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19. 『定番のごっこ遊び』と『言い訳の宿命論』

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 目を開ければ、そこは見知った他人の家、フィリオ―ルの屋敷の客室だった。ベッド脇に置かれた椅子にはヨシュアが当然のように座っていて、穏やかな顔で本を読んでいる。ヨシュアが居て、フィリオ―ルの家に居るという事は、おそらく今日・・は2月25日、夜会の翌日であろうとエリィは推察した。

「おはよ」


 寝起きの幾分掠れた声でヨシュアに話しかければ、彼は柔らかい微笑みを見せておはようと返す。昨日の彼は取り付く島もないと言った感じで、避けられていた。その彼が、今はいつもと変わらぬ優しい微笑みを見せてくれたことにエリィは酷く安堵する。
 もちろん、彼が今こんな表情を見せるのは、今の彼が昨日の延長上にいる彼ではないからだとはわかっていた。それでも、昨日の様な不快そうな目を受けないで済む事にホッとしたのだ。普段こうしていつも近くにあるヨシュアとくだらない事で仲たがいしてしまったと言うのを、予想外にストレスに感じていたらしい。

「まだ眠いなぁ……」

 眉間に皺を寄せて、エリィは体の向きを変えて横向きになった。そのまま手を伸ばして、ページを繰るヨシュアの右手を引き寄せ、軽く握る。さしたる抵抗もなくエリィのなすがままになるヨシュアの手に改めてホッとする。その手にもう片方の手を重ねて握り込む様にすると、ヨシュアは少しだけ腰を浮かして困惑気味にエリィの顔を覗き込んだ。

「エリィ?どうかした?」
「……うん、結構ショックだったんだなぁって思って」
「は?」
「ううん、嫌な夢見たから」

 そう言って誤魔化せば、ヨシュアはそっかと小さく頷いて、手を引くこともせずにエリィのされるがままになる。そして再び椅子に腰を掛けると左手でエリィの頭をそっと撫でた。
 一晩中本を読んでいたであろうヨシュアの手は、ひんやりと冷たく心地いい。更に少しだけその手を引き寄せて右頬に乗せる。その心地よさにうっとりと目を閉じると、眠気がのっそりと襲ってきた。

「エリィ?」
「ヨシュア~、眠くて死ぬ~」
「まだ、酔ってたりする?」

 甘えた口調でだらけて見せると、頭の上に呆れたような溜息が一つ零れた。そして、微睡みの中に落ちそうになっている意識を、少し低く柔らかい声が引き上げる。細く目を開けると、ヨシュアが椅子の肘掛けに体を預けるようにして身を乗り出してエリィの顔を覗き込んでいる。
 間近で見るヨシュアの顔はやはり際立って整っている様に見えた。白い肌に長いまつ毛。アーモンド形の瞳にすっと通った鼻。そして金髪に菫色の瞳。色彩的にはエリィとあまり変わらないと言うのに、エリィとは違って無駄にキラキラして見える。その中にも男としての大人っぽい色気もあって、直視していると何となくむず痒い気分にさせられた。

「えいっ」

 右手を伸ばして、ヨシュアの顔を軽く張り手して押し退けると、彼は一瞬キョトンとした後、肩をすくめてパッと相好を崩した。

「元気じゃん、エリィ」
「うん、眠いから早く帰りたい」
「仕方ないなぁ、もう。僕は馬車手配してくるから、エリィはフィリオ―ル様にちゃんと挨拶してよ?」
「うん~じゃあ着替える。あ……ヨシュア、ドレスは?」
「……僕が持ってると思う?」
「お持ちしております。馬車も外で待たせてありますので」

 その声に振り返れば、シャロムが当然と言った表情でエリィのドレスを数着抱えて立っていた。その後ろにはケイトがにこやかに控えている。急に滞在することになったエリィの為に、朝一番で駆けつけてくれたらしい。
 
