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21. よろしい、ならば……

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「私の話から、先でもいいか?」
「え、ええ。もちろんです」
「とは言っても、大した話ではない。これを……っと、そっちだった。リズ、そこのポケットに小箱が入っている。それを渡したかっただけだ」

 ヴィスタが人差し指で指したポケットを探ると、手のひらに乗る程度の小さな箱を見つけて、エリィはそっと取り出す。装飾も何もないシンプルな箱を開ければ、小さな蝶と星型の花、小さな宝石を沢山散りばめたような意匠のイヤーカフが入っていた。ヴィスタのプレゼントとは思えないほどの上品さと可愛さでまとめられた一品に、エリィは思わず息を飲んでイヤーカフを見つめた。

「気にいったか?」
「凄く素敵ですわ。これを私に?」
「ああ。姉上の外商から買い上げた。姉上もこれならリズが喜ぶだろうと言っていたからな」

 一目で気に入ったそれをエリィは指先でなぞる様にして堪能すると、おもむろに箱を閉じてポケットに戻す。欲しい気持ちは山々だったが、いくら何でも高価過ぎると思ったのだ。婚約している時ならまだしも、今ヴィスタとエリィの関係はただのお友達である。貰ういわれが無かった。

「お気持ちだけ頂いておきます。ありがとうございます」
「……まぁ、言うとは思った。だが、受け取ってくれ。理由はある」
「理由を伺ってから、考えます」

 エリィがそう言えば、ヴィスタは短く息を吐いた。そして何やら難しい顔で、重たい口を開く。

「気付いているかとは思うが、リズの今の立場は危うい。婚約解消した今でも、リズは次期王妃候補筆頭のままだ。意味は分かるか?」
「そのお話はフィリオ―ル様からも伺ってます。ですが、その話と箱の中身これがどう関係があるのでしょうか」
「アミュレットだよ、それは。身に着けた者が危機を感じた時にその身を守る魔法を掛けてある」
「そんな高価な物、余計頂けません」
「だめだ。今回ばかりは断るのは許さないよ。……エイリーズ・ディレスタ、これは命令だ。身につけていろ」

 初めて聞くヴィスタの強い言葉に、エリィはビクリとしてその顔を見上げた。その顔は今まで見たこともないほど酷く真面目で、有無を言わさない雰囲気があった。”命令”と言う言葉さえ、ヴィスタが使った事を見たことが無い。その異様な態度にエリィは戸惑いを隠せなかった。

「断ると言うなら、私と再び婚約をしろ」
「それは……」

 ヴィスタの言葉の返答にエリィが言い淀むと、ヴィスタは”だよな”と小さく嘆息して笑った。そして少し肌寒そうに片方の手で二の腕を擦って、視線をバルコニーの外に投げる。その表情はどこか寂し気で、普段のヴィスタからは想像もつかない。 

「それを身に着けるのが最大限の譲歩だ。シャロムが居るから滅多な事は無いと思うが、万が一を考えてだ。それに、これは父上の意向でもある。リズ個人としてではなく、先見の姫の安全は最優先事項だ」
「……恐れ多い事です」
「リズが思ってる以上に、周りはピリピリしているよ。それを考えれば、シャロムを付けたことは得策だった。彼以上に有能な者はそう居ない」

 浮かない表情のまま、エリィがポケットから再び小箱を取り出して両手で包むようにして握ると、ヴィスタは安心した様に目を細めた。その表情がどことなくドヤ顔のように思え、エリィは不機嫌そうに唇を少し尖らせる。ヴィスタの言う事に従わなくてはいけない事が、まるで言い負かされてしまったようで悔しいのだ。

「拗ねるな」
「拗ねておりません」
「素直じゃないな。ソレも意匠が気に入ったのなら黙って受け取ればいいものを」
「もう、この話はお終いに致しましょう。だんだんと寒くなってまいりましたので、次は私の話をさせて頂きます!」

