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20. 笑顔と無表情

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 フィリオ―ルに連れられてホールに足を踏み入れれば、既に招待客で溢れかえっていた。色とりどりのドレスや夜会服であふれかえり、軽やかな音楽が流れ、華やかな雰囲気に包まれていた。エリィはみっともなくない程度にゆっくりとホールを見渡してヴィスタの姿を探してみるが、どうやらまだ到着していないようであった。

「殿下はまだいらしてないみたいだね」

 同じようにヴィスタを探していたらしいフィリオ―ルにもその姿は見つけ出せなかったようだった。仕方ないなと嘆息して、なんとなく2人で顔を見合わせて笑う。夜会が始まって居ると言うのに、呼び出した本人が居ないと言うのもおかしい話だった。ただでさえヴィスタは王子と言う身分がある。夜会に登場してからしばらくは挨拶の為に権力者たちが集まって中々解放されないのだ。一体どれだけの時間を待つ事になるのかと考えて、嘆息してしまうのは仕方が無い事であろう。いくら王子だからと言っても、気を使うぐらいしてくれても良いのにとエリィは嘆息しながら独り言ちた。体調の事もあって、エリィが夜会を最初から最後まで居ると言うのは非常に難しい。臣下の立場であるエリィが王族よりも前に来ているのは当たり前と言えば当たり前の事ではあるのだが、何となく理不尽に思ってしまうのは仕方のない事だろう。

 フィリオ―ルの両親に挨拶を終え、フィリオ―ルと2人で目ぼしい貴族に挨拶周りをする。フィリオ―ルに促されるまま、意味ありげな視線や遠まわしな物言いをやんわりと誤魔化して話を終える。元々フィリオ―ルのエスコートを良い様に誤解してくればと言う目論見があったとはいえ、先程の彼とのやり取りの手前、今はそれがとても酷いことに感じて後ろめたい。良心が咎めるのに目を瞑りながら、それを幾人か繰り返す。そうしてる内に段々と、エリィは緊張のあまり疲れを感じ始めている自分に気がついた。

 元々夜会にはあまり参加しないエリィは挨拶回りにも慣れておらず、たとえどんなに相手がいい人であろうとも、親しくない者と話すこと自体が予想以上に負担となっていた。今更ながら”どんな人付き合いだって疲れるよ。当然だろ?”と言ったヨシュアの台詞が身に染みる。セシルやヨシュアと参加した時はいつも、ディレスタ家として2人のどちらかが挨拶をしてくれるので、エリィは自分の名前を名乗る時以外は作り笑いを浮かべて黙っているだけで良かった。それがどんなに過保護であったのかと言うのが身を持って分かったのだ。それでも、フィリオ―ルは話のほとんどを引き受けていたし、エリィが答え辛い話題などはやんわりと話題を変えたり話を切り上げてくれたのだから、贅沢は言えなかった。

「少し休憩しよう」

 フィリオニールがそう提案すると、エリィはホッとした様に胸を撫で下ろした。招待客の波を縫うようにして、フィリオ―ルに手を引かれ、ホール隅の長椅子まで移動する。少しだけふらついた足で長椅子に近づくと、エリィは気を抜かないようにそっと腰を掛けた。気分的にはドスンと座ってしまいたい位気疲れをしていたのだが、誰の目に入る変わらない今、令嬢らしくない所作は控えねばならない。

「疲れたみたいだね。……ああ、君。果実水をこちらに頼む」

 トレイを持って飲み物を配っているお仕着せを来た男性を捕まえ、フィリオ―ルが命じると、男は折り目正しく一礼してエリィに果実水を差し出した。それをゆったりとした動作で受け取ると、引き寄せ、一口含む。甘酸っぱい杏の果実水が乾いた喉をじんわりと潤す。そうして彼女が小さくついた溜息を拾い、フィリオ―ルは目を細めて笑った。

「慣れない場所は疲れたみたいだね」
「ええ。場所、と言うより人付き合いに、なのかしら。ヨシュアも”人付き合いは疲れる”ってこの間こぼしていましたわ」
「ヨシュアが愚痴を?想像つかないね。彼は何も言わずに、何でもそつなくこなすから、感情が読みにくい」
「え?」

