。客室のドアを閉めて、開けて、閉めて……彼女の捜索は続く。

「ここにもいない! どこに――!」

 床ドンされたベッドがある部屋とは反対側の扉で、異変を見つけた。瑞希が動けないのに、ご丁寧にドアを閉めて出ていったイリア。

 そんな彼の規律に反するもの。白いサンダルは薄暗い大理石の上をそっと歩いてゆく。

「ドアが開いてる……」

 一センチほどの隙間が、異世界への招待状のようだった。しかし、自分がリザーブした部屋ではない。むやみやたらに中に入ったら、またミイラにされるのは目に見えている。

 瑞希のサンダルはつま先立ちをして、忍び足でドアに近づいてゆく。そうっと頬を扉に当て耳を澄ます。すると、奇怪な音が聞こえてきた。

「ん? ヒューヒュー音がする。何の音?」

 それは荒野に立ち、風が頬を切るように過ぎてゆく感じだった。ホテルのスイートルームで発生するような音ではない。

 事件の香りが思いっきり漂っていた。瑞希はドアから一旦離れ、大きな声で呼びかける。

「イリアさ~ん!」

 ノーリアクションではなく無音。どこまでもそればかりが続く。瑞希はもう一度ドアに顔を近づけた。

「ん~? いないのかな? 困ったなぁ。帰りたいんだけど……」

 鏡のような窓ガラスに、ブラウンの長い髪が左右に揺れる様が映っていた。バッグを落ち着きなく触っていたが、瑞希の作戦第二弾で進軍。

「よし、ここは申し訳ないのですが、強行突破させていただきま~す! 開けますよ~!」

 それでも返事はなかった。それどころか気配もない。

 風のような音。
 ホテルのスイートルーム。
 人の気配がいない。

 いきなり死体、幽霊が出てきてもおかしくない状況。だったが、霊感バッチリの瑞希は何の戸惑いもなく、ドアを中へ押し入れた。

 少しずつ部屋の様子が浮かび上がってゆく。まずは、

 曲線美を生かした赤茶の書斎机。
 その上に乗っているノート型パソコン。
 その隣で、クリアな色をお披露目しているミネラルウォーター。

 一人で滞在するには、やけに大きなベッドルーム。瑞希は首を反対側へ向けて、のぞき込む。するとそこには、シワひとつもついていないベッドが横たわっていた。

 だが、どこにもイリアの最低限の筋肉しかついていない、全身黒のすらっとした体はなかった。

「ん? あれ? いない。何の物音だった――!」

 その時だった、瑞希があり得ない光景を目にしたのは。蛍火のような緑色の尾を引いて、横滑りする流れ星のような光が、間接照明の中で美しい線を描いては、風で飛ばされる細い草のように消えてゆく。

「光る風? この音は風の音だったんだ……」

 瑞希のローヒールサンダルは部屋の中へ、戸惑いもなしに入ってゆく。ブラウンの髪が頬をくすぐる。

「部屋の中で風が吹いてる? ん? おかしいなぁ」

 物理的な矛盾。窓はない。エアコンでもない。

「風の行き先はどこ? だって、空気が動いてるんだから、どこかに出ていってるんだよね?」

 ドアは開けっ放しだったが、緑色の光風は、どうやら壁にかけられた絵へと向かっているようだった。

「これをたどっていけば、イリアさんがいる? そんな気がする……」

 瑞希は大きくうなずいて、窓の隣に飾ってある絵画に近づいた。それは、緑を基調とするステンドグラスというレースのカーテンを被せられた聖堂。そこに集う人々の前に天使が降臨している絵だった。

「よし、行ってみよう!」

 絵の端には、Misene/ミセネのサインがあったが、それに気づくことなく、瑞希は無防備に手を伸ばすと、黄緑色の光が体中にくるくると、魔法少女が呪文を唱えたごとく巻きついてきた。

