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37. 父と娘

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――ああ、また夢だ。

 昨日よりは大分はっきりとした思考でその夢を見た。
 病室のベッドの上で苦しい発作が収まった後、父親がやって来た。2、3言エリィに言葉を掛けると、仕事だからと言ってすぐに背中を向けた。エリィを見る目はいつも辛そうで、直視に堪えきれぬと言った面持ちで。いつもそうやって、彼は逃げる様にエリィから目を背ける。その目はいつも潤んでいたから、嫌われているわけではないとはわかっていた。だけど父はいつも私に触れようとはしなかった。大丈夫か?とか、辛いか?とか。いつもそんな事しか聞かない。まだ40半ばにもいっていない彼は、白髪が多く混じった髪を撫でつけ、小奇麗に見えるようにしてはいたが、年齢よりもずっと老けて見えた。その原因が自分にあることもエリィはわかっている。

 エリィの父も母も、毎日病院へ見舞いにやって来た。仕事で忙しいだろうに、欠かすことなく。だがエリィはその見舞いが苦手だった。母親はいつも発作が起こる度にエリィを可哀想な者を見るように見て、贖罪の言葉を述べては泣くし、父親はいつも視線を反らし気味で、痛ましそうな表情をするからだ。一緒に居るのが辛いという様な表情をされるのが本当に苦手だった。

 でも、冷静に考えてみればわかる。

 自分の親しい人間が、死に逝く様をみるのを果たして平気な顔で直視できる人間がいるのだろうか。彼らの取った行動は血の通った人間としてと言わざるを得ないのだ。人の死を厭うのは当然の感情なのだ。でなければ、エリィだってヴィスタを助けようなんて思わない筈なのだから。

 それでもエリィは、仕事と言う言葉を盾にとって逃げる様に背中を向ける父親に対する恨み言は言っても罰は当たらないと思った。それだって人間として正しい感情だとエリィは思うからだ。
 ただ側に居てくれるだけでも良かったのだ。他愛ない話をして、一緒に笑って。あの白い檻の様な病室はこの中に置いて行かれるのがどんなに寂しかったか。去っていく背中を見送れば、視界に入るのはサイドキャビネットの上に置かれたパステルピンクの手帳の様な箱。テレビもない病室の中で、エリィの話し相手も、恋も、全てこの中に詰まっていた。前世でのエリィの世界は白い箱とパステルピンクの箱だけだったのだから。

「……お父さんの、馬鹿」

 ゆっくりと覚醒していく意識の中で、思わずエリィはそう零す。前世ではいつもいい子の仮面をかぶって恨み言一つ言わなかった。2人が忙しいのをちゃんと聞き分けよく理解し、2人が少しでも長くいてくれるようになるべく笑顔でいるように努めた。あれだけ頑張ったのだから、もう本心を零しても良い筈だ。どうせ夢なのだし、今いるのはあの2人が居ない世界なのだから――


 目を開けて、ぼんやりとした視界の中に落ち着いた色彩の天井が映りこむ。ぼーっとしたまま、むず痒い目尻に指を這わせれば、やはりしっとりと指先を濡らした。

――また、泣いてたんだ。

 昨日といい、今日といい、久しぶりに前世の夢を見た。たしかあの時も彼らが去った後、病室で寂しくて一人で泣いていたことを思い出す。それでも、昨日と連続で夢を見たせいか、目覚めてしまえば昨日ほど強く前世に引きずられるように感情を動かされてはいなかった。ああそんなこともあったなと、冷静に頭の中で処理が出来る。溜息を一つ吐いて手の甲で乱暴に目をこすると、すぐ脇から軽い咳払いが聞こえた。

「擦ると腫れるだろう。これを使いなさい」

 咳払いと、伸ばされた手の内に在るハンカチと、その声にエリィはギョッとして硬直した。ギギギと音が鳴りそうなぐらいぎこちなくその腕の先へ顔を向ければ、そこには無表情の美しい紳士が居る。金の髪に青色の瞳、そして大人の色気を朝から無意識に振りまきつつも、そのなかにどこか冷たい感じのする美しさを惜し気もなく晒した紳士だ。

「お……お義父さま」

 瞠目したまま固まっているエリィの手にハンカチを握らせると、ヨハンは膝の上に置いていた本に視線を戻した。その姿は落ち着き払っていて、そこに居るのがまるで当然だと言わんばかりだ。一方のエリィは驚きと動揺で頭の中がパニック状態だった。
 理解が追い付かないまま部屋を見回せば、昨日ドレスと一緒に届いたアクセサリーが鏡台の前に昨日のまま置かれている事がわかる。と、いうことはエリィにとっての昨日は、またもや本物の昨日だった訳である。3日続けてきちんとした時間の流れを過ごしているという事だ。
 
 それを頭の中に入れて昨夜の事を思い出せば、昨夜は一昨日に引き続きセシルが今ヨハンの座っている椅子に座って付いていてくれたはずだ。安心して眠りについて、目を覚ませば……彼の父親ヨハンに代わっていた。そこまでの事実を確認して、エリィは戸惑いを隠せぬまま口を開いた。

「お、義父さま……なぜここに……」

 絞り出す様に声を出して問えば、ヨハンは本から視線を外してエリィの方を見た。相変わらず無表情で何を考えているのかが分からない。

「娘を見舞うのに理由が必要なのか?」
「いえ、あの、必要はないですが……」

――だって、今早朝ですよ!

