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10. 主人公ちゃんがログインし……

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「婚約解消?」

 朝食の席でもたらされた話題に、欠伸をかみ殺していたヨシュアは驚いたように声を上げた。その話題の提供者はもちろん当主であるヨハンだ。

「まだ内々だがな。エリィが望むのであれば婚約解消を拒否することもできるが、どうだね?」
「いいえ、それで構いません」

 全く考える様子もなく、エリィはその話を了承した。それにヨシュアもセシルも怪訝な顔でお互いに視線を交わす。
 婚約者であるヴィスタ王子は誰がどう見てもエリィにベタ惚れだ。婚約者と言う立場を盾に婚姻を迫ることはあっても、婚約解消などどう考えても考えられなかった。

「父上、理由をお聞きしても?殿下からおっしゃるとは到底思えませんが」

 セシルが遠慮がちにヨハンに問うと、ヨハンは少し眉を寄せた。

「前々から議題に上がってはいたのだよ。病弱な王妃は不適格だとな」
「それはわかってて王子が望まれたんでしょう?」
「ああ。だが……」
「この間の事ですわよね?」
「……そうだな。今のままであれば伽すらも出来ぬであろうと。王の血筋を絶やすべきではないとな」

 エリィにとっては何度も聞かされてきた話である。世継ぎを望めぬ、死にゆく体で王妃は無理であろうと。辞退せよと面と向かって説かれたこともエリィにはある。それでも我慢し続けたのは、エリィが自分はノエルまでのつなぎだと思っていたからだ。ノエルがやって来た時に、エリィ以外の婚約者がいてはノエルがヴィスタルートを選べなくなってしまう。ただそれだけの為に、エリィはその立場を守ってきた。だが、そろそろ潮時だろうとも思っていたのだ。
 先日のあの馬車での事件は王子が強く望んでいるという点を考慮していてさえも、許容できる範囲ではなかったらしい。なにせ、王子の抱擁だけで死にかけたのだ。どこの世界にそんな王妃を望む国があると言うのだろうか。

「陛下もお前を気に入ってくださっているが、そのような声がここまで強くなれば無視はできまい」
「ええ、もちろんですわ」
「病気を理由に願い出て、それをご寛恕頂いたと言う形に収めてくださるそうだ」
「ありがたい事ですわね」
「エリィはそれでいいのかい?」

 淡々と話を進めるヨハンとエリィに、セシルは遠慮がちに声を掛けた。そのセシルの様子に、エリィは不思議そうな顔で返す。

「元々いずれは婚約解消する予定でしたもの」
「いくらこちらが願い出たと言う体を取るとはいえ、少なからず口さがない者たちの話題にされるだろう?」
「どっちが言い出したにしろ相手が王族じゃ、傷はエリィに付くんじゃないのか?」

 心配げに言うセシルと、不愉快だとでも言わんばかり眉ひそめるヨシュア。2人の反応にエリィは嬉しそうにやわらかく笑った。ストレートに心配を表してくれるセシルと、エリィの為に怒ってくれるヨシュアの2人の気持ちが嬉しかったからだ。

「心配する事は無い。王子と婚約を解消するのであれば、とエリィとの婚約を申し出てくれている方もいる。もちろん修道院に送ることも、どこかの後妻になどとも考えてもいないよ。お前には不自由を強いて来たからな。お前の望むままに過ごせばいい」

 エリィが2人に礼を言うよりも早く、ヨハンが2人の心配を打ち消す様に言葉を重ねた。その言葉にエリィは少し驚いて目を丸くする。

「婚約解消したばかりの令嬢と婚約だなんて奇特な方もいらっしゃるのね」
「身分も人格もしっかりした方達だよ。お前さえ望めば、そのうちのどなたかと穏やかに過ごすことも可能だろう。私もお前には幸せになってもらいたいのだ。……後でケイトに候補者のリストをもたせよう。少し考えてみると良い」
「ありがとうございます」

