太陽の島

丹羽嘉人

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第一章

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 上空からの島の外貌は、何の変哲もなく、強いて言えば、娼婦の横たわるのに似ていた。輪郭は瓢箪型の、ふたつの大小の円があり、それらの円の中心のあたり、つまり肩と腰のあたりには小高い山があって穏やかに隆起していた。二山はその中腹でもう一方の山と繋がり、どちらかと言えば肩の山のほうが高かった。森は濃く繁茂していた。海は、離陸直後に見下ろしたそれと随分違い、沖合から沿岸にかけて階調をなしていた。そんな自然的な柔和さのなかに、埠頭の、ごつごつとした人工の凹凸が際立っていた。

 島の初見を娼婦と喩えたが、その実、私はなんらの誘惑も感じなかった。私はいわば美術館のヌード絵を見つめるのとおなじ鑑賞の気概で眼下の島を眺めたのである。島の自然の、その滑らかな曲線美に多少は驚いたものの、本物の肉体を見たときのような高揚とは遥かに沈着していた。私は島に療養の目的で来ていた。そのため島の持つ美よりも、より実際上の都合、長く宿泊する友人の家のことやその周囲の交通環境、そんな細々とした利害ばかり気にしていた。

 プロペラ機が着陸し、強風に煽られながら空港の敷地へ入り、三十分遅れでようやくロビーにつけた。私はそこでようやくフライトのあいだ耳にはめ込みつづけたイヤホンを外した。流れていたのは『感傷』と名付けられた再生リストで、JPOPからクラシック、ジャズ、HIPHOPなど、様々なジャンルの混合で構成され、そのどれもが以前の私の心情を激しく揺さぶったものだった。私はよく、執筆の直前などにはこの『感傷』を聴いた。そうすると忘れかけた激情が蘇生し、記したい情景が浮かんで、それを追いかけるように湧き立った言葉がマグマのように全身を押し上げるのだった。一年ほど前まで、私はこの『感傷』に全幅の信頼を置いた。そして曲が託された信頼を裏切らずに再度新鮮な感情を届けると、私はいまだ衰えず、若々しく喜怒哀楽を抱ける自分にも恍惚した。まだ、私は書けるのだと想えたのである。

 外れたのちもイヤホンは微音で『感傷』を鳴らしつづけた。それは何度目かのループだったが、搭乗のあいだも、降り立ったあとも、私には小うるさいものとしか感じなかった。私は一年ものあいだ物語を書けなかった。まだ大した賞にも預かれぬまま、私は物書きとしての源泉を枯らしたらしかった。

 ロビーには竹中が居、すぐに見つけられた。竹中は大学時代の旧友だった。彼は三年間静岡の銀行で働き、現在はこの島で、とくに働くというわけもなく悠々自適に暮らしていた。銀行員時代の蓄えが彼にこの高等遊民じみた生活を遂げさせたわけではなかった。二十五の春に彼の両親は事故で亡くなった。そしてその父親が一人息子のために長年出資しつづけていたいくつかの株が徐々に高騰し、相続するころには贅沢をしなければ無理なく暮らせる配当を生み出していた。彼はそれを頼りに退職し、島で二百万の家を買った。そうして家庭菜園などを営みながら、新しい願望として、イタリアンレストランを開く準備をしていた。

「長旅のなかよく来てくれた。ここは暑いぞ。まだ六月だからといって舐めちゃいけない。うちにはクーラーはあるがオンボロでね、お前が来る前には替えるつもりだったが間に合わなかった。まあ、窓を開ければそれなりに潮風が入り込むから、それで涼をとるんだな」

 竹中は彼の家へ向かうドライブの最中、存外明るくそう告げた。彼と最後に会ったのは、両親の死の、たった三か月後のことだった。そのときの竹中の表情には見るからに死の陰が映っていた。それは、およそ彼が自らの死を願望しているわけではなかった。そうではなく、人々が普段忘却できていた死の観念が彼の脳裏の隅を支配し、その内心をやつれさせ、また微かに怯えさせていたのである。