「いい仕事してるわ、シャロム、ケイト」
「おほめに預かり光栄です」
「お嬢様、すぐに朝のお支度にとりかかりましょう?」
「ええ。お願いね、ケイト」
「ヨシュア様、シャロムさん。お嬢様のお着替えをさせて頂きますので、退出をお願い致します」

 受け取ったドレスを寝台の上に並べると、ケイトはシャロムの背中を押す様にしてヨシュア達を部屋の外へと押し出していった。
 





 
「白鷺の塔に?」

 思わず声を上げてしまったエリィにヨシュアは怪訝そうに眉をひそめた。侯爵家の屋敷に戻って来てホッとしたと同時に、やはりというかエリィは熱を出してしまった。問答無用と言った感じで寝台に放り込まれて、エリィが読書で退屈を紛らわせていた時である。ヨシュアとノエルが連れだってやって来て、今からヴィスタの招待で城へ行く事になったとエリィに告げた。なんでもノエルに塔の上から国を見せてこの国を知ってもらうとか息巻いていると言う話だった。その行く塔と言うのが白鷺の塔で、ヨシュアもエリィも一緒にどうぞと招待があったらしい。ノエル宛の手紙ではあったが、そこにヨシュアとエリィも誘って来いと言うのは、どう見ても目当てはエリィである。
 出禁になってからと言う物、ヴィスタからの手紙は全てヨハンを通すことになっていた。エリィを個人的に誘う様な手紙は全てヨハンの所で握りつぶされていたと言っても過言ではない。そこへ公爵家に滞在する事になったノエルはヴィスタにとってはいい駒なのだ。流石のヨハンも隣国王族への手紙を改めることはできない。そこを狙っての招待である。
 ただ、運が悪かったのは、エリィが帰宅早々熱を出してしまった事という事か。

「もしかして行きたかった?」
「……行きたかったわ」

 憮然とした表情で答えるエリィにヨシュアは意外そうな顔をして尋ねた。普段はヴィスタからの誘いなどにべもなく断るエリィが行きたいという事自体稀だからだ。しかも、祭りでもなんでもなく、城である。場所も特筆すべき場所ではなく、今までに何度か行ったこともある場所だからだ。

「ああ……そっか。エリィ高い場所好きだもんね」
「なによ、悪い?」

 実際の所、エリィは細工される前の柵を確認したいという気持ちが一番強かったのだが、高い所が好きなのは否定しないで置く。もちろん、事実だからだ。前世ではできなかったム○カごっこが出来るほどの場所は城の塔ぐらいしかないのだから仕方が無い。

「エリィは高い所が好きなんだ?」
「うん。人がゴミのように見えるわよね」

 ノエルの問いにニッコリ笑って答えると、横でヨシュアがブッと吹き出した。昔、初めて白鷺の塔に上った時、おもむろにムスカごっこをしたエリィを思い出しているのであろう。当時10歳のエリィは子供だから許されるごっこ遊びに夢中だったのは否めない。前世では病院で一生を終えたエリィは遊びに対して貪欲だったのだ。ム○カごっこぐらいは目を瞑っても良い筈だ。
 当時既にヨシュアはご学友となる事が決まっていた。それ故にヴィスタの遊び相手としてヨシュアが城に上がるとき、エリィも体調が良ければついて行き、よく3人で遊んだのはエリィにとっても楽しい思い出の一つだ。
 ヴィスタは勇者、エリィは悪の帝王、そしてヨシュアはお姫様。もちろん、派手に体を動かすことのできないエリィは、主に悪役っぽい台詞を言ってるだけだった。そして、いくら勇者役と言えども、エリィの体調を慮ってか攻撃など一切できぬ勇者ヴィスタは、いつもエリィにその理不尽さを怒鳴り散らしていた。結局、何故かお姫様が帝王を守るために勇者と一騎打ちと言う訳の分からない設定になり、攫われた姫を助ける筈が、勇者が姫を倒す話になるのだ。本末転倒も甚だしい。その時の事をヴィスタも楽しい思い出として残しているのかもしれない。

