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38. 立場と気持ちの内側

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 ヨハンが部屋を去り、ケイトに勧められるままスープと少しの果物を取った後、控えめなノックと共にひょっこりとノエルが顔を覗かせた。入室をすすめれば、しきりに周囲を伺いながら入ってくるノエルの挙動不審さに、エリィは小さく首を傾げる。そうしてノエルは音を立てないように静かにドアを閉めると、派手な足音を立てないように気を付けながら小走りにエリィの寝台の側まで来た。

「どう?調子は」

 寝台横の椅子に腰を掛けると、ノエルは精悍な顔をゆっくりと解くように表情を緩める。その温かみのある表情にエリィはホッとした様に微笑みを浮かべた。

「うん、もう大分いいの」
「そうか。それはよかった。……あ、これお見舞い」

 エリィの返事を聞けばノエルはにこやかに頷いて手にしていたリボンで飾られた正方形の箱をエリィの膝の上にちょこんと乗せた。エリィは礼を言ってその箱を引き寄せ、開けてみればふわっと良い匂いが広がる。それはエリィの大好きな匂いだ。

 箱の中を覗けば、そこには真珠よりもいくらか大きいぐらいの、キャンディのように包み紙で包まれたお菓子が入っている。その匂いに誘われるようにエリィは一つ手に取り、包み紙を開いて中身を口に入れた。

「気に入った?」

 思わず満面の笑みを浮かべてしまったエリィを、ノエルは嬉しそうに目を細めて見た。
 舌の上で優しく溶けるほろ苦く甘いそれは、口の中に香りいっぱいに広がった。それは前世ではよく食べていたけれど、この世界ではあまり手に入らない珍しいお菓子だ。

「うん、私チョコレート大好きなの」
「知ってるよ。エリィの好きな物は何だって覚えてる」

 両手を頬に当てたまま、ほんわりと微笑むエリィの反応にノエルもつられて目を細めて笑う。その微笑みはゲームの中で見た女の子ヒロインのノエルとだぶるようで、エリィはとても懐かしく感じた。
 その懐かしさについ嬉しくなって、エリィは箱からもう一つ包みを取り出すと、丸いチョコレートをノエルの口元へ差し出してみる。そうすればノエルは一瞬驚いたような顔をした後、少し照れたように赤くなって軽く唇ではさんでチョコレートを咥えて受け取ってから、口の中へと入れた。

「ノエルもチョコレート好きでしょ」
「ああ。覚えてたんだ?」
「当然でしょ?」

 思い出すのはもちろんゲームのイベント。寝込んだエリィの為にノエルがヴィスタから貰ったチョコレートを持って見舞いに行くのだ。全部は食べきれないから一緒に食べようって。で、このイベントをこなすとヴィスタの好感度が少し下がってヨシュアの好感度が少し上がるんだっけ、なんて攻略情報を思い出す。

「あれ、ってことはこれの供給元は殿下?」
「そうそう。昨日の夜ちょっと会ってきたついでに強引に貰って来た」
「た、食べちゃっていいの?」
「いいんだよ。どうせ行きつく先は同じなんだから」

 どうしてよいかわからずに、エリィは悪戯っ子の様に笑うノエルの顔と手元にあるチョコレートの箱を交互に見た。その戸惑った表情が面白かったのか、ノエルはプッと吹き出す様にして笑うと口元に拳を軽くあてる。

「冗談だよ。普通に貰って来た」
「そう……なの?」
「ああ。昨日会った時に出されてね。エリィがチョコレート好きだから貰っていいかって聞いたら箱ごと持たされたよ」

 そう言うとノエルはエリィの手元にある箱から一つ取り出すと、包み紙を外してエリィの口元に運ぶ。それをエリィが躊躇なくぱくりと口に入れれば、ノエルは満足そうに笑った。

