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9. 月

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 結局、逃げる様にヨシュアの寝台に潜り込んだものの、エリィは全く寝付けないでいた。普段ならば寝台に入ればすぐにうとうとするのに、全くと言っていいほど眠気が来なかった。それだけ、自分の死に対する恐怖が強かったのだろう。そして、その恐怖を誰にも相談できずにいた。医師が大丈夫だと言っているのに、なぜエリィがその症状にショックを受けているのかうまく説明できる自信が無かった。

 数時間前にヨシュアが夜会に行く準備をしてくると声を掛けて来た時も、セシルが帰宅して顔を見せに来てくれた時もそのセシルが何度か様子を見に来てくれた時も、寝たふりでやり過ごしてしまっている。
 既に屋敷内はしんと静まり返っていて、侍従達が行きかう音もぱたりと聞こえなくなった。少しだけ毛布から顔を出してみると、部屋の中は既に真っ暗で、窓の外から差し込む月光でぼんやりと部屋の中が見えるぐらいだった。

 誰の気配もしないことに何故か酷く安堵を感じて、エリィは寝台を抜け出し、窓際の椅子に腰を掛ける。この椅子はヨシュアの特等席だ。ヨシュアは時々、皆が寝静まった頃にここに座って月を眺めながらボーっとするのが好きだと言っていたことがある。それに倣うようにしてエリィは月を見上げる。大きなガラスに肩と頭を持たれるようにして付け、見上げた月は、ぼんやりとした輪郭でとても優しげに見えた。

「起きてたんだ?」

 不意に声を掛けられて戸惑いながら振り返ると、部屋の入り口にヨシュアが立っていた。まだ馬車が戻ってくる音はしていなかった筈なのにと、エリィは訝し気に視線を返す。ヨシュアはグレーパープルに銀糸の刺繍が入った上品なフロックコートを着こなしている。コートの袷から見えるジレも銀糸を織り込んだシックなものでヨシュアの容姿を際立たせるのにとても役立っていた。それは、どうみても夜会用の衣装以外には見えようもない。夜会に行く馬車の音は聞いた筈なのに、ヨシュアがそこにいることが不思議でならなかった。

「外せない夜会があるんじゃなかったの?」

 思ったよりも小さな声で呟くようにエリィが言うと、それでもヨシュアには聞こえたようで、彼はくすりと笑って見せた。

「兄さんに行ってもらったよ。たまにはきちんと次期侯爵様が出席しないとね」
「……そう」

 小さく返事をして、エリィは再び月を見上げた。なんとなくそれ以上話す言葉も見つからず、エリィは黙り込む。ヨシュアはそんなエリィの様子を少し困ったように見て、静かに歩み寄った。

「兄さんをよこせば少し元気が出るかと思ったけど、駄目だったみたいだね」

 何も答えずに月を見上げたままでいるエリィにヨシュアは少し肩をすくめておどけてみせた。そして、近くの椅子を引き寄せると、エリィの直ぐ近くにに椅子を置いて座り、同じように月を見上げた。

「月っていいよね。月みたいになりたいなぁ……」

 見上げたままヨシュアがそう呟くと、エリィは不思議そうな顔をしてヨシュアに視線を移した。

「唐突ね。なぜ?」
「あ、こっち向いた。ははは、もちろん、目立ちたいからだよ。ほら、女性に注目してほしいのは男として当たり前の摂理だと思うんだけど?」
「随分と俗物的ね」
「当たり前でしょ?そのために着飾ってるんだし。華やかな女性のドレスに目が行きがちだけど、男だって色々考えて着飾ってるんだからさ。なーんて言うとちょっとカッコ悪いけどね」

 器用に片目をつぶってウインクをしながらヨシュアが笑うと、つられてエリィも自然と口元が緩んだ。

「ヨシュアは十分目立ってると思うわよ。夜会でいつも女性に囲まれてるじゃないの」

 流石エロ担当キャラ。とエリィが感心するぐらいにヨシュアの周りは常に女性がいる。容姿もさることながら、女性に配慮した話題などに長けていて、夜会でのヨシュアは本当に別人と言っていいくらいのイケメンなのだ。エリィも夜会に参加した時はその余りの人気っぷりに圧倒されることもしばしばだった。もちろん、エリィ一押しのセシルも人気はあるのだが……セシルは容姿も端麗で優しくはあるが、女性を上手く喜ばせるだけの話術があまり得意ではない。だからセシルの周りには比較的大人しめの令嬢が大人しく集まってくる感じで、ヨシュアの周りはそれこそ派手な年上の女性から同年代の気が強かったり、元気だったりな女性でいっぱいである。

「いや、もっとこう。ほら、もっと格好イイ僕を見て!みたいな」
「なにそれ、ふふふ」

 ヨシュアがふざけて変なポーズを取って見せると、エリィはプッと思わず吹き出してしまった。黙っていれば綺麗で本当に格好良い青年の筈なのに、ヨシュアはエリィの前ではこうやってふざけることが多い。昔からエリィが沈んでいる時はセシルが優しく慰め、ヨシュアが笑わせるのは定番になっていたように思う。