 幾分膨らませた頬を誤魔化す様に、そっぽを向いて見せれば、ヴィスタはさも可笑しいと言った様子で破顔した。

「大事なお話ですので、真面目に聞いてくださいませ」
「聞くのはいいけど、リズ。……抱きしめてもいいか?」
「お断りします」
「上着を貸しているから寒いんだよ。……ん、暖かい」

 エリィの返事も待たず、ヴィスタは彼女の体を後ろから腰に手を回す様にして抱きしめた。そのヴィスタの行動にエリィは身を捩って抵抗しようとしたが、その腕が触れたヴィスタの体がとても冷たい事に気が付いて思わずそのまま硬直する。ヴィスタの体が冷たいのは上着をエリィに貸しているからだと分からない程、エリィも馬鹿ではない。

「意外だな。抵抗しないのか」
「したいのは山々ですが、下手に動いて発作が起きると辛いので。寒いですし、今だけ目を瞑りますから、それ以上変なことはしないでくださいね。絶対ですよ?」
「それは前振りか?」
「違います!」
「私は変なことしたくてたまらないんだが」
「これ以上何かしたら私の意思に関係なく、死にますよ?」
「……ほんとソレ、究極の脅し文句だよ」

 耳元でヴィスタは呆れたように深くため息を吐く。喋る度に耳元にかかる息が何となくこそばゆくて、エリィは眉間に皺を寄せて、迷惑そうな顔を斜め上にあるヴィスタに向けた。するとヴィスタは再びおかしそうな顔で笑うと、自分の親指でぐりぐりとエリィの眉間を揉んだ。

「で、先見の姫が見た物はなんだった?」
「……真剣に聞いてくださいね?」
「もちろん。私だけに話すという事はそれだけ重要な事なんだろ」
「ええ。誰が味方か、誰が敵なのか迄はわからなかったのです。ですから殿下に個人的にお話しさせていただきます」

 体を密着させて話していると言うのに、お互いが真剣な顔でバルコニーの外に視線を投げている。それでも、ヴィスタの体に接している背中はほんのりとお互いの体温で温かさを保ち始めていた。人間って最強の暖房器具かもしれないとエリィは呑気に思考を巡らせる。ただ、主に風にさらされている体の前面は相変わらず寒い。ヴィスタの上着が無ければ耐えきれなかったかもしれない。

「それで?」
「このままだと3月2日に殿下はお亡くなりになります」
「それは随分と衝撃的だな」
「ですよね。私もびっくりしました」

 淡々とした口調でそう言えば、ヴィスタは上半身を少しだけ離すとエリィの方に顔を向けて半眼になる。だが、非難がましいヴィスタのその視線を、エリィはまるっと無視をすることにした。

「冷たい反応だな」
「殿下が亡くなれば、半強制的に私は殉ずることになるのです。なら、悲しんでいる暇があったら生きる努力をするのが当たり前でしょう。自殺願望はありませんから」
「は?我が国に殉死の制度はないぞ?」
「ディレスタ家の安全と引き換えに要求されるのですわ」
「……それは随分と衝撃的だな」
「ですよね。私もびっくりしました」

 先程と同じように返せば、ヴィスタは溜息をまた一つ吐き、エリィの肩に顎を乗せるようにして寄りかかった。俯き加減のヴィスタの表情はエリィからは見えず、考えが読めない。それでもヴィスタにしては珍しく、酷く気落ちしている事がわかる。

「王族は面倒だな。王子などに生まれるのではなかった」
「贅沢です。交代してほしいぐらいですのに」
「そうだな。出来るならそうしたいぐらいだ。置いていかれるぐらいなら置いていく方が良い」
「……死んだりしたら許しませんわ」

 固い声でエリィがそう言えば、ヴィスタは小さく「ああ」と頷いてエリィのお腹に回された腕に力を籠め、エリィの小さな体に縋る様にギュッと抱きしめた。その腕にそっとエリィが手を添えれば、夜風に触れてひんやりとした腕の表面がゆっくりと強張りを解くのがわかる。