 エリィは是とも否とも言わず、曖昧に微笑んで返した。ヨハンはエリィがこの家に来た時から、厳しそうに見えて実はもの凄く子供に甘い。そんなヨハンであるからこそ、王家との婚約は当初とても反対していた。病持ちであるエリィがいずれその病を理由に婚約解消される可能性を考え、娘に傷をつけることを厭ったのだ。それでも婚約を受けたのはエリィの我が儘だった。エリィからすれば、どうせ死んでしまう命。未来の自分の傷など考えても仕方のない事だった。
 そんな言わば傷物になってしまう娘に縁談をこうも早く持ってこれると言うのは、ヨハンの働きかけであろうことは想像に難くない。仮に望んでくれる者がいたとしても、まずはほとぼりが冷めるのを待つ筈だ。噂の渦中になるであろうエリィと婚約を結ぶという事は、エリィの傷を半分受け持つにも等しい行為だからだ。世間体、対面を気にする貴族ならば当然の事と言えよう。

「いくらなんでも、婚約解消してすぐに婚約なんて外聞が悪いと思いますが」

 顎に手を当て考え込むセシルに、ヨハンはにこやかに微笑んでみせる。その笑顔は決して甘くない。

「外聞か……お前たち、議会で婚約解消派の筆頭は誰か知っているかい?」

 うすら寒いその笑顔に幾分顔を引きつらせながらも、セシルは貴族の勢力図を頭の中で広げ、その力の強いものを挙げてみる。しかし、ヨハンはそれのどれにも首を縦に振らなかった。ヨシュアも夜会で培った情報網を元にセシルの言葉の合間に貴族の名を次々に挙げてみるが、それでもヨハンは頷く事は無かった。
 国内でかなりの力を有するディレスタ侯爵家を抑えるほどの力の持ち主を、全く突き止められないことにセシルとヨシュアは顔を見合わせながら何度も首をひねった。

「わからないと言うのかい?」

 期待外れだとでも言うようにヨハンは大仰にため息をついて見せた。王宮で騎士として出仕するセシル、そして夜会でディレスタ家の顔として出ているヨシュアが把握できない有力貴族など、エリィにも全く想像がつかない。結局、エリィも含めて3人ともヨハンに降参するしかなかった。

「もう少し利口だと思っていたのだがね」
「父上、嫌味は結構ですよ。早く教えてください」

 幾分不満げな顔でヨシュアが言うと、ヨハンは浅く掛けた椅子の背もたれに背中を預け、腹の上で手を組んでおかしそうに笑った。もちろん、その目は笑っていない。

「随分見くびられたものだ。我がディレスタ侯爵家を敵に回せるものをそこまで沢山考えられるとはな」

 あれもこれもと上げた貴族の名前をヨハンが聞くごとに眉間に皺を寄せたのは、名前を当てれないことに対する不満ではなく、ディレスタ侯爵家に相対する勢力がそれだけいると思われている事への憤りだったのだ。

「ですが、父上。そんなことを言ったら、我が侯爵家に意見できるのなど王家か公爵家しかないではないですか」

 眉根を寄せてヨシュアが言えば、ヨハンはフンと鼻で笑う。まるでそのヨシュアの言葉すらも不服と言った様子であった。

「王家だろうと、公爵家だろうと文句は言わせんよ」
「ならば誰だと言うのですか」
「私だよ」

 さも当然のように胸を張って言うヨハンを、セシルとヨシュアは幾分呆れ気味の顔になって視線を反らした。普通の貴族であるのならば王家との繋がりをより強固にするためにも、婚約解消など全力で阻止に回るはずだ。それをヨハンは全力で娘の婚約解消派に回ったと言ってるのだ。

「対外的には、病気を理由に婚約解消を願ったという事にしてやっただけだ。だが、皆知っておるよ。侯爵家は王子を見限ったとな」
「先日の件で、ですか?」
「当たり前だろう。我が侯爵家の大事な娘にどれだけ辛い目に合わせれば気が済むのだ、あのバカ王子は」
「それは否定できませんが……」

 セシルがため息をつきながら言うと、ヨハンは大きく頷く。ヨシュアはと言えば、馬鹿らしくなったのか食事に集中し始めた。時々出る欠伸をかみ殺しながらの食事はとても気だるげに見える。