 そうして緑から黄色、白へ取って代わり、視界は真っ白に。刺すような強い光で目が痛くなり、

「うわっ! まぶしい!」

 防御反応で思わずまぶたを閉じた。ヒューヒューという音がどんどん大きくなり、轟音になりかけた時――――

    *

 瑞希の髪を揺らしていた風はにわかに弱くなった。重力は正常。足が地についている感覚がそれを証明していた。

 クルミ色のどこかずれている瞳は、まぶたからそっと解放されると、星空の海と満月が頭上に広がった。

「え? 外? どこの――!」

 歩き出そうとすると、かなり下のほうから来る街の小さなざわめきに、別のものが混じった。

「音が聞こえる。何の――楽器の音だ。どこから? ん~~?」

 聴覚を鋭くするため、もう一度目をつむる。すると、なめらかな絹をすうっと絞ったような響きが右奥から聞こえてきた。

「あっちだ。よし、行ってみよう!」

 目指す方向には障害物があり、正体をつかむことはできない。何が待っているのかと考えると、瑞希の心臓はバクリと大きく波打った。

 しかし、数歩も行かないうちに、音の輪郭をつかんだ。

「……ヴァイオリン?」

 絶美な響き。普遍的なのに落ち着きを持つ旋律。右に左にスイングし、時折キュキュッと高音へ飛び跳ねては、なだらかな山を滑るように落ちてくるメロディー。

「素敵な曲だなぁ。心地がいい。心が洗われるみたいだ……」

 瑞希は探すことも忘れた。あの幻想的な月明かりが差し込む御銫の部屋で聞いていたヴァイオリン曲を思い出した――

   *

 妄想世界で遠心力――を感じながら、くるくると回る。

 晴れ渡る青空の下。雲ひとつない。光る風に舞い上がる、黄色い花びらたち。祝福するライスシャワーのように降り注ぐ。

 山吹色のボブ髪が頬に揺れる御銫が、瑞希の両手を強く引っ張っている。

 彼女は宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳を笑顔で見つめ返し、小さな子供のようにくるくると回る。お互いの体重を絶妙に掛け合ってバランスを取り、遠心力で遊ぶ。