「今の所、私がわかるのは殿下が塔の上から落ちてしまうという事だけです。柵に何やら細工がしてあったのです。その時に一緒に居たのは、私とヨシュア、それからノエル。殿下が狙われたのか、それとも殿下が巻き添えだったのかはわかりません」
「ノエル殿下か……」
「何か気になる事でも?」
「隣国の動きがおかしい。間者が数名入り込んでいるのも確認している」
「ノエルが殿下の命を狙ったと?そんなことする人ではないですわ」
「……ノエル殿下は、な。なにせ狙われているのはノエル殿下だ。だとしたら私の死は、隣国の騒動の巻き添えかも知れん」
「なぜノエルが狙われるのです」
「王位継承権を持つ、ただ一人の男子だからだ」
「そんな……」

 そんな馬鹿な、と言いかけて、エリィはそれが決して冗談ではないと気が付いた。ゲームでのノエルが、隣国の王妃から疎まれていたにも関わらず、嫌がらせや、ありえぬ婚約などの厄介払いですんでいたのは、彼女の王位継承権が一番低かったからだ。ノエルが女性である限り、王妃の娘の地位は安泰だ。だが、男性であるならば話は違ってくる。隣国の王妃と王の間にもうけられた男子は居ない。ならば、王唯一の血縁である王妹に男子がある今、必然的にその男子が王位継承権一位になるのだ。王妃が自分の立場と娘の立場を考えた場合、ノエルを生かしておくにはデメリットが大きすぎた。

「内々の話だが、ノエル殿下は1年わが国で修学された後、自国に戻り、即位なさるらしい」
「ノエルはまだ17ですわよ?」
「隣国の王は病気を召されている。それもかなりお悪い。ノエル殿下の成人と同時に退くという話だ」

 ニコニコと穏やかに笑うノエルの顔がエリィの頭の中にちらついた。女性であった時のノエルよりも、男性である今のノエルの方が数倍の重圧や危険に晒されている事になる。それをおくびに出すこともなく、穏やかに過ごし、エリィにも人一倍気を使ってくれる。その嫌味なぐらい性格の良いノエルに歯がゆさを感じた。

「まだ、断定はできないが、隣国の動きも考慮に入れるべきだ」
「……そう、ですわね。ディレスタが追いつめられるのも、そう言う計画だったのか、便乗されたのかもわかりませんし」
「そうだな。気を付けねばならないのは、ディレスタ排斥派の動き、ノエル殿を狙った隣国の動き、そして王子廃嫡派の動き、だな」
「王子廃嫡派?」
「そうだ。いつまでも傀儡になりそうでならない王子を廃嫡して、王女を即位させようとする派閥がある。王子を殺すことによって廃嫡し、ついでにその罪をディレスタに被せれば、罪人であるディレスタ家のセシルと姉上の婚約はなかった物にされる。その後、王女に己の血族の男子を宛がえば終了さ」

 小馬鹿にするような口調でペラペラと話すヴィスタに違和感を覚え、エリィはそこでやっと異常に気が付いた。斜め上の顔を見上げて確認するが、その考えに間違いはなさそうに思える。考えれば考えるほど変なのだ。

「ヴィスタ様」
「名前で呼ぶなど珍しいな」
「騙しましたわね?」
「何の話だ」
「私、よく考えてみたら初めてなのです。こんなに真面目な話をヴィスタ様と話し続けられたのは」
「気のせいじゃないか」
「ヴィスタ様がまともな会話をされるのも初めて聞きました。本当はただ塔に近づかないようにと注意だけにしておこうと思ってたのに、すっかり全部話してしまいましたわ」
「酷いな。いつでもまともだぞ」