「いいなぁ。懐かしいなぁ、白鷺の塔」
「そんなに好きな場所なんだ?」
「ええ。体調のいい日はよくヨシュアと殿下と3人で遊んだのよ?」
「そっか、ヴィスタ殿下と思い出の場所かぁ」
「そうね、あの頃はとっても楽しかったわ」

 エリィが思い出したようにクスクスと笑うと、ノエルもつられたようにニコニコと笑う。ヨシュアはと言えば、ニコニコと言うよりは苦笑をしている。あの勇者と悪の帝王、お姫様のごっこ遊びを思い出しているであろうことは容易く想像が出来た。

「まぁ、残念だけどエリィは留守番だね」
「はぁ……退屈だわ」
「じゃ、お詫びに帰りに町によってお土産でも買ってくるかな。何が欲しい?君が望むものなら何でもいいよ」
「本当に?」
「ノエル殿下、またエリィを甘やかして……」

 仕方ないなぁと言った様子でノエルが言えば、ヨシュアは顔をしかめ、エリィはこれ幸いと言った調子で顔を輝かせた。ヨシュアが難色を示すも、エリィはどこ吹く風である。

「お土産ぐらいいいじゃないか。俺達は出かけてしまうんだし、それぐらいはね?」
「そうよ。なんならヨシュアも買ってきてくれて構わないのよ?」

 ウインクしながら優しくエリィに微笑むノエルに便乗するように、エリィもまたヨシュアにウインクをしてみせる。するとヨシュアは2人の顔を交互に見比べるようにした後、呆れたように長い溜息をついた。

「……もう、わかったよ。僕も買ってくる」

 降参と言った感じでヨシュアが両手を軽く上げて肩をすくめて見せれば、ノエルとエリィは顔を見合わせて破顔した。2人の息のあった様を見れば、ヨシュアはますます呆れたような表情になる。

「仲、いいね」
「親友ですもの。ね?」
「もちろん」

 そう言ってノエルとエリィは再び顔を見合わせて笑う。
 ヨシュアから見れば、ノエルはこの屋敷に来てからまだ1カ月もたっていない新参者だ。しかも男性であり、隣国の王族だ。そんな彼が女性であるエリィと親友だと言うのは、いくら事前にその名を聞いたことがあったからとしても理解がしがたいようだった。

「それじゃ、ノエル殿下。そろそろ参りましょう」

 再び短く嘆息すると、ヨシュアは手にしていた上着をサッと羽織った。それに続くようにしてノエルも上着を羽織ると、肩を少し回しながら襟を正す。そして、また後でと言って2人して退室した。



 結局、その日ヨシュアとノエルは屋敷には戻ってこなかった。ドリエン公爵の夜会にヴィスタと急きょ出席することになったとの連絡があったが、エリィもまた2人が外出した後体調が悪化して一晩寝込むことになったのである。









 
 迎えに来たフィリオ―ルの手を取り、馬車に乗り込む。今日のフィリオ―ルは落ち着いた深いグリーンの夜会服に身を包んでいた。対するエリィは裾に向かってスカートがふわっと広がるAラインのドレスで、薄いイエローが裾に行くにしたがってパステルグリーンへと変化しているグラデーションの綺麗な布地で作られている。左腰部分には白い花を模した飾りがまるで小さなブーケの様についていて、裾に向かって流れている。首元にはシンプルなダイヤのネックレスが輝き、髪には腰についているものと同じ清廉な感じの花飾りがエリィの髪を優しく彩った。
 
 フィリオ―ルの家で行われる夜会は週末の2月24日。つまり、エリィにとっては昨日の前日である。今日はこの夜会に出席するために、エリィは学園を欠席までして備えていた。体調を考えると両立させるのは難しかったからだ。