 長椅子横の壁にもたれ掛かり、ワイングラスを傾けながら、フィリオ―ルは華やかなホールの中心の方を眺めてそう言った。その言葉にエリィは驚いてフィリオ―ルの顔を怪訝そうに窺った。

「僕は感心しているんだよ。社交術において、今の僕らの年代で彼の右に出る者はいないんじゃないかな。いつも無表情・・・でのらりくらり。その本心を誤魔化すやり方は、やはり宰相殿の血を感じさせるよ」
「そうでしょうか?父様は無表情も多いですが、ヨシュアは笑顔が多いでしょう?」
「おや、君はわかってなかったのか。宰相殿もヨシュアも無表情この上ないと思うよ。ただ、その表面を真顔で覆っているか、笑顔で覆っているかの違いだろう?」

 フィリオ―ルに指摘されて、エリィは考え込んだ。しかしやはり、フィリオ―ルのヨシュアへの評価が納得が出来ない。エリィから見ればヨシュアは、確かに怒るという事は少なかったかもしれないが、感情豊かにしか見えないのだ。
 エリィが相変わらず首を傾げていると、フィリオ―ルは珍しく楽しそうに声を出して笑った。そしてエリィに自分の眉間をトントンと叩いて見せる。その動作で気付き、エリィは急いで己の眉間を指先で隠し、伸ばす様にして数回揉んた。

「まぁ、僕としては宰相殿より、ヨシュアの方が怖いと思うよ」
「ヨシュアが?ありえませんわ」

 笑顔で言うフィリオ―ルに、エリィはくすくすと笑って返す。そんな彼女に向けたフィリオ―ルの笑顔は片眉を少しだけ上げた挑戦的な笑顔だった。

「ほら、ヨシュアが来たようだね。ここからよく見てごらん」

 エリィを促す様にしてフィリオ―ルはホールの入り口の方へとチラリと視線を流した。エリィがそちらに目を向けると、さっそくと言っていい程、色とりどりのドレスに身を包んだ令嬢たちがヨシュアの方へとゆっくり移動している。その令嬢たちに色気たっぷりの笑顔を向けながら、ヨシュアは公爵の元へと真っ直ぐに向かって頭を垂れた。
 優雅な笑みを湛えたまま、次々に有力貴族やその子女の元を訪れて歓談していく様は貴族の鑑と言っても差支えが無い。非の打ちどころが見当たらない貴公子ぶりは、同じディレスタ家の者としてエリィも鼻が高い。

「にこやかですし、貴族として優れた所作だと思いますわ。身内びいきかもしれませんが、非の打ち所がないとまで思えます」
「そう、非の打ち所がない」
「何か問題でも?」
「僕たちの年代で、あそこまで完璧にこなすこと自体が異常、とは思わないかな?」
「そう、かしら?」
「僕は時に、彼がとても恐ろしく感じるよ。考えが読めないからね」
「そんな大げさですわ」

 くすくすとエリィが笑うと、フィリオ―ルは困ったような笑顔を浮かべながら肩をすくめる。確かに夜会でのヨシュアは、笑顔のままが多いとエリィは思う。しかしながら、エリィや家族の前では機嫌を損ねたり、元気が無くなったり、悲しんだりと色々な表情を見せているのだ。外面だけは完璧に守っているのは、むしろ褒めるべきことである。こんな社交の場まで喜怒哀楽激しく振る舞われたら、ディレスタ家の社交担当など、出来はしないのだから。

「ああ、もう一つ言うなら」

 フィリオ―ルが思い出したように、もう一度ヨシュアの方を一瞥して口角を上げて見せる。

「彼は、君達家族や殿下の前では無表情・・・の表面を表情豊かという皮・・・・・・・・で覆っているのに気付いているかい?」
「……流石にそれは考え過ぎかと思いますわ」
「まぁ、そう言う事にしておいても良いんだけれどね。君は無表情のヨシュアを見たことがあるかい?ふとした時、誰しも無表情の時間がある。だが不思議な事に、僕は無表情の彼だけは一度も見たことが無いんだよ」