 エリィの非難する言葉にもヴィスタは飄々として笑いを含んだ調子で答える。それがエリィの推察が間違っていないと裏付けていた。

「素はどっちなんですか」
「バカの方」
「……殿下はやはり一度死んだ方が良いかもしれませんね」

 バルコニーに出てからと言う物、ヴィスタの行動はいつもと変わらなそうな雰囲気を醸し出しつつも、的確な答えをスッと出してきていた。それ自体が普段のヴィスタからは考えられないのだ。

「それだけまともな頭を持ちながら、馬車であんなことをなさったのは、私を殺したかったんですか」

 睨むようにして言えば、ヴィスタは小さく肩をすくめた。

「あれは、すまなかった。本当に気づかなかった」
「気付かなかったではすみません」
「ああ。私もどうかしていた。……必死だったからな」
「何に必死だったのですか」
「ムラムラして口説くのに?」
「最低ですわね」
「おまけに馬車の外には、何本もの矢じりが私達を歓迎しようと待ち構えていたからな。押し倒して窓から遠ざけなければ、狙ってくださいと言っているような物だろう?まぁ、便乗して口説ければいいかなと」
「……」
「そうでもなければシャロムがすぐさま馬車を止めて、私を放り出していた事だろうよ。先見の姫を守るのは王子の性欲よりも優先だからな」
「なっ……」

 ヴィスタの王子らしからぬ下品な物言いに、エリィが真っ赤になって声を上げると、彼はツボに入った様に声を上げて笑い始めた。エリィの肩に乗せられたヴィスタの顎が、くつくつと笑うたびに揺れる。いつもと違って飄々と語る様はどこまで本気で、どこから嘘なのかが判別しにくかった。

「ではなぜ、シャロムを鞭打ったのです」
「そういう体にしておかねばならなかったからだ。シャロムも了承済みだ」
「理不尽ではありませんか。シャロムは護衛としてちゃんと職務を全うしましたのに」
「そうだな」

 そう言ってヴィスタは口を閉じた。エリィがあえて言わずとも、その理不尽さにヴィスタ自身も思う所があるのだろう。

「なぁ、リズ」
「はい」
「居なくなるのはいつだ?」
「今年中には。エイリーズ・ディレスタが年を越えるところは見たことが無いですわね」
「……それは随分と衝撃的だな」
「ですよね。初めて言いましたし。言うつもりはなかったのですが」

 一際深いため息がエリィの耳をくすぐる。そして少しの間の後、肩に乗っかっていた温かい重みが急に無くなった。体を捩って見上げれば、ヴィスタは感情の抜け落ちたような顔でボーっとベランダの外、庭園にある噴水を眺めている。そんな表情にさせてしまう様な言葉を言ってしまった事にエリィは罪悪感を感じて俯いた。腰に回った冷え切ったヴィスタの腕を再び軽く擦れば、ピクリと驚いたような反応返した。

「ああ、すまない。考え事をしていた」
「いえ」
「そろそろ戻るか?また何時2人になれるかわからないからな。言いたいことがあれば今のうちに聞く」
「なぜ殿下はバ……違う、使えな……いえ、おできにならないフリをしているのですか」
「言ってる事は変わらないのだから言いなおす必要はない」
「世間での殿下の評価は正直最悪ですが、なぜそんなことを?」
「今となっては色々と膿を出したりと活用しているが、そうだな……最初はリズの笑顔が見たかった。それだけだ」
「笑顔?そんなの喜びませんわ。迷惑ですもの」

 エリィがそう言うと、ヴィスタは肩を大げさに揺らして笑った。つられて腰に回されたままの腕も大きく揺れ、結果的にエリィの体をも揺らす。その振動にエリィは不愉快そうに顔をしかめた。