「少し元気になったね」
「心配かけててごめんね?天気が悪いと体調崩しやすくて……」
「違うよ。さっきケイトに聞いたんだ。エリィが元気ないって」
「え?」

 突然何を言われたのかと、キョトンとしてノエルの顔を見やれば、ノエルは再びチョコレートを取り出すとエリィの口へと運んだ。

「侯爵となにかあったんだろ?ケイトは言葉を濁してたけど」

 そうやってエリィに質問を重ねつつも、ノエルはタイミングを見計らって次のチョコレートをエリィの口に運ぶ。会話は質問形式でも、ノエルはエリィの答えを求めてはいなかった。と、言うよりも、エリィがはなから答える気が無いのを察しているようだった。

「ちょうどチョコを貰ってたし、食べれば少しは元気が出るかなって思ってね」

 そう言ってノエルは自分の指先についている溶けたチョコレートをペロリとひと舐めした。そして「ん~っ」と満面の笑みを浮かべながら唸り、ノエルは待ちきれないように箱からさらに一つ取り出すと、今度は自分の口に放り込む。

「どうせなら1箱じゃなくて何箱か貰って来ればよかったな。やっぱりチョコは美味しいね」

 両手を頭の後ろで組み、ノエルは上機嫌だというように笑う。その笑顔を見れば、エリィは何となく気持ちが晴れるような気がして、口元を緩めた。そして、両手を組んだままでいるノエルにチョコレートを一つ再び差し出す。そうすればノエルはおどけた様にエリィの指ごとパクリとチョコレートを咥えた。

「ちょっと、ノエル。指まで食べないでほしいわ」
「このチョコの小ささに不満しか感じ得ない……エリィの指もチョコだったらいいのに」
「食べる気満々ね?」
「だって俺お腹すいてるし」
「朝食は?」
「朝食待ちの間にわざと果実水をひっくり返して、バタバタしてる間に抜けてきたからまだなんだよね」
「私はずっと部屋にいるんだから、急がなくてもいいのに」
「ところがさ、未婚女性の私室なんて軽々しく行くもんじゃないってコヴォルが見張ってて」

 そう言うとノエルは面倒そうに肩を落として溜息をついた。

 コヴォルは隣国からノエルについてやってきた侍従だ。あまり会う機会は少ないが、ノエルの身の回りの世話を全て請け負っている真面目そうな青年だ。眼鏡をかけた目つきがちょっと怖い堅物である。ノエル曰く、王から付けられたお目付け役で、庶民育ちであるノエルのマナー指南役でもあるらしい。

「それで同じ家にいるのになかなかノエルに会えないのね……」
「そうなんだよね。来年にはどうやら俺、王様になっちゃうっぽいからさ。南の国の王女との婚姻の話も出てるし、女性関係は特にクリーンに!って」
「なるほど……大変ね」
「姫だった頃はエリィにはいつでも会えたし、恋愛も好きに出来たし。あの頃の方が自由だったかもなぁ」

 口を尖らして言うノエルは、どこからどう見ても拗ねた子供のようで、とてもじゃないが来年王様になるようには見えない。それでも、会ったことも無いであろう南の国の王女との結婚と言う話をサラリと話すノエルに心の奥がザワリと騒いだ。

 ノエルが主人公ちゃんヒロインであった元々の流れでは、このイベントの時にノエルは望まぬ婚約について弱音を吐くのだ。そこでエリィは言う。

 ならばこの国で恋をすればいい、と。この国ならば、隣国王妃の顔色を窺いながらノエルを虐げようとする者はいない。この国でしかるべき相手を見つければ、きっと隣国国王もお許しになるはずだと。王家の血を引く姫を後妻になどやるよりも、隣国との繋がりを持った方がよいという判断をきっとしてくれるはずだから。そう言って、最後に「お勧めはヴィスタ殿下よ。だって私はもうすぐ死んでしまうんだもの。なら、私の大好きな殿下と、大好きなノエルが幸せになってくれるととても嬉しいわ。ねぇ、私の代わりに幸せになって?」とエリィは泣くのだ。