 何が彼をそうさせているんだろうね。と、フィリオ―ルはそう言って話を締めくくった。その言葉をエリィは反芻するように考え込む。

 ヨシュアは初めて会った時から感情豊かな子であった。大きな声で笑い、悪戯をし、怒られては泣き、反発して拗ねてみたり。気に入らない時は地団太を踏むと言った調子で周りに当たり散らすこともあった。よくよく考えれば何時からだろう、そう言う風に激しい感情を表す事が無くなったのは。いつからだろう、彼が声を出して笑わなくなったのは。
 だが、そこでふと思い出す。確かに激しい感情の動きを見せなくなってはいたが、つい最近、感情をあらわにするヨシュアを見たような気がするのだ。

「確かに無表情は無いですけど、私はヨシュアが声を荒げて怒る所や赤くなって椅子から転げ落ちるところも見てますわよ?あれが表面上だけの物とは到底思えませんわ」
「……彼が、声を荒げて?……赤くなって椅子から転げ落ちる?」

 信じがたいものを聞いたような表情でフィリオ―ルは確認するようにエリィに尋ねて見せる。それにエリィは静かに頷き返した。毒薬を貰ったあの日、確かにヨシュアは珍しく声を荒げていたし、一緒に月を見た日は確かに椅子から転げ落ちている。あれが表面上だけの物だとしたら、誰の表情も上っ面だけのものになってしまうとさえ思える。

「ふむ……彼女は特別・・・・・という事か」

 まるで独り言のように、フィリオ―ルはヨシュアを流し目で見ながら呟く。その声は小さく、エリィの耳には届かなかった。が、なにやら呟いていたのだけ見えて、エリィは不思議そうに首を傾げてフィリオ―ルを見た。

「どうかなさいました?」
「いや、何でも。……そろそろ、踊るかい?」
「躍らせるわけが無いだろう」

 エリィに向かって伸ばされたフィリオ―ルの手を、突然現れた青年がペチンと払い落とす。その無礼な態度に視線を上げてみれば、何となく見たことがある、何故か地味な青年が立っている。その青年を見た途端、フィリオ―ルは口元に拳を当てながら、肩を震わせて笑った。

「待たせたなフィリオ―ル。役目、ご苦労だった。下がっていいぞ」
「殿下、何ですかその恰好は」

 予想外の格好で現れたヴィスタは、着ている物こそ上質の夜会服ではあったが所々着崩れていて、髪はボサボサ、その髪色はいつもと違う赤毛になっている。そしてそのボサボサの髪で顔の半分が微妙に隠れて居る為、近くでよく見なければヴィスタだと気づくものはそうそう居ないであろう。

「お前たち、忘れていると思うが。私は公式の場への出席禁止3カ月の期間中の身だ。社交の場などもっての外だ」

 酷く不本意そうな声でヴィスタが言えば、フィリオ―ルが相好を崩して再び笑う。余程ヴィスタの格好がツボだったとしか言いようがない。

「あら、でも殿下は昨日もドリエン公爵の夜会に参加し……」
「ドリエン公爵?参加の予定などないぞ。昨日学園から戻った後は、ヨハンに執務室に閉じ込められていたからな」
「ドリエン公爵の夜会は明日ではないかな?私の所にも招待状が来ていたからね」
「あれ?あ、そうですわね」
「ふむ……明日、か」

 混乱気味の頭を落ち着いて整理させれば、エリィの昨日が今から見れば明日になる事に気が付く。マズイ事を言ったかもしれないと、ヴィスタとフィリオ―ルを窺い見れば、2人ともさほど気にした様子もなく頷いている。

「ならば、この鬘は捨てずに明日に備えて保管しておこう」
「え?」
「リズが言うのだからそうなるのだろう?」
「殿下、残念ながら当家はヴィンランド侯爵との会食の為、既に断りを入れてしまっています。供はヨシュアでお願い致します」
「ああ、後で話しておくか」
「あ、あのお2人とも?変なことを言ってしまったのに驚かないのですか?」
「なぜ?先見だろう?」