「神様、どうか煩悩だらけの私をおゆるしください」

 回り横滑りする視界に入ってくる、銀の長い前髪がそよ風に揺れ、ヴァイオリンの弓をストイックに引き、音色に浸るように目を閉じているイリア。

 回り回って、御銫とイリアが並ぶようになった時、瑞希はまた天に祈った。

「神様、私は今、イケメンふたりに囲まれて、とても幸せです」

 さわやかで柔らかな風が三人の髪を優しくなで、それぞれの匂いまでがくるくると混じり合う。瑞希は遠心力を感じながら目を閉じる。

「神様、私は今、このまま空の下で3Pでも構いません……」

 さわやかで純真無垢なはずなのに、彼女の頭の中で野外エロ妄想が始まりそうになって、

「神様、私は今――」

 都合よく陽は暮れて昼間とは違い、夜露に濡れた草の上に、男ふたりもろとも、くるくると回りながら倒れこもうと――

    *

 不機嫌な足音が近づいてきた。いつの間にか閉じていたまぶたを開けると、先の尖ったショートブーツだった。

「貴様、盗み聞きするとはどういうつもりだ!」

 奥行きがあり少し低めの声が、火山噴火して真上から降り注いだ。

「あ……」

 未遂とはいえ、エロ妄想に勝手に拝借してしまい、瑞希はひどい罪悪感に襲われた。しかし、なぜこんなことになったのかの原因をたどり、深々と頭を下げた。

「すみません。綺麗な曲だから、つい聞き惚れてしまって……」

 両腕を組み、仁王立ちしているイリアは、刺し殺すように彼女を見ていたが、綺麗な唇から出てきた言葉は、

「いい。聴かせてやる。ありがたく思え」
「ありがとうございます」

 やっと仲良く前に進めそうだったが、瑞希の脳裏で風向きがまったく変わった。急に大声を上げる。

「あっ!」
「何だ?」

 落ち着き払った様子で聞き返されたが、瑞希のテンションは高いまま、遠くの山を指差すように、勢いよく人差し指を向けた。

「シューレイだ! 思い出した!」
「…………………………………………」

 男の反応には構わず、瑞希の丁寧な説明は続く。

「シューレイは同じ国の人! 本名は確か……かいら……海羅 秀麗さんですよね? 聴く人全てを感動の渦に必ず巻くと言われている、世界的に有名なヴァイオリニストの!」

「…………………………………………」

 黒のすらっとした長身を、乾いた夜風がただただ過ぎてゆく。たじろぎもしないイリアを、瑞希は様々な角度から眺めながら、こんな言葉をプレゼントした。

「ん? 返事なし、リアクションなし、意味なし。いや――マなし、チなし、味なし。総して、ヤオイ・・・……」
「っ…………………………………」

 吹き出しそうになるのを無理やり抑えたように、イリアの顔が歪んだ。

「あぁ、こういうマニアックな笑いが好み……?」

 瑞希はしてやったと、ニンマリした。しかしそれは、横に置いておいて、重要なことを整理する。

「何も言わないけど、ここは肯定な気がする。海羅 秀麗さんが目の前にいる……」

 大きな矛盾が出てきて、瑞希は首をかしげる。

「あれ? じゃあ、さっき名乗ってた、イリアは何?」

 名前がふたつになってしまった。

「どっちで呼べば――」

 さらに謎が出てきたが、瑞希はそれ以上追求できなかった。真上から火山噴火を起こし、マグマが激怒という動きで降り注いだからだ。

「貴様、つべこべ言っていないで、黙って俺の演奏を聴け。俺の言うことが聞けないなら、貴様ここから突き落としてやる!」

 イリア――いや秀麗の手は瑞希の手首を、物を扱うような容赦ない力加減でつかんだ。そのまま、建物の端へ引きずって行こうとする。

 瑞希は足を踏ん張って、必死に強くブレーキ。

「いやいや! 止めてください! 絶対に転落死します! 聴きます! 聴きます!」
「ふんっ!」

 面白くないと言うように、秀麗は鼻を鳴らして、置いてきてしまったヴァイオリンのほうへ、黒のショートブーツをモデル歩きで連れてゆく。

「危ない目に遭うってこういうこと?」

 瑞希の白いサンダルが追いつく頃には、秀麗はすでにあごにヴァイオリンを挟み、弓を構えていた。

 スパイダー型の街明かりは、朝露が太陽に出会ったように、キラキラと足元で輝く。頭上には、クレーターがはっきりとわかるほどの銀盤。

 月影とシンクロするような針のような銀の長い前髪。乾いた柔らかい夜風に、ふとサラサラと揺れると、弓と弦がスーッと出会い、そよ風のような音色が月夜ににじんだ。

 大きな満月を背に、すらっとした影の男が屋上の角に立っている。秀麗の襟元で、シャツを切り取ってできたリボンのような、ネクタイが風に舞い踊る。黄色の背景に浮かぶ黒の影絵でも見ているようで、童話の世界へ入り込んだようだった。

 瑞希はあまりの心地よさに目を閉じた。三拍子のリズムで高音から低音へ落ちてゆく、メロディーを主旋律とした曲。

(さっき見た絵画の中にあった聖堂にいるみたいだ……)

