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36. 夢

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――ああ、これは夢だ。

 そう感じながら薄っすらと目を開ければ、面白みのない白い天井が見えた。酷く怠い腕を上げれば肉付きの薄い、青白くてか細い手と、手の甲に大きなガーゼがサージカルテープで止めて有り、その下から細い管が見える。その管の元へと視線を這わせれば、ビニールパックに入れられた点滴が天井から伸びている金具に吊るされていた。そのすぐ近くの蛍光灯の光が目に刺さるようで眩しく、エリィは眉をひそめる。電気をつけたまま寝ていたのだろうか。

 腕を下ろして辺りを見回せば、色彩の乏しい白い箱のような部屋に一人で寝ている。白い壁に、白い天井。白いカーテンに白いシーツ。ベットの横に置かれたままの機械は規則正しく一定のリズムで音を鳴らしていた。顔を横に向けてみれば、白のサイドキャビネットの上に、場違いな程可愛らしいパステルピンクの携帯ゲーム機が置いてある。赤いランプが明滅を繰り返しているのを目にして、「ああ、充電しなきゃな」なんて冷静に考えた。
 
 扉を開く音がしてそちらに目を向ければ、少しだけ疲れた顔の女性が暗い表情で俯きながら入って来た。とてもよく見知った、自分とよく似た顔の形の女性に、なつかしさがこみ上げる。

「……お……かあ……さん」

 聞こえるか聞こえないかの声で思わずそう呟けば、女性はぱっと顔を上げてエリィを見た。そして顔をくしゃっと歪めてベッドの側まで小走りで近づくと、ナースコールのボタンを押した後、すぐ横で膝をついてエリィの手を握る。それに応えようとして身じろぎをすれば、背中が酷く痛んで、エリィは小さくうめき声を上げた。乾ききった喉からは掠れた声しか出ず、もう一度彼女を呼ぼうとすれば、喉に引っかかった声が咳となって外に出て、ヒューヒューと息が漏れた。

「苦しいの?……ごめんね。ごめんね」

 女性はエリィの手を握りしめ、泣きながら何度も謝った。丈夫に産んであげられなくてごめんなさい。代わって上げられなくてごめんなさい。苦しい思いをさせてごめんなさい。泣きながら、懺悔をするように、許しを乞うように。

――そんな目で見ないで。

 そう言おうとしても、声が出なかった。でるのは苦しそうな息遣いと、かすれた咳で、その苦しさのせいでまなじりに涙がにじむ。ずっと寝ていたせいか背中は少し体勢を変えようとしただけでも酷く痛み、足はまるで他人の物のように怠かった。

――可哀想な者を見るような目で見ないで。

 必死に訴えようとした。私は可哀想なんかじゃない。憐れんだ眼で見ないで。不幸なんかじゃないの。そう言いたかった。滲んだ視界に再び明滅する赤いランプが入り込んだ。エリィの今の幸せがつまっている箱。それを象徴するような柔らかなパステルピンク。

――お母さん、私、今同じ病気だけど凄く幸せなんだよ。

 そう教えてあげたかった。病気は辛いけど、大好きな人が側に居れば幸せなんだよと。だから泣かないで。私を可哀想だと泣かないで。私を可哀想という型に嵌めてしまわないで。お母さんが居れば幸せなの。お父さんが居れば幸せなの。だから泣かないで。抱きしめてくれるだけで幸せなんだから。そう伝えたかった。

 視界が黒い靄でどんどんと小さく狭くなる。意識が遠のく感じがして、同時に背中の痛みはスッと無くなった。病室のドアから医者と看護師がバタバタと入ってくるのが見える。母は立ち上がって何か医者に訴えていた。離された手から母の温もりが消えた。そのことに不安を感じて必死で母を目で追う。視界はどんどん狭まり、最後は母の背中しか見えなかった。

――離れないで。お母さん、抱きしめて。

 そう動かした唇は、母に見えたのだろうか。








***********






「……リィ、エリィ」

 酷く切ない気分で目を開ければ、ごく近くに心配そうなセシルの顔が視界いっぱいに入り込んだ。

「お、兄さま……?」

 呟くようにそう言えば、セシルはホッとした様に一つ息を吐いて親指でエリィの目元を拭った。むずむずしたこめかみに手を当ててみれば、指先が冷たく濡れる。どうやらエリィは寝ながら泣いていたようであった。ぼんやりとしたまま体を起こせば、セシルはその頭を優しく撫でた。その心地よさに身をまかせながら、エリィはセシルを見上げる。そうすれば、優しい微笑みが見返りもなく返ってくる。それだけでむず痒いような温かい気持ちになる。

――お母さん、私幸せなんだよ。

 遠ざかっていく背中を思い出して鼻の奥がツンとした。何も言わずにセシルを見上げて少しだけ手を広げて伸ばしてみせる。そうすればセシルは黙ってエリィのすぐ横に腰を掛けた。そのままエリィがその腰にしがみつくようにして抱きつけば、セシルはその小さな背中にそっと腕を回す。望んでも捕まえられなかった背中はここには無く、望めば捕まえてくれる腕があった。
 黙ったまま抱きつくエリィを、セシルも何を言わず、その頭を己の胸に押し当ててゆるりと頭を撫でる。その温もりにホッとしたような、やはり切ないようなそんな気分になった。