 まるで当然のように返されて、エリィの方が慌ててしまう。どうやらセシルやシャロムの言っていた”先見の姫”などという二つ名は、ヴィスタもフィリオ―ルも知る所であったらしい。考えてみればヴィスタには出会った時からノエルの名を口にしていたし、フィリオ―ルの母親を亡くす原因を消したのもエリィだ。この2人が知らないわけが無かったと、ガックリと肩を落とした。

「そう、ですわね」
「取りあえず、リズ。少しバルコニーに出て話をしないか?」

 そう言ってヴィスタがエリィに向かって手を差し出せば、フィリオ―ルは少しだけ眉をひそめた。それも仕方が無い事だろう。基本、バルコニーで異性と2人で話すという事は恋人同士の関係であると噂されてもおかしくはない。それを知ってか知らずか、ヴィスタはエリィに向かって提案しているのである。
 エリィは戸惑った様に視線を下げたまま顎に指先を置き、逡巡する。ここでヴィスタの提案を拒否するのは簡単だ。拒否すればヴィスタも無理強いはしないであろうし、フィリオ―ルも助け舟を出してくれるだろう。だが、バルコニーに出て2人きりになれば話せる話がある、と思ったのだ。”先見の姫”などと嬉しくもない二つ名があれば、ヴィスタに注意を促すことが出来るのではないかと、エリィは考えた。
 ならば、フィリオ―ルも一緒に、とも思った所でふとティティーの言葉がよみがえる。

――そんな簡単に信用していいのかニャ?

 あの時エリィは”信じていい”と即答した。だが、その判断が間違っていたら確実にヴィスタを死に追い込むことに、ひいてはディレスタ家を追い込むことになりはしないか。そう思うと気軽にフィリオ―ルをも連れだって話すことが正しい事なのかがわからなくなる。

 結局エリィは、フィリオ―ルを連れ立って行くことは諦め、ヴィスタの手を取った。その瞬間、フィリオ―ルの顔が少しだけ歪んだのに気づき、後ろめたさがエリィを苛む。

「フィリオ―ル様、どうしても殿下と2人お話したいことがあるのです。申し訳ありませんが少しの間お待ち頂いてもよろしいでしょうか」
「……ああ、もちろんだ。君が望むなら」

 あくまで話があるからという体を前面に出して言えば、フィリオ―ルは苦々しい顔をしながらも頷き、先程までエリィが座っていた長椅子に腰を掛けた。

「あ、それと。フィリオ―ル様にお願いがあります」

 ヴィスタに手を引かれた状態で、エリィはフィリオ―ルを振り返る。するとフィリオ―ルは珍しく気乗りしないと言った様子で、エリィの顔を見上げた。

「なんだい?」
「今日の夜と3月3日。こちらの公爵家に私を泊めてくださいませんか。2階の南側の客室に」
「リズ、何を言っている。未婚の女性が異性の家に泊まるなどふしだらだろう」
「殿下は少し黙ってください。必要なことですので」

 エリィの手を引っ張りながら抗議するヴィスタをチロリと見た後、エリィはピシャリとした物言いで彼の抗議を却下する。それに困惑気味な視線を向けるのはヴィスタだけではない。もちろんフィリオ―ルもだった。

「……理由を聞いても?」
「殿下にも言いましたが、必要な事なのです。先見の結果です、と言えばわかっていただけますか?」

 時間を飛んでるからなどと荒唐無稽な話を語るつもりは無かった。ただ必要だから。それを認めさせればいいだけである。その為に”先見の姫”という二つ名は酷く都合がよかった。
 
「ならば内密に、と言う形で手配しよう」
「お気遣いして頂き、ありがとうございます。ちなみに、殿下とお話しするのも先見についてですので、殿下も、もう少し配慮して頂けると助かりますわ」

 前半はフィリオ―ルに、後半は微妙に棘を含みつつヴィスタへ言うと、フィリオニールはそこでやっと笑顔を見せた。ヴィスタはと言えば、エリィの言い草に不満気にしつつも、遠まわしに”もっと配慮しろ”と言われたことをバツが悪そうにしている。