 なぜか瑞希は、光る風を見つけたベッドルームにかけられた絵を思い出した――

    *

 いつの間にか妄想世界で、瑞希は緑色のステンドグラスが差し込む聖堂の中に立っていた。

 感動の渦に巻き込まれた彼女の妄想はいつも以上に暴走し、結婚式のミュージカル映画で、ヒロイン役を演じていた。

 祭壇へとまっすぐ伸びている身廊しんろう。深紅の絨毯の上をワルツのステップで一人優雅に踊りながら進んでゆく。

 純白のウェディングドレスを着て、ターンを華麗に決め終わると、右手を斜め上に向かって高々とかかげた。その指先でブーケが天井へ向かって勢いよく飛んでゆく。

 ステップを踏みながら、新郎の秀麗に向かって近づいてゆく。いつも鋭利なスミレ色の瞳は今日は違っていて優しい。さっき投げたブーケが抜群のタイミングで再び手の中に収まった。

 両脇の参列席に座っている人々に、花を一輪抜き取っては、幸せのおすそ分けをしてゆく。適当な歌を歌いがながら。

「♪どこまでも~どこまでも~幸せで~幸せで~ どこまでも~どこまでも~幸せで~幸せで……♪」

 ターンをスマートに決め、また天井絵へ向かってブーケを投げる。派手に踊りながら、待っていてくれる身廊――いや新郎と永遠の愛を誓うために赤い絨毯の上を進み続ける。

 何度も練習したタイミングで、またブーケは手元へ無事に戻ってきて、花を参列者に配り出す。

「♪どこまでも~どこまでも~幸せで~幸せで~ どこまでも~どこまでも~幸せで~幸せで――」

 ウェディングミュージカルは、緑の光の中で神聖でありながらバカバカしく続いていた――

    *

「――貴様! いつまで俺にもたれかかっているつもりだ!」
「えっ?」

 瑞希はまぶたを開けると、斜めに自分の体が傾いていた。背中に何か圧迫感があり、突き止めようとすると、鋭利なスミレ色の瞳が銀の長い髪から解放されて、両目が今やビーム光線のように向かってきていた。

「倒れそうになっていたから助けてやった。ありがたく思え。人間の分際で俺の体を支えにするとは、どういうつもりだ!」

 半お姫様だっこみたいな状況から、瑞希の紫色をしたタンクトップは慌てて起き上がった。

「あっ、あぁ、すみません! 気分がよくて思わず目を閉じてたら、倒れそうになってたんですね?」

 問いかけだったが、それに対する返事はなく――ノーリアクション。そうして、ゴーイングマイウェイ。

「座って聴け」
「はい。じゃあ――」

 瑞希はミニスカートにも関わらず、炎天下と雨風にさらされた砂埃だらけの屋上に、そのまま座ろうとした。秀麗からすると、彼女の行動は絶対に許せなかった。

「貴様、そのまま座るとはどういうつもりだ!」

 中腰で、瑞希はまぶたを激しくパチパチした。

「え……?」
「貴様の服が汚れる」
「いや、私は気にしないんで、そういうことは。払えば汚れは取れ――」

 座ろうとした瑞希を止めた、秀麗の言葉は俺様全開だった。

「貴様のことなどどうでもいい。俺の部屋に貴様のその汚れた服が入るのが許せない!」
「あぁ、そっちですか」

 瑞希はやっと気づいた。ドアをしっかり閉めていったのは、神経質なのではなく、潔癖症から来ているのだと。彼に迷惑をかけてはいけないと、瑞希は立ち上がり模索する。

「どうしようかな? あっ、ハンカチ!」

 未だに斜めがけしているアウトレットのバッグ。その中身が今公開される。財布はもちろんのこと、様々な紙という媒体がいつまでもとりこになっているゴミたち。

「どこだったかな? こっち、あれ?」

 貯金通帳から印鑑まで、家の中を全てこの中で再現している。というか、狭すぎで乱雑。整理整頓能力ゼロ。

「こっちかな? あ、あった! よし、これを下に敷いて――」

 瑞希の手の中にあるハンカチは、重しでも乗せたようにくっきりと折り目がついていた。しかも、一枚目が三角にめくれ上がっていて、埃だらけ。

「貴様、それは一体いつ洗濯をした?」
「え……? ん~~? ん~~?」

 瑞希はひどく難しい顔をして考え出した。対照的なふたり。秀麗は腰のあたりで腕組みをする。

「貴様……」

 イライラが抑えきれないと言うように、ヴァイオリンをさっき弾いていた繊細な、指先がトントンと打ちつけられる。

 瑞希は話もそっちのけで、その様子に釘付けになった。

(あれ? この仕草って、昨日会った幽霊と同じだ)