「体調はどうかな?」
「学園をお休みさせて頂いたおかげで、問題はなさそうです。ご心配おかけして申し訳ありませんわ」

 馬車が走り始めるとすぐに、フィリオ―ルはエリィの体調を気にした様子を見せた。体力を温存するためと推察はしていただろうに、学園を欠席したエリィを心配していると言った様子だ。そんなフィリオ―ルの心配を払拭すべく、エリィはにこやかに彼に笑いかける。するとフィリオ―ルは安堵した様に微笑み返し、そのあと椅子の端に置いてあった鞄をおもむろに引き寄せ、中をごそごそと探る。

「学園の鞄、ですわね?何かありました?」

 夜会の準備の為に一度帰宅している筈のフィリオ―ルが学園の鞄を持ってきている事に違和感を覚えて、エリィは首をかしげながら尋ねる。フィリオ―ルは目的の物をすぐに見つけたようで、穏やかに微笑みながらそれを膝の上に乗せた。

「僕の屋敷まではまだあるからね。到着までの間、今日の授業の補習をしよう」
「え?」
「無理を言ってしまって学園を休ませてしまったしね。責任は持つさ」
「こっ……」

 ここまで来て勉強か!なんてツッコミをエリィは慌てて喉の奥に引っ込めて、エリィはひきつった笑いを浮かべる。そんなエリィの心情に全く気付くこともなく、フィリオ―ルは嬉々として教科書を広げてエリィの方に向けて見せた。

「フィリオ―ル様、お気持ちは嬉しいのですけど……」
「……あ、すまない。余計なお世話だったかな」

 少しだけ落胆した様に瞳が陰るのを見て、エリィは慌てて否定の言葉を口にする。フィリオ―ルはあくまで好意でやっているに過ぎないのに文句など言ったら罰が当たる。ただ、想像してみてほしい。揺れる乗り物に乗りながら文字を追うとどうなるか。

「いいえ、本当にお気持ちは嬉しいのです。ただ……」
「ただ?」
「私、馬車の中で本を読んだりすると気分が悪くなってしまいますの」
「ああ、馬車酔いか。すまない、気が回らなくて」
「申し訳ありません。こればかりはどうにも」
「いいや、無理を言ってしまってすまなかった。どうも僕は気遣いが足りなくていけないね」

 しょんぼりとした様子のフィリオ―ルは、いつもの凛として背筋をピンと伸ばした雰囲気が微塵もない。その様子に戸惑いながらも、教科書を鞄にしまう彼の様子を窺い見る。何故だか、フィリオ―ルはとても緊張した面持ちをしていた。
 しばらくの間沈黙が続いたまま、馬車が地面につける轍の音を聞く。窓の外はすっかり闇に包まれていて、馬車の明かりをもってしても遠くまで見通すことが出来ない。普段なら何かしら話題を振ってくれるフィリオ―ルもぼんやりと外を眺めていた。

「どうかいたしました?」
「え、あ、何が、かな?」
「いえ。私の気のせい、かもしれません」

 エリィの突然の問いかけに、フィリオ―ルの挙動不審さはなりを潜めず、視線もどこか安定せずに宙を泳いでいた。2人でいることに緊張しているのかとも思ったが、今までにも2人きりで話したことなど何度でもある。それこそ子供の頃から、だ。だからこそ、いつも落ち着き払った彼の落ち着きなさが気になるのだ。

「……話をしてもいいだろうか」

 かなりの間をおいて、エリィの戸惑いに気付いたのか、フィリオ―ルは覚悟を決めたように口を開いた。その声はいつもよりずっと硬い。エリィは訝しく思いながらも静かに頷く。すると彼は膝の上でギュッとこぶしを握って背筋をピンと伸ばし、エリィを真っ直ぐに見た。

「本来なら、宰相殿から許可をいただくまでは待っているべきだと思う。だが、このままならずっと何も動かない気がしている」
「ええっと……はい」

 何の話をしているのかがさっぱり理解できず、取りあえずエリィは頷いてみる。相変わらずフィリオ―ルの声も顔も硬い。

「僕との婚約を前向きに考えてもらえないだろうか」
「……」
「君は殿下に対していつも二言目には死する命だと言って拒絶する。君が言うのならそうかもしれない。だが、例えそうだとしても僕は君と同じ時を過ごしたい」