「それではフィリオ―ル様、少しの間失礼させていただきます」
「ああ。待っている」

 エリィが腰を少し下げて挨拶をすると、フィリオ―ルも柔らかい顔で頷いた。それにホッと胸を撫で下ろしていると、不満顔のヴィスタがエリィの手を強く引いた。その強引さに引きずられるようにして幾ばくか歩き、エリィは不愉快を隠そうともしない顔で急に立ち止まると、ヴィスタは不服そうに口を曲げてエリィを振り返った。

「話があるのだろう?さっさと向かおう」
「殿下、もう少しゆっくり歩いていただかないと」
「十分ゆっくりだろう」
「私はヒールを履いておりますし、この速度では体が辛いのです。それに目立ちますし……」
「……私と目立つのは嫌か」

 まるで子供の様なヴィスタの表情にボサボサの髪がマッチしていて、エリィは思わずくすりと笑う。するとヴィスタはますます不機嫌な表情を作って見せた。

「先程”もう少し配慮してほしい”とお願いしましたわよね?私の体が辛いのはもちろんの事、殿下は本日お忍びでいらしたのでしょう?目立って困るのは殿下です」
「ああ……」

 エリィに指摘されて初めて気が付いた様に、ヴィスタは小さく声を上げて驚く。そして少し俯いて、恥ずかしそうにその赤毛をガシガシと掻いた。

「そうだな。目立つ事を避けるのも、リズの体を慮るのも必要、だな。すまん」

 そう言ってヴィスタは今度はゆっくりとエリィの歩幅に合わせるようにして歩き始めた。幸いにも、周りの招待客はエリィ達の事をさほど気にも留めていないようで、迷惑そうな視線を少し投げかけただけで直ぐに興味を失った様に反らされた。逆に、少しざわついている入口の方を見やれば、ノエルが到着したようで、貴族の令嬢やら権力者などに囲まれているのが見えた。その横にはいつの間にかヨシュアも移動している。ノエルの世話を任されているディレスタ家だから当然なのであろうが、そのせいで余計に令嬢たちが集っているように見える。
 一瞬、ノエルとヨシュアがエリィに気付き意味ありげな視線を投げて来た。そこでエリィが軽く微笑んで小さく手を振れば、ノエルは直ぐにふんわりとした微笑みを返し、ヨシュアは何か言いたそうな顔で睨む。その視線に苦笑して肩をすくめれば、ヨシュアは仕方が無いなと言った調子でため息を吐くと、わざと令嬢達の気を引くように話しかけていた。

 ヴィスタに手を引かれてバルコニーに出ると、ひんやりとした冷たい風がエリィの頬を撫でる。いや、ひんやりレベルではないだろう。2月も終わりとはいえ、まだ春だと主張するほど暖かくはない。むしろ冬だと主張したいレベルの寒さだった。いくら恋人同士だろうと、こんな寒い夜にのんびりバルコニーでお話でも、何て言う酔狂な人物はいなかったらしい。鍵はかかっていない物の、バルコニーへの扉は閉められ、ヴィスタとエリィ以外の人影は見当たらない。エリィはブルリと体を震えさせると自分の両肩を抱くようにして手の平で二の腕の部分を擦る。これは早々に話を終えなければと決意をした。

「寒いな」
「そう、ですわね?どう考えてみても寒いですわよね?」

 でも、あなたが誘ったんでしょうがという非難を言外に含みつつ、エリィが頷く。もちろん、その話に乗ったエリィもエリィなのだが、この際棚に上げておくとする。エリィもここまで寒いとは思っていなかったのだ。

「取りあえず、これを着ていろ」

 苦笑交じりの物言いで、ヴィスタは上着を脱ぐと、エリィの肩にそっと被せた。エリィの体をすっぽりと包むぐらいの大きめの上着は、ヴィスタの体温で温められ、ほんのりと暖かい。

「殿下が風邪をひいてしまいますわ」
「そこまでヤワじゃない。風邪一つ引いたことが無いのはリズも知っているだろう」
「ですが……」
「渋る暇があるのなら、早目に話したいことを話してしまおう」

 珍しく建設的な意見を言うヴィスタに、エリィは驚いた様に目を丸くした。そんなエリィの表情を見てヴィスタは柔らかく笑ったのだった。


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