 暗い場所へといきなり立っていて、引っ張れる感じがして、戻ってきたレストラン。そこで見た印象的な光景が脳裏に鮮明に蘇った。

 風の音も、秀麗の声もどこか遠くの出来事のようで、

「……ではないとは、どういう……」

 瑞希は指を唇に当てて、ピザやパスタの向こうにいた男の面影を追おうする。

(あの幽霊が海羅さんってこと?)

 秀麗のゴーイングマイウェイに押され気味だった瑞希は、話が途中だろうともさえぎって、真剣な眼差しで詰め寄った。

「海羅さんですか? 昨日の夜、終わったものは終わったって言ってくれたのって……」
「…………………………………………」

 星空の下できらめく、エメラルドグリーンのピアスはピクリとも動かなかった。組んでいたはずの腕も、今はただ脇へと落ちている。

(違うのかな? 他人の空似そらにだった? でも、それってそういう意味で使うんだっけ? ただ私は……)

 神様に頼んでいたことを、瑞希は自分でしようと思った。

「もし、そうだったら、お礼を言いたいんです。私の心を変えてくれて、やっと前に進めたので……」
「…………………………………………」

 それでも綺麗な唇は開くこともなく、鋭利なスミレ色の瞳は瑞希を刺すように見つめたままだった。

 瑞希はそこで、違和感を強く持った。

(でも違うか。海羅さんさっき私の手をつかんでたもんね。幽霊はできないよね? じゃあ……)

 ほんの少しがっかりした気持ちで、瑞希は頭を勢いよく下げると、ブラウンの長い髪がザバッと縦の線を描いた。

「すみません。勘違い――!」

 まっすぐ立った刹那、エメラルドグリーンのピアスが不意に近づいてきた。秀麗の細い両腕はバッと横に大きく開かれて、

「っ!」

 さっきまで離れた場所で見ていた、ネクタイのように結ばれたシャツの布地は、瑞希の頬にいつの間にか寄り添っていた。

「え……?」

 急に抱きしめられた瑞希は驚いて、ハンカチが力なくパサっと屋上のコンクリートに落ちた。

 彼女の肩越しに、無邪気な子供のような秀麗の笑みがあった。新しいことを覚えた子供が見せる笑顔と同じ。奥行きがあり少し低めの声が、耳元で甘くささやく。

「いい。守ってやる――」

 聖女計画真っ只中。バツ二で三十路の女が雰囲気に流されるはずもなく、秀麗の腕の中で思いっきり聞き返した。

「はぁ?」

 人違いをしたと謝っていたのに、守る話にいつの間にすり替えられていた。ゴーイングマイウェイすぎる。

 それでも、瑞希は離してもらうことも、話してもらうことも叶わず。今度は秀麗の両腕で拘束――彼が着る黒い布地でミイラ化。

 そうして、ふたりの言葉は途切れた――

「…………」
「…………」

 欠けていたパズルピースがぴたりとはまるようなノンストレス。
 性的なフレグランス。
 夏の夜風と違う相手の体温で、自分のそれも変わりゆく共鳴レゾナンス

 瑞希は思う。いんを踏んだと。

「…………」
「…………」

 ふわふわとした感触に包まれたような抱擁に、瑞希は身をまかせる。

(ドキドキするのに安心する……。反対だけど、それが一番あってる……)

 自分の鼓動が早くなっていくの
 と、
 秀麗のそれが相変わらずなの
 と、
 それらのずれているビートが心地よくて、

 どこまでも、どこまでも、幸せで、幸せで、どこまでも、どこまでも、幸せで、幸せで、どこまでも、どこまでも、幸せで、幸せで――

 クレーターが見えるほどの大きな満月を背景にして、寄り添うふたつの影。無事に結ばれて、THE END――

 になりそうだったが、瑞希は我に返って、

(綺麗で落ち着いてて――っ!)