「不満に思うほど注目を浴びてないわけじゃないでしょう?」
「いいや、兄さんやフィリオ―ル様に負けた!って感じる事よくあるよ」
「そうね、二人ともとても素敵だものね」

 華やかさではフィリオ―ルもセシルもヨシュアには勝てないが、2人には2人の良さが十分にあった。夜会に置いて穏やかな上品さというか、居心地の良さで言えばヨシュアは2人の足下に及ばないかもしれない。まぁ、主にそれらの雰囲気は周りにいるご令嬢たちが作り出していると言っても過言ではなかったが。

「でも、同じ目立つって言うのなら、月よりも太陽じゃない?」

 ヨシュアにエリィがそう問えば、彼は少し考えるようにして首をひねった。

「う~ん、直視できないほど目立つのってどうなのかなぁ。……それは殿下だけでよくない?」

 ”直視できないほど目立つ”に含まれた意味を読み取り、エリィはくすくすと笑った。確かにそう言う目立ち方をつい最近町で見たばかりだ。そのエリィの思い出し笑いにヨシュアはホッとした様に眉尻を下げた。そうしてヨシュアは再び視線を窓の外へと移し、愛し気に目を細めて月を見上げる。

「月が綺麗だね~」

 薄暗い部屋の中で月光を浴びて、微かに浮かび上がるヨシュアの美しい白磁の横顔はそれこそ月のようだとエリィは思った。女性よりも遥かに綺麗なその横顔は、とてもエリィの年下には見えない。昼間のヨシュアは年相応な仕草や言葉遣いで、時に子供っぽく思う事があった。しかし夜の、しかも夜会用に装った今のヨシュアはずっと大人びて見え、エリィには少し置いてきぼりになったような錯覚を覚える。
 このままヨシュアはエリィを置いて・・・大人になり、結婚をして、子供を育み、#老いて__・・・__#いくのだろう。大人になれないとわかっているエリィにはそれが酷く贅沢なことに思え、妬ましかった。エリィが欲しいものを持っているヨシュアが羨ましくて、少し意地悪したくなってしまうのは仕方が無い事だろう。

「ねぇ、ヨシュア。”月が綺麗ですね”って言うの、国によっては違う意味も含まれるって知ってた?」
「え?」

 半眼したままからかう様に言うと、ヨシュアはわけもわからずと言った調子で首をひねった。もちろん、この国にはそんな意味は含まれていないのをエリィはよく知っていたし、今はもう懐かしいあの国でも、その言葉の意味として使う事は殆どない事も知っている。ただ単に、ちょっとヨシュアで遊びたかっただけなのだ。

「どういう意味?」
「聞きたい?」
「うん」

 わざとじらす様にエリィが言うと、ヨシュアは興味津々と言った感じで少し身を乗り出し、エリィの顔をじっと見つめる。その好奇心に満ちた目はいつものヨシュアと同じ年相応の物であるのを認め、エリィはホッとした様に笑った。

「あなたを愛しています、よ」

 エリィがそう言えば、ヨシュアは一瞬目を見開いて固まり、すぐに顔を真っ赤にして身を引き仰け反った。その拍子に椅子がぐらりとバランスを崩し、ヨシュアは椅子と一緒に派手に後ろへ倒れる。そのまま四つん這いの状態で慌てて椅子を直し、その椅子を杖代わりに立ち上がろうとして、再びバランスを崩してすっ転んだ。いくらなんでも動揺し過ぎである。

「何をしてるのよ」
「べべべべべべ、別に!さっきのは!そう言う意味じゃないからな!」

 幾分怒鳴り気味にヨシュアはエリィに虚勢を張るものの、その顔は真っ赤で迫力は全くない。ヨシュアのそんな余りの動揺っぷりにおかしくなってしまい、エリィは堪えきれずに笑い出した。

「ふふふ。義姉に愛の告白なんて大胆ね、ヨシュア」
「ち、違うって言ってるだろ」

 ヨシュアは真っ赤になって座りなおしたものの、すっかり機嫌を損ねてしまい眉間には皺が寄り、心なしか唇がとがっている。恥ずかしさを誤魔化すためか肘掛けに置いた左手に顎を乗せてエリィからは視線を外して、足を組み、その上に置いた右手は指がトントンと膝を打っていた。紳士然としていた先程までの大人びたヨシュアはもうすでにどこにもいない。

「わかってるわよ、ヨシュア。ごめんね?怒らないでよ」

 口元を抑えながらも、未だ笑いを止めることが出来ないエリィをヨシュアは恨めしそうに睨む。そうやってしばらく睨んでいた後、ヨシュアは諦めたように長いため息をついた。

「もういいよ。エリィが元気なら」

 心なしか口元は少しへの字に曲がってはいたが、渋々と言った感じでヨシュアはエリィを睨むのを辞めた。相変わらず顔が少し赤いのは恥ずかしさが未だ引いていないからであろうか。

