僕とピアノ姫のソナタ

麻倉とわ

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第三楽章①

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 最初に聞こえてきたのは、フルートの音だ。
 日曜の九時前だというのに、キャンパスの中では遠く近くさまざまな音色が響いている。

 藤芳音大では授業が休みでも夕方まではレッスン室が使えるので、練習に来る学生が多い。
 天気がよければ、外で演奏している者もいる。哲朗は、調もその中にいるはずだと思った。

 彼女は練習の虫だと聞いている。たとえ休日だろうと、二日酔いでヘロヘロになっていようと、いつもどおりピアノに向かうだろう。
 もちろん家で弾く可能性もあるが、来月には学内コンサートを控えていると言っていたし、大学のレッスン室を使うような気がしていた。

 というより哲朗は家に戻って着替えた後、いても立ってもいられずにここまで来てしまったのだった。食欲がないせいもあるが、まだ朝食も食べていない。

 姿を消した調のことが、気になってしかたがないのだ。

 ホテル代のこともあったし、あの場で自分たちの間に何が起きたのか、それを彼女がどう思っているのか、本人に直接確認したかった。

 それなのに連絡先がわからない。もちろん家も知らない。哲朗にできるのは、大学に来て調を探すことだけだった。

 まずはレッスン室をかたっぱしから覗いてみようと思ったところで、ふと足が止まる。

 通常この時期に行われる発表会はオーケストラ形式ではなく、各専攻科から数人が選ばれてソロかアンサンブルの演奏を披露する。
 調はベートーヴェンを弾くと言っていたが、曲目は何なのだろう。

「もしかして」

 哲朗は夢の中で聴いた『春』のメロディーを思い出した。コンサートで演奏するから、調はホテルでも弾いてみたくなったのかもしれない。

 だとすればヴァイオリンソナタなのだから、当然ヴァイオリンのパートを担当する相手がいるはずだった。
 それは誰なのだろう? 自分でないことだけは確かだが。

 輝く春の野を連想させる、心が浮き立つような調のピアノ。

 ほんのさわりを、それも夢うつつで聴いただけだが、あの音を受け止め、さらに高みへと導くことができるヴァイオリニストはそう多くはない。もちろん藤芳音大のレベルはなかなかのものだけれど――。

 いったい誰がパートナーを務めるのだろう。
 テクニックはもちろんだが、同時に調に負けないくらいのスケールも持ち合わせていなければ、ピアノに圧倒されてヴァイオリンが負けてしまう。

 哲朗は眉根を寄せる。気づかぬうちに、強く拳を握りしめていた。調のようなピアニストと組める奏者が心底うらやましかったのだ。

 かつては自分だって、そういう演奏家を目指していたはずだった。
 華麗なテクニックで音楽を構築するヴィルトゥオーソ(超一流の音楽家)になりたいと、哲朗は小さいころから一途に思い続けてきた。

 高校時代までは常に何よりも練習を優先し、友だちからの誘いも断り、女の子とのデートなど考えもしなかった。機会を見つけてはコンサートに足を運び、楽譜を読み込み、CDを聴いて、来る日も来る日もヴァイオリンを弾き続けた。

 どんなにつらくても、いつか報われる日が来ると信じていたからだ。けれど――。

「あれ? 椎名くんじゃないか」

 誰かに名前を呼ばれ、哲朗はわれに返った。
 廊下の向こうから、ヴァイオリンケースを手にした長身の男が歩いてくる。

「珍しいね。日曜に大学で君に会うなんて」
「滝沢……さん」

 声をかけてきたのは、一年先輩である滝沢裕也だった。
 ふだんからあまり会いたくない相手で、哲朗には、とっさに適当な返事が見つからない。

「椎名くんも練習ですか?」
「あ、いや、今日は……ちょっと用があって」
「そうですか。じゃ、僕は急ぐので失礼」

 滝沢は軽く頷いてみせると、足早に横を通り過ぎていった。

 端正な顔には余裕たっぷりの笑みが浮かんでいた。おそらく哲朗のことなど、眼中にないのだろう。
 ライバルと目されるはずもなかった。事実、彼にはこれまでに何度も敗北を喫しているのだから。

「くそっ」

 哲朗は俯いて、きつく唇を噛みしめる。
 ふいに強烈な悔しさと情けなさが込み上げてきて、どうしていいかわからなくなった。

 滝沢は力のあるヴァイオリニストで、コンクールの入賞歴も多い。
 そんな彼が日曜にもかかわらず、大学までレッスンに来ていた。自分が合コンに出ていた昨晩だって、きっと練習に励んでいたに違いない。

 このままでは、ますます彼に置いていかれ、手が届かないくらい遠く引き離されてしまう。
 それなのに自分はいったい何をしているんだろう? 楽器も持たずに、こんなところまでやって来て。
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