 再会の直前まで、私はこの不遇な旧友のイメージを、死に取りつかれた青年としてつくりあげていた。静岡のチェーンの居酒屋で出会った彼はあからさまに痩せ、肌も靄がかったようにくすんでいた。声も心なしか抑揚がなく、ハリがなかった。二時間程度で居酒屋を出、繁華街を言葉少なに歩くと、私は、隣の竹中が閉まった店のシャッターを虚ろに見つめているのに気づいた。その瞳は、涙もなく枯れて、そこにある物事を一方的に突き放していた。またそうしながら、空しく降ろされ錆びついたシャッターを、何事かの象徴として、不穏な膨張をさせているようだった。

 私は声をかけず、ただ往来を進んだ。何か言うかわり、ひそかに彼をモチーフにした小説を書き上げ、またどこにも公表しなかった。寄る辺を失うということと、しかし自分のために蓄積された財産がかえって残された者の生を重くさせること。死者が生に重みを与えることはよくある話ではあるが、一方でその加重が、漠然とした現実から逃避のしようもない迷宮を生じさせるということ。それが、その小説のテーマだった。

 車は小さな街並みを抜け、満足なコンクリート塗装もない、伸びやかな二車線道路を走っていた。道路の両横にはさとうきび畑が広がり、それが景色の見渡しの一部を妨げている。さとうきびは硬く垂直に生え、空の丸天井を支える無数の柱のようである。海岸線を行くにはこれが近道なのだと竹中は説明した。

 海岸線に入ると右の窓外には水平線が現れた。が、助手席の私には運転席が邪魔で、大して見ることもできない。竹中は、このまま島を一周して、それから家に行ってもいい、と提案した。私は断った。

 竹中の家は、見晴らしとしては中々の一等地にあった。家は位置取りとしては漁港町に組み込まれたが、それから少し離れ、半島のように海上に突き出た場所にあった。半島には三軒の建物があり、前面には岩礁があり、後面には相変わらずの二車線道路が漁港までつづいていた。道路を隔てたむこうは、山が切り崩されたようにその岩肌を露わにし、絶壁で、ところどころには窮屈そうに樹々が茂っていた。

 半島の三軒のうち、その一番右側、つまり漁港の反対側が今回の滞在場所であった。「隣は民泊で、そのさらに隣はわかめ漁をしてるんだ」と竹中は言った。そして民泊を営んでいる老夫婦は野菜をお裾分けしてくれることがあり、野菜は、鮮度がある分生で食うのがいちばん美味いと付け加えた。

「ここで野菜が取れるのかい」

「こんな狭いとこでは無理さ。住処はここじゃなくてもっと内陸のほうで、そこで畑もしているらしい。こっちには予約のある数日間だけ管理しに来るんだ。去年はアポなしで泊めてくれって言ってくる輩がいて、うちにも訪ねて来たもんだから取り次いでやったんだ」

 家に着き、荷をおろすと、私は漁港を見て回りたがった。が、竹中は、

「療養目的だからお前の好きにしたらいい、と言いたいところだが、今日だけはそうもいかない。六時までには帰ってきなよ」

「六時? あと三十分もないじゃないか」

「まあ、色々とあるんだ。……ここに来るとき、屋敷があったのを覚えてないか。ほら、石垣に囲まれた、あの入り口が石段になって家の本体は全然見えない屋敷だよ。……そう、あれは公園じゃなくて、この島で一等でかい屋敷なんだ。まあ名家というやつで、といっても実際の権力なんてもう無いに等しいんだが、気概自体はまだ貴族じみていてね、誰かひとが来た折にはどうしても会ってもてなしたいんだと。最初は断ったんだが、うっかりお前が小説を書いていることを喋ってしまって、あちらの名家風な興味が尽きないんだ。頼むよ、今更ここで行かなかったりしたらあとで何を言われるか知れない」

 見知らぬ土地に来て早々、見知らぬ人の、しかも話によれば気位の高い人たちに会うなどは気の引けることだったが、しかしだからと言ってわざわざ友人の立場を危うくさせるつもりもなかった。滞在は、予定では半月あった。今日一日が付き合いに使われてもあと十三日あり、また滞在の日数も引き延ばそうと思えばいくらでも引き延ばせた。私は何ともなく承諾した。そのかわり、やはり漁港だけは簡単に回っていきたいと言った。竹中は六時十五分までなら、急いで行けば間に合うはずだと条件を緩めた。
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