 突然の、プロポーズともとれるフィリオ―ルの言葉に、エリィは何も言えず視線を反らした。余りにも真剣過ぎるその言葉に、返す言葉が見つからなかったのだ。ヴィスタでさえも、死ぬから放っておいてくれと言えば言葉に詰まって話を終わらせることが出来たと言うのに、フィリオ―ルは最初からその手を封じてきたのだ。『死ぬから』と言うのを体の良い言い訳に使っていたことをフィリオ―ルはよくわかっていたのだ。だがエリィは忘れている事がある。ヴィスタがその言葉で引くのはいつも、初対面の時の自分の言葉を後悔していたからなのである。その負い目が無いフィリオ―ルが、その言葉だけで引く可能性はとても低い。

「む、無理です」
「ヴィスタ殿下との婚約を解消した今、無理な話ではないと僕は思っている」
「いつ死ぬかもわからない者を婚約者に据えるなど、公爵家としてあり得ません」
「君がいいんだ」
「公爵様もお許しになるはずはありません。フィリオ―ル様は公爵家継嗣です。相応しいご令嬢を迎えるべきですわ」
「父も母も、君なら喜んで迎えてくれる」
「公爵家にはディレスタの後見など必要ないではないですか」
「もちろんだ。僕は君が居てくれるだけでいい
「ディレスタの後見が必要ないならば、その婚約は無意味ですわ」

 吐き捨てる様にエリィが言えば、フィリオ―ルは一瞬、酷く傷ついたように瞠目して目を伏せた。婚約と言う話題から逃げたくて、思わず言ってしまった言葉にエリィ自身も呆然として口元を押さえた。フィリオ―ルに声を荒げたことなど、一度もなかった。なのに、どうしてわかってくれないんだと言う気持ちが棘となってつい口から出てしまった。

「……手酷いな。僕の気持ちは認めてもらえないのか」

 ポツリとフィルオールが自嘲気味に呟いた言葉に、エリィは耐えきれないように固く目を閉じて俯いた。彼を傷つけてしまった事に、浅はかにも自分自身も傷ついている。その事実を認めがたかった。
 再び馬車の中は車輪の音と馬の蹄の音が響くのみの沈黙に包まれた。エリィはずっと俯いたまま顔を上げず、フィリオ―ルはもたれ掛かる様に窓の外へと視線を投げたままだった。身じろぎ一つとっても、その場には酷く不釣り合いに思えて、じっと動かずにお互いに視線を合わせようともしない。華やかな夜会に向かう馬車の中とは思えない程、剣呑とした雰囲気に飲まれたように、ただただ馬車が目的地に着くのを待ったのだった。


 しばらくして、馬車がその速度を落とし、ゆっくりと公爵家のエントランス前に止まった。フィリオ―ルは先に馬車を下りると、足元を気を付けてとエリィに手を貸して下ろす。フィリオ―ルはそのまま、まるで何事もなかったように微笑みながらエリィに腕を貸し、優雅にエスコートをしながらエントランスを歩いた。対してエリィは気まずさを引きずったまま浮かない顔で俯きながら歩く。そんなエリィをフィリールはチラリと見て小さく嘆息すると、彼女の耳に口を寄せた。

「顔を上げて、背筋を伸ばして笑うんだ」

 囁くように彼がそう言えば、エリィは驚いた様にフィリオ―ルの顔を見た。そのポカンとしたエリィの顔がおかしかったのか、フィリオ―ルは口元を隠す様に拳を当てると表情をやわらげて見せた。

「君は余り夜会に参加しないから気にしてないかもしれないが、ここは伏魔殿なのだよ。気乗りしなくとも笑うんだ。僕もいつもそうしている」
「……」
「そんな顔をさせてしまった僕が言うのもおかしいけどね」

