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51. 重ねられる想い

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「……抵抗しないの?」

 唇を少しだけ離すと、低く、囁くようにヨシュアが言った。薄っすらと瞼を開けると自嘲気味でそれでいて少し挑戦的な表情のヨシュアがそこに居た。

「僕じゃなくて兄さんが好きなんだろ」
「……そうね」

 そう答えれば、エリィの胸がチクリと痛んだ。モヤモヤと心の中に残る不快感。チクリと走る痛みと、己への不信感。痛みの正体がセシルへの好意による物なのか、それとも決められたストーリーをなぞるだけの心の無い言葉への後ろめたさなのか、全く別の何かなのか。それさえもエリィには判別がつかなかった。

「……なんで」

 何故抵抗しないのか。何故セシルの事が好きなのか。何故自分ではダメなのか。そんな苦しくなるような、それでいて拒絶の答えを求めるように、吐き出す様に、ヨシュアは問う。だが、あんなに納得できたと思ったセシルを好きだという気持ちすら、今はもうわからないのだ。ヨシュアを拒絶する気持ちすら起きない自分の気持ちはエリィが一番聞きたいくらいなのだ。

「わからないわ」

 困った様にエリィがそう言えば、つられたようにヨシュアも今にも泣きそうな困った笑いを浮かべた。

「……好きだよ」

 そう言ってヨシュアは再びそっと触れるだけのキスをエリィに落とした。それをエリィは再び抵抗もせずに受け入れる。そのエリィの反応にヨシュアは悲しそうに目を細めた。

「……私、死ぬのよ?」
「知ってる。……知ってるよ」

 歪な笑みを浮かべながらヨシュアは言う。その笑顔の歪に不安を覚えながらもエリィは言葉をつづける。

「6月の……」
「22日だろ」
「うん」

 そう言った瞬間、その言葉はヨシュアの顔を大きく歪ませた。ヨシュアにだけしか話していない、エリィの命が失われる日。それをヨシュアはきちんと憶えていた。あの時、耐えきれなくて泣き喚いたエリィをヨシュアは黙って受け入れた。その言葉の重みを一番理解していなかったのは自分かもしれないと、エリィは思った。
 いつものヨシュアからは想像もできない程、苦し気な歪を持った笑顔。優しく明るいヨシュアの笑顔を歪ませたのはエリィだ。

――私は何て身勝手なんだろう。

 誰よりもエリィを大切にしてくれて居たノエルに言われた言葉を思い出す。

――望まない未来の現実を知っている俺に、何度も現実を突きつけないでほしい。

 あんなに辛そうな顔で否定された言葉を、ヨシュアにも同じように言っていた。自分の辛さを吐き出す様にヨシュアに自分の終わりを告げて置いて、自分勝手に、自分さえも目を反らしたい現実を何度も突き付けた。
 数日前、ヴィスタに人の死を喜ぶと思っているのかと怒って言ったのは他ならぬエリィだ。それと同じ事を今ヨシュアにしている。到底喜ぶはずのない身内の死を何度も突き付けた。
 タイムリミットを告げておきながら、それを免罪符のように振りかざし、自己満足に浸っていたのは紛れもなくエリィ自身だった。