「顔色あまりよくないし、少し横になる?話をするなら付き合うし」
「そうね」

 ヨシュアに促されるまま、エリィは寝台に戻る。ゆっくりと寝台に横になると、ヨシュアが甲斐甲斐しく毛布を肩まで引き上げた。そうして、ヨシュアは先程まで座っていた椅子を窓際から寝台の真横まで運ぶと、静かに腰を掛けた。サイドテーブルの上の品の良いランプに手を伸ばして灯りをともすと、橙色の暖かい光が部屋に広がり、ほんわりと部屋を明るくする。

「ヨシュア、眠くないの?」
「今のところは全然。むしろそこの読みかけの本を読んじゃいたいぐらいだよ」
「疲れたりとかは?」

 エリィが上目づかいでヨシュアの顔を見上げると、ヨシュアはすました顔で足を組んでサイドテーブルに置きっぱなしの本を手に取った。そして読みかけのページを探す様にペラペラとページを捲りながら口を開く。

「今日は夜会に参加しなかったからね。お酒も入ってないし、疲れてもないかな」
「夜会、疲れるの?いつも生き生きしてるように見えたけど」

 エリィが尋ねると、ヨシュアは小さくため息をつき、開いた本を膝の上に置いた。

「そりゃ女性に囲まれて悪い気はしないけど、どんな人付き合いだって疲れるよ。当然だろ?」
「そっか。まぁ、夜会のヨシュアはなんか気取ってるものね」
「気取ってるって言うな」
「じゃあ、カッコつけてる?」
「つけてるに決まってるだろ」

 そう言ってヨシュアは笑って髪をかき上げた。その笑顔は妙に大人びていて、何となくむずむずと居心地が悪く感じ、エリィは少し視線を反らす。ヨシュアの方はそんなエリィに気付かなかったのか再び本に視線を落とした。

「エリィ」
「ん?」

 本に視線を負わせたまま呼びかけるヨシュアに、エリィは体を少しひねって向き直る。それでもヨシュアは本に視線を落としたままだ。

「寝ていいよ」
「うん」
「エリィが起きるまでついてるから、安心して」

 ヨシュアのその言葉にエリィは驚いた様に瞠目して、ヨシュアの顔をまじまじと見た。しかし、ヨシュアはその視線を気付いてないようなそぶりで本に視線を落としたままだ。

「ごめん。僕、動揺して余計な事話したって反省してる。……エリィ、寝るの怖くなったんだろ」

 まるで見透かしたかのように、ヨシュアは言い当てた。そしてそこで初めてエリィも寝れなかった理由が”寝るのが怖かった”からだと気付く。死ぬのが怖くて、そればかり考えていたから寝れなかったのではなくて、”寝る”ことが”死”に繋がっている気がしたから怖かったのだ。寝てしまったらそのまま死んでしまうのではないかと恐れているのだ。

「ちゃんと責任取るからさ、安心して寝て」
「ヨシュア、昨日も付き添ってくれてたでしょ。そんなことしてたら体壊すよ」
「少しぐらい寝なくても大丈夫。死ぬわけでもあるまいし」
「死ぬわよ」
「……じゃあ、その時は一緒に死のっか」

 その言葉にドキリとしてエリィは黙り込んだ。相変わらずヨシュアは本から視線を反らさずにエリィの方を見なかった。その表情からはヨシュアの真意が見えてこず、エリィはじっとヨシュアの顔をみつめる。

「あ~……ごめん、冗談だよ。また余計なこと言ってるし。もう、気にしないで寝て?僕は朝になったらケイトと交代して寝るから大丈夫」

 長い息を吐き、ヨシュアは天井を仰ぐように顔を上げ、右手の甲を額の上に置く。それはまるでエリィの視線から逃げたようにも見えた。そのヨシュアの態度に、エリィは突き放されたような気分になり、とても寂しさを感じた。が、ヨシュアはそんなエリィの気持ちも気づかないようで、小さく恨み言をこぼす。

「っていうか、カッコ悪い。いろいろ恥ずかしくて消えたい」

 よく見ればヨシュアの耳が赤くなっている。それに気づくとエリィはふと寂しくなってしまった自分が馬鹿らしくなり、小さく笑みをこぼした。

「ねぇ、ヨシュア」

 エリィが呼びかければ、ヨシュアは拗ねたような顔で、頬をほんのり赤くしたまま横目でエリィを見た。

「やっぱり怖いから、寝るまで手を繋いでてくれる?」

 毛布の中からおずおずとエリィが手を少し出せば、ヨシュアはそこでやっと顔をエリィに向けた。そして、「喜んで」といって眉尻を思いっきり下げたまま、照れたような、困ったような情けない笑顔をして見せたのだった。





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