 苦笑してみせるフィリオ―ルは先程エリィが言った事など微塵も気にしていない様子だった。それも人目があるから、という事なのだろうか。いつもと同じ固くて柔らかい言葉、いつもと同じ凛とした態度、いつもと同じ意志を感じさせる強い瞳。これが彼の弱みを見せないための虚勢であると言うならば、あの馬車の中での彼は確かに彼の本心だったのではないだろうか。

「いや、夜会に向かうと分かっているのに話した僕が愚かだった」
「そんな……私が、悪いのです」
「ヴィスタ殿下と君が会う前に話しておきたかったと言うのは、僕の我が儘だ」
「殿下?」
「殿下は君を諦めていない。また手が届かなくなる前に、と思ってね」

 眉尻を下げてふわりと笑うフィリオ―ルのちょっとだけ頼りなげな笑顔は、今までのどんな彼よりも彼らしく思えた。フィリオ―ルは腕に添えられたエリィの手を勇気づける様に優しくポンポンと叩いてさらに言葉を重ねる。

「今日の夜会は婚約を解消してから初めての夜会だ。殿下が未だ望まれてるとは言え、君の立場は微妙なものとなるだろう。だからこそ顔を下げてはいけないよ」
「フィリオ―ル様……」
「それに……」

 そこまで言うとフィリオ―ルは迷うようにして口を噤んだ。そして顎に手を当てて、数秒瞳を伏せると、踏ん切りがついた様に再び口を開いた。

「警備は万全にしているから、そこまで心配する必要はないかもしれないが……。殿下の婚約者に血族の娘を据えたい者達にとって、殿下に未だ望まれる君は、今一番排除したい存在だという事を自覚した方がいい」
「……」
「だからこそ、弱みは見せないように振る舞うべきだと思う」
「わ、わかりましたわ」

 排除したい存在と言う言い回しを聞き、その言葉の示唆する事にエリィの顔は血の気を失った様に青くなった。今までは、ヴィスタの婚約者と言う身分があったために大ぴらに狙われるようなことなど無かったし、その身分のお蔭である程度の邪な考えを押さえられていたのだ。その身分が無くなった今、エリィはただの邪魔な令嬢であるのは否めない。

「ずるい提案をしてもいいだろうか」
「はい?」
「君の安全を確保するためには2つ方法がある」
「そう、なのですか?」
「一つ目は常に殿下と再び婚約することだ。以前と同じ状態に戻り、君の地盤は安定するだろう」
「それは、いくらなんでも……」
「ああ、わかっているよ。もう一つを説明させて欲しい」
「ええ」
「僕と婚約する事、だ。我が公爵家ならば殿下がその婚約に口を挟むことが出来ない程度には力がある。つまりは、王太子妃になりえない君を排除する理由がなくなる、という事だよ」

 単純明快と言った調子でフィリオ―ルが言えば、エリィは戸惑った様に口を閉じた。つい先程馬車の中で、フィリオ―ルを傷つけてまで彼との婚約を拒絶したと言うのに、彼は事もなげに再びそれを提示してきた。その意味合いも先程とはかなり違っている。馬車の中でのフィリオ―ルはエリィの気持ちを乞うた。が、今の彼はただただ”自分との婚約を利用しろ”と言っているのだ。

「そんな真似できませ……」
「まだ言わないで欲しい。答えは急がない。僕はいつでも待っている」

 とんでもないと言った様子で断ろうとしたエリイの唇をフィリオ―ルはそっと人差し指を押し当てた。そして少しだけ寂しそうな顔でフィリオ―ルは微笑む。その表情を見てしまえば、エリィはそれ以上言葉を重ねることが出来なかった。

「まだチャンスはある。そう、思わせて欲しい」

 フィリオ―ルのその言葉に、エリィは頷くことも、首を振ることも出来なかった。




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