 思わずツッコミそうになる声をエリィは慌てて飲み込んだ。
 白みかけている空に、鳥の鳴き声がする程度には早朝だとエリィにも一発で分かる。その時間にここにいる筈のない人物が居れば、誰だって面食らうだろう。

「お兄様は……」
「昨日の夜中に城より使いがあってな。そのまま登城したよ」

 城からの使いという事は、恐らく城に侵入者があったとかそう言う事だろう。騎士であるセシルが休日にもかかわらず呼び出されるという事は、賊がまだ捕まっていないのかもしれない。そう考えると途端にヴィスタの事が思い出された。城で今、命を狙われる危険性が高いのは、と考えればヴィスタしか思い浮かばないからだ。

「殿下は、ご無事なんでしょうか」
「殺しても死なないだろう、アレは」
「殺したら普通は死にます」
「例外もいる」

 サラリと紡がれた悪態に、ヴィスタが無事であるという趣旨を読み取ってエリィは胸を撫で下ろす。それを横目でヨハンはチロリと見て、少しだけ考え込むような仕草を見せた。

「……明日、フィリオ―ル様の所の夜会に行くのだろう」
「はい。招待状はお義父さまの所に来ていると思いますが」
「ああ。……いや、そうではなくて。フィリオ―ル様とは、その……どうなのだ」
「……どうなのだと言われましても」
「フィリオ―ル様からはお前が王子と婚約解消する直前から内々に婚約の打診が来ている。……見合いの打診ではなく、婚約の打診だ」

 ヨハンのその言葉に、エリィは夜会の日の馬車の中での会話を思い出す。婚約を前向きに考えてもらえないだろうかと、フィリオ―ルはエリィに言った。死ぬからと言う理由では納得しないと。それでも同じ時を過ごしたいと彼は言ったのだ。
 彼は恐ろしい程に潔癖で誠実な青年だ。彼がそうだというのならそれが本心なのだろう。エリィが身を守るためにも自分を利用しろと自分のデメリットを一切考えず、真摯に彼は告げた。そんな彼はエリィにとって大事な友人の一人だ。

 もし、ここがゲームの世界ではなく、普通に生まれていて、死ぬ日が決まっていなかったら。彼とは友人関係の延長上として穏やかな結婚生活を送れたかもしれない。だが、エリィには確実に死ぬ日が決まっている。それにつき合わせる気には到底なれなかった。それに、最期の日が決まっているのなら、この家で家族に看取られたい。それがエリィの心からの願いでもある。

 前世でのエリィの記憶は大抵父親か母親の背中を目で追っている。昨日見た、遠のいていく意識の中で見た母親の背中。あれが恐らく前世のエリィの最期なのだろう。あんな寂しい終わり方は嫌なのだ。だからこの家を離れたくないと強く願ってしまう。

「フィリオ―ル様は、良い友人です」
「そうか」

 体をゆっくりと起こして当たり障りなく答えたエリィの言葉に、ヨハンは深く追及などせずに短く返事をした。何を考えているかはわからなかったが、恐らくエリィの答えはヨハンの予想の範囲内だったのだろう。彼があらかじめ予想していた答えをエリィが述べたのならば、それ以上聞く事が無いのは当たり前なのだ。
 そうしてしばらく黙りこくった後、ヨハンは再び口を開いた。

「明日」
「……はい?」
「アレが夜会に参加すると聞いている」
「はい」
「非公式の参加の様だから派手な事はしないとは思うが、大丈夫なのか?」

 眉一つ動かさずに、言われた事は、もちろんヴィスタの事であるのは容易に分かった。そしてあの日変装までしてきたヴィスタを思い出してくすりとエリィは笑いを漏らす。頑張って変装までしたというのに、参加する前から既に知れ渡っている節があるのをヴィスタは知らないのかもしれないと思うと、自然と笑みがこぼれたのだ。

「大丈夫です。少し話すことはあると思いますが、殿下も私ももう子供ではありませんし、心配するようなことは何も――」

 そこまで言ってエリィはあの決闘騒ぎを思い出し、顔を引きつらせた笑いを浮かべつつ視線を宙に彷徨わせた。

「えっと、その……多少、揉めるかもしれませんが。大丈夫です。ええ、大丈夫です」

 そんなエリィの様子をヨハンは怪訝そうに眺め、顎に手を置いた。半眼になりながらジロリと見るヨハンの視線と目が合わないようにあちこちフラフラと視線を彷徨わせて苦笑いを浮かべる。