「そもそも、王子を出禁になど我が侯爵家ぐらいしかできんよ」

 くつくつとおかしそうに笑うヨハンにエリィも苦笑を返すことしかできない。ヨハンがやり手だとは分かっていたが、そこまで力があったとはエリィにも初耳であった。

「つまりだ。王子との婚約解消では、エリィに傷がつくどころか価値を上げただけだな」
「え?」
「当たり前だろう?王家との婚約関係も反故にできるほどの力を持つ侯爵家の後ろ盾を得られるのだぞ?どこの家も喜んで息子を差し出すさ」
「……」

 それではまるでエリィの相手が生贄のようではないですか。と誰も発言しなかったのは一重にヨハンの黒い微笑みが不気味だったからに他ならない。だがその笑顔の裏にはしっかりとエリィへの親としての愛があることは言うまでもない。その事をエリィはとてもありがたいと思った。貴族にとっては娘はいい駒になる。だからこそ病持ちの娘など駒にもならず捨て置かれても文句は言えないのだ。それなのに血がつながっていない娘を道具のように扱う事もせず、捨て置くこともせずに気にかけて色々目を掛けてくれるヨハンはエリィにとって尊敬できる親であった。

「ああ、そうだ。お前たちにもう一つ話がある」

 ふと思い出したように、ヨハンは椅子の背にもたれていた体を起こして口を開いた。

「客室の件ですか?」

 ヨハンが口を挟むと、ヨハンは一瞬何のことだかわからないと言った感じで目を点にしてみせた。そうしてすぐに思い出したように小さく頷くと首を横に振る。

「いいや、それよりも重大な話だ」

 テーブルの上に両手を組んで置き、幾ばくか体を乗り出す様にしているヨハンの顔を窺い見ると、明らかに喜色満面である。その表情にいささか怖気づきながらもヨシュアは頷く。

「夏に家族が一人増える」
「まぁ。弟か妹が出来るのですね?私嬉しいわ」
「父上、おめでとうございます」
「それで義母様は最近ずっと臥せってたのか。気鬱で臥せってるのとばかり……」
「まぁ、それもあったがな。なにより悪阻が酷くてな……まさかこの年でもう一人増えるとはな」

 口調は真面目なのに顔がにやけているのは、ヨハンがそれだけ妻を愛していて、その新しい命の誕生を心待ちにしている事が窺えた。セシルとヨシュア、エリィは互いに顔を見合わせながらその様子に苦笑を漏らす。ヨハンとエリィの母ディアナは再婚して以来とても仲睦まじいのは周知の事実だ。その2人の間に今まで子供が出来なかったのが不思議なくらいなのである。ヨハンのその喜びようは尋常じゃないのだろう。

「で、客室の方は?近々来客があるって聞いたけど」

 のろけを聞かされてはたまったものじゃないと言った口調でヨシュアが問えば、ヨハンは途端につまらなそうな表情をしてみせる。よほどその来客の事はどうでもよかったと見えた。

「隣国の王家の方が1年こちらに留学することになってな。この間セシルが隣国の使者殿の護衛と案内を任されたろう?その時にぜひ留学中の滞在先を侯爵家にと仰られてね。我が家でお世話させていただくことになったのだよ」
「それは重大な話の部類に入ると思うんだけど?」

 呆れたようにヨシュアが言えば、ヨハンは心外だと言った様に肩をすくめてみせる。

「王族のお世話なんて大丈夫なの?まぁ、父上の事だからそつなくこなすんだろうけど」
「ああ。侯爵家だけでもなんとかなるが、体面上王宮の方からも警護や侍従などを派遣してくださるそうだ。その為の改装だよ。連れてこられる従者方も受け入れねばならないから、敷地内に離れを一棟至急建てさせることにもなっている」
「そうだわ。それならお父様、お母様の代わりに内装は私が指示しても?」