 このイベントで、話している内に段々と涙声になるエリィの台詞に、前世のエリィも貰い泣きしたものだ。声優さんの演技力半端ないなと感心したシーンでもある。

 その弱音を吐くべきイベントで、今のノエルは、その婚姻の事をサラリと流した。何も思っていない、なんて事はないだろう。だが、ノエルが男性と言うだけで余りにも状況は違い過ぎた。男性であるが故に、ノエルは王位を継がねばならない。その伴侶になるべき人間の選択肢は驚くほど狭い。

 ヴィスタの様に幼いころから王族として過ごせていたのなら、ヴィスタにあてがわれたエリィの様に少しずつ時間を掛けて打ち解けていった婚約者がいたかもしれない。だが、ノエルには何を決めるのにも時間は用意されていなかった。

 国王となって血を継がなければならない以上、早急に結婚はせねばならない。王妃に据える以上、その伴侶には権力や、しがらみと言ったものが付いて回ることを恐らく十分に理解し、現段階で南の国の王女が最もふさわしいと自分自身に納得させたのだろう。
 
 そんなノエルに、今のエリィは何も助けになってはあげれないし、気が休まる言葉さえもかけることが難しい事のように思える。エリィの出番はどこにもないのだという事が胸をざわつかせ、一抹の寂しさを感じさせた。

「男性で生まれてしまってつらい?」

 本来は女性であったはずなのに、何の因果か男性にノエルは生まれてしまった。その分重責は増え、自由も制限されている。おまけに命まで狙われているのだ。それについてどう思っているのか、とノエルの真意が聞きたかった。ゲームの中のエリィと同じようにノエルの気持ちに添うことが出来ないのが寂しくて、いや、ただ単に親友の本音を知りたかっただけなのかもしれない。その程度の軽い気持ちでエリィは聞いてしまった。

「……つらいよ」

 返って来たノエルの余りにも真剣な表情と声音に、エリィはそんな当たり前の事を聞いたことをすぐに後悔した。ゲーム通りであれば、ノエルはこの国に来ればどんな形であれ幸せをつかめた筈なのだ。それが男性で生まれてしまった。約束された未来は無くなり、命さえ危ぶまれる、先の見えない重責ばかりのしかかる道が避けようもなくノエルの前に敷かれているのだ。辛くないわけが無かったのだ。

「ごめんね、変な事を聞いちゃった」
「ううん。違うんだ」

 バツが悪そうに視線を反らしたエリィに向かって、ノエルは真剣な視線を向けたまま言葉を続けた。

「男で生まれることは俺が望んだことなんだよ」
「……どうして?」
主人公ノエルでいる方がずっと辛かったから」
「理由を聞いてもいい?」

 そう問えば、ノエルは再び表情を崩してニッコリと笑い、エリィの手元からチョコレートを2つ取り出し、一つはエリィの口に運び、もう一つは自分の口に放り込んだ。その仕草にはこれ以上何も質問させないという意味と、これ以上何も語るつもりはないというノエルの意思が見て取れ、エリィは苦笑した。
 例え聞けたとして、辛いという理由を聞いてそれをエリィが和らげることが出来る何て大層な事は思っていなかった。エリィはただ知りたかっただけだ。そう考えれば、やはりこれも興味本位という範疇に含まれるであろうことは想像に難くない。

「そうだ。話は変わるけど、ノエルに教えてほしい事があるの」

 ノエルのプライベートな話題から反らそうと考えた時、エリィにある疑問をぶつけてみようと思ったのだ。もちろん、話を聞くのはティティーでも良かったのだが、今ふと気づいてしまったのだ。その疑問に答えてもらえるのであれば、それはティティーであろうがノエルであろうがどちらでも良い。ならば、起きている時間帯にずれがあって中々話せないティティーよりは、今ここにいるノエルに聞いてしまった方が良いと思ったのだ。

「俺が教えることが出来る事なら。……なんでも、何て言うつもりはないけどね」

 言外に、やはり先程のノエルの気持ちの内側については黙秘をするという意思を読み取って、随分強硬ねとエリィは笑う。そうすればノエルは、慎重で繊細だと言ってよ、と眉を下げて笑った。



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