「出会った頃の事、覚えているか?」
「お前、大人になる前に死ぬらしいな、と言われましたわね」
「それは忘れろ。その後の事だ。私はリズの気を引きたくて自分の有能さを大人にも負けないんだと何度も見せようとした」
「そうでした?」
「ああ、使えるものは何でも、大人でも良いように扱ったし、手段を選ばなかった。だが、そうやって有能さを見せようとすればするほど、淡々と執務をこなす様を見せれば見せるほど、リズは嫌そうな顔をしていたよ」
「……」
「なんとなく遠巻きにしながらも嫌悪感丸出し、と言っても過言ではなかったな。その性質を直せと言われたこともあった。そんな中でも、リズを笑わせようとバカな事をすれば、怒った顔をしながらも、仕方が無いなと言った調子でいつも笑ってくれただろう?だから、だよ」

 そこまで聞いて、確かに思い当たる節はあったとエリィは思った。あの頃のエリィはヴィスタをどうしても腹黒にしたくない、ノエルの為にヴィスタの性格を矯正しようと躍起になっていたのだ。だから気づこうとしなかった。エリィから見て例え腹黒そうに見えていようが、冷たく見えていようが、ヴィスタはヴィスタなりに努力をしていたという事を気付いていなかった。そんなエリィにヴィスタは失望することもせずに、ただエリィの笑顔を求め、喜んでくれていたのだ。そのヴィスタの純真さに目を背けていた事をエリィは恥ずかしく思った。

「今では、馬鹿をやっているのが楽しいのもある」
「……殿下にはかないませんね」
「惚れてもいいぞ」
「残念ながら」

 その時ふと、ホールへ続くガラス張りの扉が開けられる音が低く響いた。それを合図にしたように、2人は体を離して向き直る。ヴィスタは再びエリィの手を取ると、そのままホールへと戻るために歩き出した。バルコニーの外に出てきたのは女性で、扉の横に立ち、室内に戻ろうとしているヴィスタ達を意味ありげにじっと見つめていた。その視線に居心地の悪さを感じながらも、気にも留めていない素振りで、2人はその女性の前を通り過ぎる。そうしてヴィスタに扉を開けてもらい、エリィがホールに足を一歩踏み入れた時、不意にその女性が口を開いた。

「次から次にと、はしたないですわね」

 明らかに悪意の籠った刺々しいその言葉に、エリィはビクリと肩を震わせて立ち止まった。ヴィスタはそんなエリィの背中に手を添え、素早く耳元に唇を近づけると、小さく「放っておけ」と囁く。ピクピクしそうなこめかみを宥めつつ、何とか堪えて更に数歩ホール内へと歩みを進めた。だが、そのヴィスタの仕草をも気に障ったのか、その女性は更に言葉を重ねた。

「殿下がダメなら次はその方ですの?それともフィリオ―ル様?血は争えないという事かしら。貴女のお母様も伯爵だけでは満足できずに侯爵まで色目を使ってあっという間に後妻に収まったとか。一体どんな手練手管を使ったのかしら」

 背中を押して無視を促していたヴィスタの手からすり抜けるようにしてエリィは振り返ると、その女性をゆっくりと舐る様に見た。そのすぐ後ろでヴィスタは目立たないように顔を反らしつつ、片手で顔を覆って俯いている。小さくため息をついているのも聞こえてはいたが、いつもは逆の立場なのだからたまには良いだろうとエリィは軽く一瞥しやった。
 明らかにエリィに喧嘩を売っているような口調で話すのは、学園で何度かすれ違った事がある見知った顔だった。彼女はドリエン公爵アニ―ニャ。フィリオ―ルの家と同じぐらい由緒正しい公爵家の令嬢だ。エリィとは特段これと言って交流は無い。その彼女がエリィに絡んでくる理由がわからなかったが、取りあえず売られた喧嘩を買ってみることにしたのだ。


「……ええっと、魅力が足りないから魅力アップの秘訣を知りたい、という事でしょうか?申し訳ありません、特に何もしておりませんのでお力添えすることが出来ませんの」
「なっ……」