 エリィがそう声を上げれば、ヨハンは急に難しい顔をしだした。

「確かにディアナはまだしばらく安静にしていなければならないが……」

 内装の指示は主に女主人の仕事である。侯爵家で言うならばディアナの仕事であるのだが、今ディアナは悪阻で満足に動けないと言う。その場合、娘であるエリィが代わりを務めるのは何も間違ってはいない。エリィももう子供ではないので十分に役割を果たせるはずなのだが、ヨハンはあまり賛成できないと言った様子で返事を渋った。

「私、お母様の代わりに頑張りますわ」
「その”頑張る”が困るのだよ」

 エリィが必死に頼み込もうとすると、ヨハンはエリィに困ったような笑顔を見せた。その不可解な表情にエリィは首をかしげる。

「どうしてですか?」
「たかが内装と言えども、ただ座っているだけではないのはわかろう?壁紙や床の張替の指示や完成度の確認などで立ち合いも必要だろう。それだけでなく、家具を揃えるのにも何人も職人を呼んで選び、打ち合わせをし、整えていく。細々した備品なども合わせたものに揃えるためにこちらも頻繁に商会の者と会って打ち合わせが必要だろう。……それはお前の体には負担になるのではないか?」

 健康な体であれば何も考えるまでもなくできる仕事であっただろう。だが、エリィにはちょっとした疲労も体調の悪化につながることが目に見えている。だからこそヨハンは渋っているのだ。

「無理はしないと約束しますわ」
「だがな……」
「父上、私がエリィと一緒に見ましょう」

 渋るヨハンの言葉を遮ったのはセシルだった。エリィは突然の加勢に一瞬だけ驚き、セシルの方へと顔を向けるとホッとしたような笑顔を見せる。その笑顔に応えるようにセシルも穏やかに笑って見せた。

「少しでも体調が悪くなったりした時は直ぐにお兄様に任せて休みますわ。だからお父様、お願いします。私やってみたいの」
「私が責任をもって付き添います。もちろん登城している時は無理ですが、その時はエリィに休んでいてもらうか、ヨシュアに付き添ってもらえばいいでしょう」
「そうだね、僕も協力するよ」

 そう言ってセシルとヨシュアがエリィの援護に回ると、ヨハンはしばらくして渋々頷いた。ただし、離れの方は家令にまかせ、あくまでも客室のみと言う条件でだった。ヨハンは出来るだけエリィの行動範囲を狭めて、体への負担をなくしたいと考えているようだった。だから、仮に買い付けの必要が出た時も決して外出はしないでセシルかヨシュアに任せる事、この間のように勝手に外出したりしないことをきつくエリィは言い渡された。祭りの日の帰宅後、ヨシュアだけヨハンにこってり絞られたように、再びヨシュアに口を酸っぱくして言い含めているのを見るとエリィはヨハンに大事にされている気がして、ヨシュアに少しだけ申し訳なく思いながらも、ヨハンのその言動がとてもうれしかった。



 朝食後、ヨハンはディアナの元へ、ヨシュアは仮眠をとるために引き上げると、エリィはセシルと2人で改装工事中だと言う客室へと足を運んだ。既に今まであった家具はすべて取り払われており、客室と客室を隔てていた壁も今は見る影もない。床は絨毯もタイルも取り払われ、床板のみの状態になっており、壁はクロスが取り払われて白壁を晒していた。

「どんな風なお部屋にできるのかとても楽しみだわ」

 エリィが興奮した様に胸の前で手を合わせて言えば、セシルは微笑ましいと言った感じで口元を緩めた。だがエリィはそんなセシルに気付くこともなく、足元に気を付けながら慎重に部屋の中央まで足を進める。

「絶対素敵なお部屋にしたいの」

 ニコニコとエリィは決意表明をするように宣言をし、部屋を見渡す。エリィにはこの内装だけは絶対に自分でやりたかったのだ。そう。”隣国の王族”と”留学”。そのキーワードを聞いてエリィにはピンときたのだ。もちろん主人公ノエルちゃんのことである。