 秀麗の腕を無理やり払いのけた。時間がないとマキが入っていると、チビっ子が言っていたが、こういうことではない気がした。

「いやいや! どうして抱きしめてるんですか!」

 鋭利なスミレ色の瞳は夜の中でも、自分を刺し殺しそうなほど鋭くなっているのがはっきりとわかった。

「貴様、俺が抱きしめてやっているのに、ありがたく思わないとはどういうつもりだ!」

 ただのカーブ道ではなく、迷路みたいに曲がっているような、ひねくれな言葉。

 天ヘスカーンと抜けるような火山噴火ボイスに乗せて言ってくる、無邪気な子供のような可愛らしい顔なのに、超不機嫌で台無しになっているが、眉目秀麗な男。

 そんな秀麗――イリアを前にして、瑞希は彼の法則性に気づいた。

(俺様、ひねくれ、ノーリアクション、返事なし、ゴーイングマイウェイ……。でもこの人の言葉はどこまでも純粋だ。どうして、こんな言い方をしてくるのかはわからないけど……)

 彼女の勘が神からの導きでも受けたように、ピンときた。

(ううん、わかった。この人は自分の思ってることを、正直に全部伝える人なんだ。だから、こんな言い方になるんだ。それは、自分に嘘をついてないってことだ。心がとても澄んでる。だから、子供みたいに無邪気に笑うことができるんだ)

 何か神聖なものが降臨してきたようで、瑞希の瞳は尊いものに触れた感動の涙で潤んだ。

(出会えてよかった。だから、海羅さんに感謝の印を……)

 とても大切な宝物を見つけたようで、瑞希はただ素直に優しくなれて、珍しく微笑んだ。

「抱きしめてくださって、ありがとうございます。とても素敵な気持ちになりました。だから、海羅さんにもそれを感じてほしいので……」

 瑞希の腕が動き、秀麗はカウンター攻撃を受けるのかと思って、一瞬目をつむった。

「っ……」

 しかし、痛みはいつまでもやって来ず、自分の体に他の温もりが巻きついていて、

「……?」

 鋭利なスミレ色の瞳が恐る恐る解放されると、そのレンズには、瑞希が抱きついている――いや自分を抱きしめている姿が映っていた。

 秀麗の視線は落ち着きなくあたりをウロウロする。

(なぜ、俺が人間の女に抱きしめられている?)

 だがやがて、最低限の筋肉しかついていない秀麗の両腕はゆっくりと、自分の胸の中にいる瑞希を抱きしめた。

(気分がいい……。なぜだかわからないが……)