 にこやかに微笑んで頬に片手を当てながら、エリィがさも残念そうに首を少しだけ傾げた。すると、アニ―ニャは顔を赤くしてプルプルと体を震わせる。あきらかにすっ呆けた様子のエリィに腹を立てたのだろう。

「そんな事言っていないでしょう!」
「あら、申し訳ございません。私、少し疎くて……はっきり仰っていただかないと分かりませんの」
「貴女みたいなふしだらな女は殿下の婚約者にふさわしくないと言っているのよ」
「おかしいですわね。既に私は殿下との婚約を解消しておりますわ。もう皆さんご存知のお話でしたと思いますが……アニ―ニャ様にはどなたもお知らせ下さらなかったのですね。酷いお話ですわね」
「そんな事、知っておりますわ!とぼけるのも大概になさいませ。殿下がダメなら次はフィリオ―ル様、それがダメならそちらの方?聞きしに勝る厚顔無恥さですわね。心臓に毛でも生えているのかしら」
「あら。毛が生えるぐらい丈夫でしたら、婚約解消は却下されておりましたわ。ご期待に沿えず申し訳ないのですけれど」

 自分でも性格が悪いなと思いつつも、エリィはのらりくらりと相手の言葉の上げ足を取り、あくまでも真摯な姿勢の振りで応対する。そうやって棘が盛りだくさんの言葉に、わざと論点をずらして答える度に、アニ―ニャはどんどん眉を吊り上げ、相対するエリィはあくまでしれっとして笑みを崩さない。そのエリィの後ろでは、相変わらずヴィスタが顔を覆うようにして呆れた視線をエリィに向けていた。

「私をバカになさってるの?」
「そんな。心外ですわ」
「殿下の代わりはいくらでもおりますものね?そんなに男性がお好きな様なら娼婦にでもなったらいいのですわ?さぞご満足されることと思いますわ」
「わが国唯一の王子に代わりがあるなどと、とんでもございませんわ。アニ―ニャ様みたいな革新的なお考え、保守的な私にはとてもとても恐れ多くて……」

 エリィがさらに言い募ろうとすると、アニ―ニャは耐えかねたと言うように、たまたま近くを通った使用人のトレイの上からシャンパングラスを掴むと、それをグラスごとエリィの顔めがけて投げつけた。すぐさまヴィスタがエリィとアニ―ニャの間に入ったために、グラスこそ当たりはしなかったものの、中身はヴィスタのシャツとエリィの頭に降り注ぎ、グラスは床に落ちて派手な音を立てて割れる。その音に、ホール内にいた者は一斉にエリィ達へと視線を向け、にぎやかだった音楽ですら、ピタリと音を止めた。

「さっさと死んでしまえばいいのに!」

 静かになったホールに気付くのが遅れたのか、アニ―ニャのその叫ぶような言葉はシンとしたホールに響き渡った。その言葉に、所々人が動く気配を感じて、エリィはそっと視線を這わせた。ホールの端からはフィリールが珍しく厳しい顔をして歩みだし、ダンスをしていた貴族たちの波の中からはヨシュアが怒りを露わにした顔で足早に人の波を縫う姿が見える。いつも笑顔のノエルでさえ、不愉快だと言う表情を隠そうともせずに、エリィ達の方へと近づこうとしていた。
 そうして、アニ―ニャを煽りすぎた事をエリィが幾分青ざめた顔で反省し始めた時、その水を打ったように静まり返ったホールの中で、ヴィスタが先陣を切る様にして行動を起こした。
 赤毛の鬘のてっぺんに手を当て、ガシガシと掻き毟るような仕草の後、その鬘を勢いよく取った。そしておもむろに左手の手袋を外すと、鬘と一緒に右手に持ち、そのままアニ―ニャの足元に鬘と手袋を叩きつける。そしてニヤリとアニ―ニャに向けて笑い、ヴィスタは口を開いた。




「……よろしい、ならば決闘だ」




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