「……私は、ヨシュアに甘え過ぎてるね」
「いいよ」

 そう言ってヨシュアはまたエリィに口付けを落とす。

「お姉さんなのよ、私は」
「ちっとも姉らしくないけどね」
「それでも私の方が年上だわ」
「年寄りじみてるところがあるのは認めるよ」

 ヨシュアがそう言えば、エリィは不満そうに少し眉を寄せてヨシュアを睨む。そんなエリィにヨシュアはやっと表情を緩めたまま笑いを零した。

「ヨシュアは大事な弟よ」
「知ってる。……知ってるよ」

 囁くように言ったエリィの言葉に、ヨシュアは途方にくれたような笑みを浮かべた。

「だけど僕にとって|君(エリィ)は、たった一人の女の子だ」

そうして、今までで一番長い口づけをエリィに落とすと、ゆっくりとヨシュアの体は離れてそのまま立ち上がった。

「謝らないよ」
「強引なのは嫌われるわよ」
「……これで最後だから。犬にでも噛まれたと思って諦めてよ」

 相も変わらず、ヨシュアは迷子になってしまったかのような笑みを浮かべている。その表情を見ていられなくて、エリィはそっとヨシュアから視線を外した。

「もうしないよ、約束する」
「うん。……お茶会の事、よろしくね」
「うん。約束はちゃんと守るよ」

 そう言ってヨシュアはくるりと背中を向けて部屋から出て行った。思わず呼び止めそうになった自分を戒めるようにエリィはきゅっと唇を固く結んだ。ヨシュアの背中を見た時に痛む胸の自分の気持ちがわからず、エリィは軽く頭を振る。
 ふと、先程までヨシュアが座っていた席に顔を向ければ、サイドテーブルに置き忘れたままの彼の読みかけの本が目に入った。皮のカバーの掛かった分厚い本を何の気なしに手に取ってパラパラとめくってみれば、それが西方の国の文字で書かれているのに気づく。諸外国の日常会話ぐらいならば理解できるエリィでさえ難しい単語の羅列をよくよく読み解けば、それが単なる文芸書ではなく、医学書であると分かった。特に何度も読み返したらしき角が擦り切れたページを捲ってみれば、心臓病の項目へと行きつく。

「私は贅沢ね」

 ポツリとそう呟けば、自然と涙が零れてシーツに染みを作った。

 その分厚い本を抱き込むように胸に当てる。そして初めて気付いたのだ。言葉で拒絶しながらも、ヨシュア自身を拒絶しない訳を。
 エリィは怖いのだ。ヨシュアが自分の元から去って行くのが。あの優しい人の手を放すのが怖いのだ。口ではセシルが好きだとか、ヨシュアは弟だとか言いながらも、自分に好意を寄せてくれているヨシュアの手を離せない。すっかりあの手の中で、あの好意の中で甘えてしまう事に慣れきってしまっていたのだ。

「なんて卑怯で、汚い」

 そう呟いてみれば、途端に自分自身の心に黒い染みが広がっていくような気分になった。


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 エリィの部屋を出るとすぐに、ヨシュアはその扉を背にズルズルとへたり込む様にして座り込んだ。

「……あんな事するつもりじゃなかった」

 膝の間に頭を抱え込む様にして、自分にさえも聞こえない程の微かな声で呟く。自分の情けない声が、鼓膜を震わせるのすら煩わしいと思った。
 同意も無く、一方的に好意を寄せただけのヨシュアが口付けを落としても、エリィは怒りも泣きもしなかった。それどころか、表情を変えることも無くただ黙って受け入れた。あの時、ほのかに暖かかった筈のエリィの唇もとても冷たく、まるで人形に口付けてでもいるような錯覚を覚えた。
 受け入れられないという事がここまで深く胸を抉る結果になるとは想像もしていなかったのだ。ヨシュアの口付けを拒絶もせず、感情すら振れさせない。それはそこに心が無いと言っているも同然だった。縋る様な心で再び口づけを落としてもそれは変わることが無かった。

「大事な弟、か」

 最初から分かってたことだった。エリィの目はセシルに向けられていて、ヨシュアの入り込む隙など無かった。それなのにしつこいぐらいにエリィに付きまとって、勝手に世話を買って出て、勝手に自己満足に浸っていただけだ。ただ、ずっと側に居ればいつかはセシルを諦めて振り向いてもらえるんじゃないかって勝手に期待していただけだ。そんなおこぼれを狙っていただたの卑怯で姑息な子供だった。
 一方的にあんなことしても、結局ヨシュアは”弟”と言う型枠から外れることが出来なかった。それをただ突き付けられた結果になった。ただそれだけの事。わかっていた筈の事。
 それでも、打ちのめされる位のショックは受けた。最後のチャンスだからと、自棄になっていたのかもしれない。
 両ひざの上に重ねた腕へ突っ伏す様に頭をのせる。そして自嘲気味に笑いを零した。
 こんなに心がボロボロに傷ついている今でさえ、エリィと唇を重ねたという事実に僅かに心が躍るのだ。そんな賤しい自分の心は既に壊れているのじゃないかとヨシュアは思った。だから、そうやって笑いながらも自分の瞳から零れる雫はきっと正しいのだ。壊れている自分の反応としては正しいのだ、と思った。