 誰も好きにならない。そう決めた筈なのに、セシルに自分から抱きしめてもらう事を求めてしまうのは何故なのだろう。やはりこの腕の中に入れば何よりも得難い安心感が襲ってくるのはもう好きになってしまっているからだろうか。湧き上がってくるその|感情(こたえ)を否定したくて、エリィはセシルの胸に額をこすりつける様にして小さく頭を振った。遠ざかっていく母の背中が頭の中にチラつくたびに、寂しいと言う気持ちがエリィの思考を支配する。寂しい気持ちが支配するほどにセシルにギュッとしがみつけば、彼も控えめにその腕の力を強めて応えてくれる。それに微かな充足感を覚えた。

「お兄さまが好き」

 聞こえないぐらい小さな声でボソリと呟けば、ストンとその言葉はエリィの胸に落ちて来た。ああ、やっぱりそうなんだ、と酷くしっくりする言葉に苦笑いを浮かべる。あとたった4ヶ月で死ぬ身で、セシルを困らせる様な事は言えない。この想いはしまっておくべきものであることは自明の理であった。

「ごめんなさい、お兄さま」

 しがみついたままぐったりと体をセシルに預けたままエリィが言えば、彼は小さく笑ったようだった。自分の気持ちに気付いてしまえば、その柔らかい笑い声も、微かな吐息でさえも胸の奥をぎゅっと締め付ける。

「怖い夢でも見たのかい?」
「……ええ。たぶん、私が死ぬ夢」

 チラリと頭をよぎった母の背中を振り払うようにギュッと瞼を閉じてしがみつく。そうすれば、エリィは先程よりもずっと強い力で抱き返された。気休めの言葉を何一つ言わないその行動は、その分誠実さを感じさせて逆に冷静さをエリィに思い出させる。

「落ち着いたわ。おにいさま、ありがとう」

 背中に回した手を外してその程よく厚い胸をそっと押せば、スルリとその拘束は外された。代わりに頭にそっと手を添えられ、そこに優しくキスを落とされた。

「熱が少しありそうだ。今日は学園を休むといい」

 そっと額に当てられた手はひんやりと冷たい。という事は、やはり少し熱があるのだろうとエリィは自覚する。あんな夢を見てしまったのはきっと熱のせいだろうと納得させる。
 エリィはセシルの言葉に小さく頷き、再び横になった。それでも再びあの夢を見るのが嫌で眠る気にはなれなかった。セシルが食事を運ばせると言って部屋を出ていくのを見送り、ボーっと天井を見上げる。そこにはあの時の様な無機質な白い天井は無く、モダンな柄の入った薄いグリーンの壁紙と、ライトブラックの化粧梁が落ち着いた雰囲気を醸し出している。

「起きてる?」

 不意に掛けられた声に視線を移せば、部屋の入り口にヨシュアがもたれ掛かる様にして立っていた。ヨシュアに答えるべく体を起こそうとすれば、彼は急いで寝台の脇まで歩いてきてエリィの肩を押しとどめた。

「横になってていいよ」
「……寝てばかりいたら背中が痛くなるから」

 夢の中で背中の痛みに呻いたのを思い出し、エリィは眉間に皺を寄せながら小さく首を振る。そう言うとヨシュアは「そっか」と納得した様に頷いて、エリィの背中に手を添えて体を起こすのを支えた。

「熱出るかなとは思ったんだ。だから昨日町に行くの反対したんだよ。降るのはわかってただろ」
「……今日は、22日、だっけ」

 ヨシュアの話に些か驚いてエリィが確かめる様に尋ねると、ヨシュアは当たり前だとでも言った様に頷く。

「昨日が昨日って言うのも新鮮ね」
「は?何変な事言ってんの?」
「ううん、別に」

 窓の外を見れば昨日と同じようにどんよりと厚い雲が空を覆っている。今日も降るのかしらと独り言ちれば、ヨシュアは「だろうね」と相槌を打つ。遠くの方の雲が黒いのはやはり昨日と同じように雷が鳴るのだろうか。

「そう言えば、ヨシュア。何か用事があったんじゃないの?」

 窓から視線を戻してエリィが言えば、ヨシュアはキョトンとした顔をしてエリィを見返した。

「特に用事は無いよ。兄さんにエリィの側についててくれって言われたから。こっちこそ聞きたいぐらいだ。なにかあった?」

 菫色のヨシュアの瞳が真っ直ぐにエリィを見ると、エリィは逃げる様にその視線から目を反らして首を振った。つい夜会の日の事を思い出してしまったからだ。黙っていようと思っていても、ヨシュアの真っ直ぐな目に無理やり自分の気持ちを暴かれてしまうのではないかと怖くなったからだ。

「そう。まぁいいや。学園を休むなら暇でしょ。今日一日ずっと話し相手になるよ」
「兄さまは?」
「……ミレイユ先生の所へ行くってさ」
「そっか、出かけるんだ」
「使用人をやればいいだけなのに、兄さんがわざわざ出向くなんて。エリィは何を兄さんに言ったの?」

 再び戻った話題に、エリィは戸惑った視線をヨシュアに向けた。何を言ったかと言われても大したことは言っていない。死ぬ夢を見たと言っただけだ。正確には、恐らく死んだときの夢、だが。

「夢を見たって言っただけ」
「なんの?」
「……私が死ぬ夢」
「なるほどね」

 そう言って、ヨシュアは納得した様に寝台横の椅子に腰を掛けた。突っ込んで聞いてくるかと身構えたのに、意外なほどあっさりと引き下がってしまったヨシュアをエリィは怪訝そうに見返す。しかしヨシュアはそんなエリィの視線を全く気にした様子もなく、ケイトが朝食を持ってくるまでずっと、何かを考える様に窓の外の方に視線を投げていたのだった。





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