 ノエルの生い立ちはちょっとだけ普通ではないが、ベタと言えばベタだ。ノエルの母親は隣国の現在の王の妹で、その王がまだ王子だった頃、平民出身の一騎士と恋に落ちて身分も婚約者も貴族としての生活まですべて捨てて駆け落ちした。その騎士と王女の間に生まれたのがノエルである。ノエルは両親の愛情をいっぱいに受けて育ったが14歳になった時に両親が2人とも流行病にかかって無くなってしまうのだ。突然一人になったノエルは、母親が今際に残した言葉と形見のペンダントを手に母の親戚を頼るために城まで行くのだ。そこでなんやかんやあって王様に引き取ってもらう事になる。
 もちろん、父親の身分が低い為に従妹である王女たちや王妃に蔑み疎まれちゃう訳だけど、健気に頑張るのだ。もちろん妹の娘として王様は可愛がってくれるわけだけれども、それがまた従妹や王妃に更に疎まれちゃって、挙句の果てには騙されて高齢の伯爵の元へ後妻としていく羽目になりかける。で、不憫に思った王様が勉学の為の留学と言う名目で親交の深い隣国の侯爵家に逃がしてくれるのだ。その侯爵家というのがディレスタ家だったりする。ちなみにこのゲーム、バッドエンドらしきバッドエンドは無い。必ず誰かの恋愛ルートに入り、最低でもグッドエンドでノエルはこの国で暮らすことになるのだ。初心者導入用乙女ゲーと揶揄されていたのは伊達じゃない。

 兎も角!要点だけ言えば、ディレスタ家に滞在することになる隣国の王族の娘がノエルなのだ!そのノエルの為に内装を頑張りたいと言うわけなのである。

 ただ、エリィには気になることが一つあった。それは、この話が本来の時期よりもずいぶん早い事だ。ヨハンは近々と言って工事を急がせているが、本来ノエルは4月にやってくるのだ。だとしたら準備が早すぎるように思う。だからこそ、この時期の客室の改装で客人であるノエルをすぐに思い出すことが出来なかったのだ。それともどこかわからない所で何かが狂っているのだろうかと考えを巡らせる。そして妙な胸騒ぎを覚える。

――もしも、結果は変わらないが時期の変動が多少なりとも可能だとしたら?

 エリィはノエルが恋愛対象を攻略する過程で必ず死ぬ。という事は、ノエルが攻略を早めた場合、エリィの死期は早まるのではないだろうか。その推察がまるで現実になってしまうように思えてエリィは背筋に冷たいものが走る気がした。が、すぐにその考えを振り払うかのように頭を振る。

「エリィ?」

 黙り込んだエリィを不審に思ったのかセシルが静かな声でエリィに呼びかけた。その声にエリィはハッと我に返り、セシルへと振り返ろうとして耐性を崩し、つんのめる様にして床に膝をついた。その途端にドクリと心臓が跳ねる。

「……っく」

 座り込んだエリィに、セシルは慌てて駆け寄ってすぐ横に膝をつく。エリィはドクドクと波打つような心臓を胸の上から押さえ、なるべく浅めに呼吸を繰り返す。痛みこそまだ感じないものの、胸が苦しく、深く息を吸えば痛みが待っているような気がして怖かった。落ち着かせるように胸の上に置いた手をもう片方の手でトントンと小さく叩く。静まれ、静まれと念じながら。
 
「エリィ、部屋に戻ろう」
「……いいえ、兄さま。……大丈夫です。少しだけ待って……」

 心配げに声を掛けるセシルにエリィは途切れ途切れに答えながら首を振った。ちょっと心臓が驚いただけで発作ではない事をエリィはきちんと把握していた。そのまま動かずにじっとしていれば発作を起こさずに済むのだ。必死になって落ち着こうとエリィがうずくまったまま目を閉じて胸の上を小さく叩いていると、ふわりと暖かいものに包まれた。ぎこちなく顔を上げてエリィが瞼を開くと、セシルの腕の中に居ることに気が付いた。
 セシルはエリィを抱きしめたまま背中をポンポンと小さく叩く。それはまるで小さい子をあやすような仕草で、気付けばエリィは先程よりもずっと心臓が大人しくなってきた事に気づいた。一人で堪えている時よりも不安が小さくなった気までする。試しにセシルの背中に手を回して、ギュッとしがみつくように抱きつくと、心臓がどんどんゆったりとした鼓動になっていくのがわかった。セシルの胸に耳を当てると、セシルの鼓動が聞こえ、その音をなぞらえる様にエリィの心臓も落ち着いていく。そして、その音はエリィの気持ちまで落ち着け、先程の不安な気持ちが嘘のように落ち着いていた。