「……馬鹿な子ね」

 ヨシュアの前に影が落ちるとともに、そんな呆れたような声が頭の上から落ちて来た。ヨシュアが顔を上げてその人物を確かめれば、自分の愛しい人によく似た髪と瞳の色を持つ女性が立っていた。普段は滅多に部屋から出てこない自分の義母に、流石にヨシュアも少しだけ驚く。

「義母上……」

 そう呟くように呼びかければ、ディアナはそのままヨシュアの横に立ち、同じように座り込んだ。

「お体に障りますよ」

 そうヨシュアが言えば、ディアナは口角を少し上げて笑う。

「ヨハンから聞いたわ。ホント馬鹿な子ね、ヨシュは」

 ヨシュアの頭の上にポンと頭の上にのせるとそのまま優しく撫でつける。

「無理しなくていいのよ。難しい事は大人に任せておきなさい」
「……子ども扱いしないでください」
「あら、子供じゃない。少なくとも私はヨシュの事、可愛い息子だと思ってるわよ」
「実の親でもないくせに」
「その台詞、聞くの何度目かしらね?」

 コロコロと鈴が転がる様にディアナが笑う。その笑い方は、エリィとは違って少し豪快だ。しかも普段の楚々とした様子とはまるで違っていて、それでもその美しさを損なうことが無い。快活で朗らかで、人を惹きつける力を持つ。

「揶揄いに来たんですか?ほっといてくださいよ」

 そうヨシュアが言えば、ディアナは余計におかしそうに笑いだした。

「揶揄いに来たんですか?ほっといてください。私は一人でも十分やって行けますので」

 突然、何かの物まねをする様にディアナが声色を変えてそう言った。そして自分で言った言葉がツボに入ったのか再びこらえきれない様に笑いだす。

「何なんですか、一体」
「何なんですか、一体。用がないならさっさと立ち去ってください」

 再び物まねするようにディアナがヨシュアの言葉に続いて言う。そんなディアナにヨシュアは不快感も露わに顔をしかめた。

「初等部の時の台詞よ、それ」
「僕はそんな事言ってません」
「ヨハンのよ、ヨハンの」

 思い出し笑いをする様にディアナは再び笑いだし、逆にヨシュアは困惑する。

「ホントそっくり。呆れるぐらいそっくりだわ。血は争えない物ね」
「やっぱり揶揄ってるんじゃないですか」
「そんなことないわよ。ただ、ホントそっくりなのよ。優しい所も、馬鹿なところも」

 そう言ってディアナはヨシュアの頭を引き寄せるようにして自分の頭とコツンと突き合わせた。

「ヨハンもあなたも、優しすぎるわ。もう少し我がままになってもいいのよ?」
「別に優しくなんかありませんよ、僕は」
「その無駄に頑固なところもそっくりね」
「何が言いたいんですか」
「……あの子も、頑固でしょう?」

 ヨシュアのつっけんどんな口調を露ほども気にするそぶりも無く、ディアナは言葉を続ける。その言葉にヨシュアは呆れた様に頷いた。

「そうですね」
「思い込みが激しくって、人一倍負けず嫌いなのよ」
「……そうですね」
「2歳の時ね、おむつ付けるのを嫌がって。自分で御手洗いできうー!ってよたよた歩いてって転んで。そのまま漏らしちゃってね?悔しがってその場で大泣き。私、思わず笑っちゃったわ」
「可愛いじゃないですか。笑うなんて酷いですよ」
「そうね。……でも、あの子もホント馬鹿なのよ。私に似て」
「……」
「いつも周りを気にして。とても気が強いけど、とても寂しがり屋なの」
「知ってます」
「最後まで見捨てないでやってね」
「……はい」
「最後の時は、最期の一瞬まで一緒に居てあげましょう?」

 そう言ってディアナは涙を一粒零し、照れ隠しのように再びヨシュアの髪を撫でる。そうして、それにつられるように、頷きながら流れたヨシュアの涙を、ディアナはそっと指で拭った。
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