太陽の島

丹羽嘉人

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第一章

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 その島の名を、私は敢えて伏せておきたい。というのもかの島は、記憶の霧に包まれ、いやむしろ直視さえ厳しい眩しさによってその肢体を隠されているからである。島それ自体の美しさもさることながら、滞在の、数えてみれば一年も満たないような想い出が、いまだ私の気持ちをかき乱し、そうやって焦点の合わない眼で見つめれば、島の仔細はいかようにも脚色され、自然や町並みは著しい美化によって犯された。海がある、山がある、朝焼けの港から出る四、五の漁船があり、夜になればまばらな家々の灯りが都会の夜空のようにちらついている。こんな光景はおよそ日本の島々の、実に一般なものであるはずなのに、私の回想は海面をより煌めかせ、深緑をより厳かに、漁船や家並みのくすみも演出的に配置され、ひどく貫徹した混じり気のない秀麗さで掘り出してしまうのだった。

 私は文学の端に息する者としてこのような言葉の氾濫は許し難い。なるほど物語は所詮物語であって、空想のものでしかなく、そもそも言葉自体が空想的な要素を含んでいる。しかしそれでも私は言葉の空想性を過剰に膨らませるのを良しとしない。どのような物語も、どのような表現も、その裏に現実がなければならない。空想は現実に根差している。否、もっと言えば、空想は現実と溶け合い、混濁して、それが現実なのである。

 人は現実を現実と確信して過ごしてはいないし、空想を空想と確信して過ごしていない。ふたつは母体と胎児の関係で、われわれはそのへその緒を通じて行き来しているにすぎず、それなのに、空想を空想と割り切りその片翼のみを自由にさせておくべきではない。あくまでこれは現実であると自身に言い聞かせながら、私はこの物語を書きすすめたい。

 けれども一方であの島での回想は、とっくに私の制御の届かないところにある。右のような信念などもはや立ち行かない、巨大なビーナスとなり、内心を圧迫している。想起すればするほど、島は、あの日々は、甘美な音色をたてて響き、私を永い連想に連れていく。それで私は、この信念と想像的事情の折衷故に、これを読む人たちに、この物語の紡がれる島を、ただ空想上のそれとして扱ってもらいたいのである。……

 こうも過度な言い訳をすれば、読み手はきっとこの物語を、さぞ幻想的な、神話の如き話であると期待するだろう。実際、私はあの島で起こった出来事にある種の神性を感じている。だがそれはまったくの他者、まったくの第三者からすれば取るに足らない、ただ時間を浪費するだけの一挿話でしかないことも信じている。物語が空想であるなら、それは主観であって―――いや、よそう。これ以上の弁解は見苦しい。どこまで筆を尽くしても、書き手は読み手にすべてを委ねるしかないのだから。

 物語は私の、二十七の夏にはじまっている。私はそのときにあの島へ赴き、そして、一人の少年と出逢った。話のあらましは殆どこの一文に集約されている。完結し、また小さな歯車が、緩やかな、微々たる回転をはじめて、現在の私の機構をまるで別物に変貌させたのだった。
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