 彼女の視界に入らない場所で、綺麗な顔は無邪気な子供のように微笑み、鋭利さは純粋さに取って代わっていた。

 不意に吹いてきた強風にも負けず、お互いの鼓動を聞くというふたりきりの演奏会は、満月の下で続いてゆく。どこまでも、どこまでも、幸せで、幸せで――――

    *

 気づいた時には、ホテルのスイートルームにいた。

 瑞希は追求することも忘れ、リラックスして一人がけのソファーに腰掛けていた。ミニスカートにも関わらず、足を組んで、背もたれに堂々ともたれる。

 向き合って座っていた、秀麗の足が華麗に組み直された。

「貴様にいいことを教えてやる」
「はい」
「――ゼッシュが出てくる」

 また別人の名前だった。瑞希は肘掛けに気だるそうにもたれ、顔色ひとつ変えなかったが、少し棒読みのようなおかしな言い方をした。

「ゼッシュ? あぁ、不透明水彩絵の具のことですか?」
「貴様、それはガッシュだ。ステファに聞かなかったのか?」

 瑞希はニヤリとし、ウンウンと大きくうなずく。

「あぁ~。何がどうなってるのか知らないですけど、藍琉 御銫さんがステファさんなんですね?」

 瑞希、三十四歳女。多少の知恵は持っていた。何をされたのかわかって、秀麗の綺麗な指先は瑞希に勢いよく突きつけられた。

「貴様まで罠か!」

 まで――

「ステファさんに罠を仕掛けられたんですか? 無意識の策略とか言ってましたけど……」
「あれはしない。他のやつらだ」

 ら――

「え……複数形っっ!?!?」

 余裕でいられなくなった瑞希はパッと立ち上がって、窓の外にまだライトアップされている、ゼッフェル塔に届くように叫んだ。

「何人、罠を仕掛ける人がいるんだぁ~~~~っっ!!!!」

 どんな集団なのかと瑞希は思う。世界、策略家協会とかなのだろうか。雲行きが怪しくなってきて、瑞希は落ち着きなく手を触り出した。秀麗は鼻でバカにしたように笑う。

「ゼッシュはしないから、安心しろ」
「その人が二番か三番の人ってことですか?」

 後回しにされた人物なのだろうかと、瑞希は身を乗り出した。話が理論的に成り立たないとも気づかずに。彼女はやはり数字に弱かった。

 秀麗は組んでいた足をスマートに解いた。

「貴様、早く寝ろ」

 小さな子供が無理やり寝かしつけられそうなシチュエーション。だったが、瑞希は猛反発。

「じゃあ、元の国に帰してください!」

 家に帰って寝てやる。秀麗の超不機嫌は今も健在で、俺様ゴーイングマイウェイでこんな命令を下した。

「今夜は俺の部屋でおとなしく寝ろ。貸してやる、ありがたく思え」

 また捕まってしまった瑞希は、頭を両手で抱えた。

「もうさっきと同じオチ……」

 そこで、瑞希はふと思い出した――

 あの月影が差し込む部屋で、宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳。皇帝のような威圧感。山吹色のボブ髪は頬にかかるほど長い。すらっとした最低限の筋肉しかついていない体躯。戦車で引きずるように進んでいってしまう会話。

「っていうか、藍琉さんと海羅さん、かなり似てますよね? 他人の空似ですか? 顔も体型もそっくりですけど……」
「それはよく言われる。俺とあれは昔から似ている」

 返事が返ってきたと同時に、シーツでぐるぐる巻きにされたベッドルームに、ふたりはいつの間にか移動していた。まるで魔法でも使ったように。

 瑞希は話に夢中で、ソファーの皮地がシーツの白に変わったことに気づかないまま、

「友達ってことですか?」

 秀麗の超不機嫌顔は一瞬にして、無邪気な子供の微笑みへと変わり、可愛らしさという花びらを振りまいたようだった。

「…………………………………………」

 予想外の反応をされて、しかも返事なしで、瑞希はぽかんとしながら、一生懸命考える。

「え? 今度は何の意味? どういうこと? 特別な友達みたいだよね? こんなに喜んでるんだから、どういう友達?」

 御銫の無機質でまだら模様の声をできるだけ思い出してみる。

「藍琉さん、そんな態度だったかな? あ、でも、シューレイさんの話してきたってことは、仲良いってことか」

 瑞希は短い足を組んで、ベッドの上で首を傾げていたが、取り合わないと言うように、俺様が割って入ってきた。

「貴様、入ってこないようにしてあるから早く寝ろ」

 瑞希は我に返って、あたりを見渡した。

「入ってこない? 何がですか?」

 ホテルの部屋の鍵はオートロック。しかも、他に高い建物がないほどの、高層部分にある客室。飛行機事故でも起きて、飛来するのは別として、外から何かが入ってくる可能性は限りなくゼロに近い。瑞希の頭脳でもそれぐらいは理解できた。