「何か問題があったのか?」
「いえ、ちょっとした問題が起こるだけで……」
「誰と?」
「明日になれば私が言わずともわかります」
「……それほど目立つことが起きる訳か。アレを参加させないようにすることもできるが――」
「大丈夫です。お義父様、私は話したいことがあるので殿下に参加していただきたいんです」
「そうか」

 夜会にヴィスタが参加しないなんて事になったら、エリィがヴィスタへ忠告したことも、ヴィスタが本性を現したことも無かったことになる。そう考えたら、エリィは慌ててヴィスタが参加できないのは困ると主張するよりほかは無かった。

 だが、ヨハンは何かを考え込むように視線を床下に落とし、足を組み換え、立てた本の上に手をのせてトントンと人差し指の指先で叩いた。その姿はヨハンにしては珍しく、何かに言い淀むような雰囲気があり、エリィは訝しむ様に首を傾げる。

「エイリーズ」
「はい」
「……その、なんだな」
「はい?」
「アレと婚約解消したのを後悔してはいないか?」

 嬉々として婚約解消を進めたと告げたヨハンらしからぬ気弱な言葉に、エリィはキョトンとして、義父の顔をまじまじと見た。しかし相変わらずヨハンの視線は床に落とされたままで、エリィの方を見ようとはしていない。

「もし、後悔しているのなら……難しくはあるが、もう一度婚約できるように手を尽く――」
「していません」
「……私を、恨んではいないのか?」
「私が?お義父さまを?ご冗談を」
「そうか」
「恨むどころか、申し訳ないぐらいです」
「申し訳ない?」
「娘だというのに私には何もできないからです。お兄さまのようにお義父様の執務のお手伝いも出来ませんし、ヨシュアのように社交において貢献することもできません。貴族の娘なら家の為に嫁ぐなど当たり前の事なのに、それすら出来ません」

 ただでさえ義理の娘と言う微妙な立場であるというのに、今のエリィはディレスタ家の完全なお荷物と言っても過言ではない。健康であったのなら問題なくに嫁ぎ、王子妃の生家として、ゆくゆくは王妃の生家としてディレスタ家をさらに盤石にすることも可能だっただろう。

 健康であったなら。

 考えても仕方が無い事だ。どう考えてもエリィは健康ではないし、健康にはなれない。タイムリミットも決まっている。仮にそれを考慮に入れず結婚を考えたとて、式よりも先に無くなるのが明白だ。婚約のお披露目だの、結婚の準備だの。無用になってしまう物に費用を掛けるなど馬鹿らしいし、何も貢献できないエリィが無用になってしまう事の為に周りの人たちの時間を無駄に奪っていいとは思えない。

、か」
「はい」

 エリィが頷けば、ヨハンはじっとエリィの顔を見た。その強いまなざしに何とも言えず、戸惑うようにしてぎこちなく笑えば、ヨハンはその視線をスッと外した。そのヨハンの視線の先を追う様にして見れば、程なくしてノックの音が聞こえる。

「お嬢様、お食事の用意が出来ました」

 ドア越しに聞こえるケイトの声にヨハンが短く言葉を返せば、ケイトはドアを開けてサービスワゴンを押しながらにこやかに入室する。

「そろそろ登城せねばな」

 ヨハンはそう言って静かに立ち上がると、本を片手に数歩歩き、そして立ち止まって振り返った。

「……欲しいものはあるか?」

 突然振り返ってそう言ったヨハンに、エリィは「えっ?」とポカンとした表情をしてみせた。それでも、エリィの言葉を待つ様に立っているヨハンを見て、頬に軽く手を当てて考え込む。特に欲しいものは考え付かなかったが、恐らく気を遣ってわざわざ尋ねてくれたものを、無いと答えるのは冷たくは無いだろうかと迷う。かと言って適当にアレが欲しいコレが欲しいと言っても、持て余すことは目に見えている。

「……特に、思いつきません」

 結局何も思いつかず、俯きがちにそう告げれば、ヨハンは再びそうかと短く答えた。折角の好意を無碍にしているような気分になり、エリィは何とも言えず指先を弄って黙り込んだ。

「エイリーズ」

 そんなエリィにヨハンは静かに声を掛けた。その言葉にゆっくり顔を上げれば、ヨハンの冷たい双眸がエリィをじっと見ていた。

「は……い」

 その視線から逃げる様に視線を反らせば、ヨハンは小さく咳払いをした。

「俯いてはいけない。顔を上げ、真っ直ぐ前を見なさい。お前が私の娘だと言うのなら、常に胸を張るんだ。お前は娘なのだから。ありふれた貴族の娘であろうとする必要はない。私はそんなものは求めていない。常にディレスタの者らしくあれ。私がに臨むことはそれだけだ」
「でも……」
「ディレスタ家の者に”出来ない”という言葉は必要ない。許されるのは”出来ない”ではなく”する必要が無い”だ。どうやらお前にはディレスタ家の娘としての誇りが少々足りないようだ」

 そう言うとヨハンは、青ざめた表情で見上げるエリィを残したまま、踵を返して足早に部屋を出て行ったのだった。
 




 
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