「大丈夫かい?」

 相変わらず背中をポンポンと叩きながら、セシルが問う言葉に、エリィは小さく頷く。

「凄いわ……兄さまは私の薬みたい」

 目を閉じ、セシルの鼓動を聞き、背中を叩いてもらっていると酷く安心した。エリィはそのまま甘えるように抱きつく。すると、セシルが小さく笑ったようだった。

「兄さま、もう少しこのままでもいい?」
「ああ、もちろんだよ」

 小さく笑いながらセシルはホッとした様に背中をまたトントンと叩く。そのリズムがとても心地よく、エリィは力を抜いてセシルの胸にもたれ掛かった。そうしているだけで、まるで自分が子供に戻ったような気になった。
 ついついその温もりと鼓動で安心しきって眠ってしまったのは仕方が無いわよね、っと後で言い訳することになってしまったとしても。









 そうして、時々エリィが軽い発作の様な物を起こしたりもしたが、それでも滞りなく客室は綺麗なお部屋に生まれ変わった。学園は当然のごとく長期の欠席となってしまったが、後悔はなかった。ノエルの為に時間を費やすことの方がエリィにとっては重要に思えたからだ。
 インテリアについては度々セシルと意見の食い違いはあったが、大人しく控えめで所々にレースや刺繍の入った小物を散りばめた可愛らしい部屋にできた。たった10日程度であつらえた部屋ではあったが、ノエルの為にエリィは精一杯頑張れたと思っている。

 早くノエルに会いたいとウキウキしながら待つ事さらに3日。とうとうその日はやってきたのである。予定より2カ月ばかり早かったが、主人公ノエルがこの舞台に#登場__ログイン__#することによってゲームが始まるのだ。
 ノエルの到着の知らせを受けて、エリィは駆け出してしまいそうに逸る心を抑えて応接室へと向かう。部屋の扉の前で立ち止まり、一度大きく深呼吸をした。ずっと会いたかった彼女に会えると思うと自然と口元が綻んだ。大好きだったゲームの自分の分身ともいえる大好きな主人公。どうせだったら主人公に生まれたかったものだが、エリィに生まれてしまったからには全力でノエルの恋を応援しようと思っている。まるでテレビのなかの芸能人に会いに行くような高揚した気持ちと、ニヤニヤした口元を引き締めつつ、エリィは扉を4回ノックした。

「入りなさい」

 落ち着いたヨハンの声を聞いて、エリィは静かに扉を開ける。そして、その異変にすぐに気づいて硬直した様にドアノブに手を掛けたまま固まった。

「エリィ、こちらがノエル様だ。早く入ってご挨拶なさい」

 そんなエリィの様子を訝しむ様にヨハンは眉をひそめてエリィを注意する。その声に促されるようにエリィはおずおずと部屋の中に入り、ぎこちない笑みを浮かべた。

「エリィ・ディレスタでございます。……よろしくお願い致します」
「ノエル・フォン・フィルム・ハウゼンです。お会いしたいと思っていました。握手をしても?」

 そうノエルが言い、エリィが頷けば、人好きのする笑みを浮かべて握手を求める様にノエルは右手を差し出した。その手をひきつった笑みを浮かべながらエリィは恐る恐る握る。そんなエリィの手をノエルはしっかりと握り返すと、まるで親しい者と挨拶するようにそのまま互いの頬を合わせるような素振りで耳元に口元を寄せる。

――会いたかったよ、エリィ。

 ヨハンには聞こえぬ程度の大きさで呟いたノエルの声は耳触りの良い澄んだ低く目のテノールだった。そう、あのゲームの中の穏やかに微笑む彼女とはまるでかけ離れた、悪戯を思いついた子供のように笑うイケメンだったのだ。




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