 秀麗は後ろに振り返り、悔しそうに吐き捨てた。

「くそっ! なぜ、さっきから情報漏洩するんだ?」

 瑞希は体を大きく左右に揺らして、すらっとした黒の服をあちこちから眺める。

「ん? 今度は――」

 秀麗は瑞希に向き直って、仕切り直しの咳払いをした。

「んんっ! とにかく何かあったら呼べ。お前に何かがない限り、俺もこの部屋には入らない」

 そこで、何かが秀麗の心のセーフティーピンを抜いたらしく、言葉の途中でスカーンと火山噴火ボイスを炸裂させた。

「――というか、誰が貴様の部屋になど入ってやるものか!」

 怒鳴ったと同時に、黒のショートブーツは絨毯の上を半歩下がり、

「っ!」

 バタンと破壊音を作り出して、ベッドルームのドアは閉まった。

「あれ? どうして最後あんなに怒ってたんだろう?」

 瑞希が見つめている扉の向こう側で、銀の長い前髪は不機嫌に横へ何度か揺れる。

「なぜ、俺が人間の男みたいな色情を言い訳するようなことを言う必要がある?」

 黒いショートブーツは大理石の床を強く蹴りつけた。

「くそっ! 何だ、このイライラしたり、気分がよかったり、いろいろと忙しい感情は……」

 しばらく考えてみたが、秀麗は答えにたどり着けなかった。

 閉じ込めたみたいになっている瑞希がいるドアへ、振り向きざまに言葉を口にしたから、抜け落ちた響きになった。

「い……なる……」

 最初からこの話は乗り気ではなかった。しかし、守ると伝えた。だから、秀麗は心の中でつぶやく。

(瑞希に何かを……)

 ドアノブに手を伸ばしていたが、それをふと止めて、

「こうしてやる、ありがたく思え」

 後ろ手で何かを投げるような仕草をすると、部屋の中にいる瑞希の驚き声がすぐに上がった。

「うわっ! な、何っ!?」

 秀麗は得意げに微笑んで、ドアから離れていった――

 ――何かが上から大量に落ちてきたベッドルーム。瑞希は衝撃で閉じていた瞳を開けると、芳醇な香りと真っ赤な美しい海が広がっていた。

「バラの花びら? どうして、いきなりこんなものが出てきたんだろう?」

 バスルームで泡をすくい上げるように、花びらを頭の上へ投げて、ひらひらと振り散らせる。

「でも、いい香り~!」

 足をバタバタとさせたまま、ブラウンの長い髪が枕の上にストンと落ちると、フワフワと花びらが舞い上がった。

「これに包まれて眠る……幸せだ」

 甘く高貴な香りを胸いっぱいに吸い込んで、

「これ、プレゼントしてくれたのって、海羅さんな気がする……。どうしてだかわからないけど、それがどこにもねじれた線がない事実な感じがする」

 強い霊感を持っているからこそ、森羅万象しんらばんしょうにも敏感な瑞希。本当に危険な時、彼女は立ち止まるすべを人より多く持っている。

 頭の下から引き抜いた枕とともに、バラの花びらを幸せいっぱいで抱きしめる。

「だから、海羅さん、ありがとうございます。お休みなさい」

 煩悩だらけだったが、彼女はまだ聖女計画を諦めていなかった。

「そうして、神様にも感謝いたします。修道院に行くまでのいい思い出になりました」

 しばらく、お姫様のようにバラに埋もれたまま、はしゃいだりしていたが、

「ん? 急に眠くなって――」

 持ち上げたり、まわりの花びらをかき混ぜていた両腕が力なく、シーツの上に落ちると、真っ赤なバラがふわっと飛び跳ねた――――
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