9 / 32
第三楽章①
しおりを挟む
最初に聞こえてきたのは、フルートの音だ。
日曜の九時前だというのに、キャンパスの中では遠く近くさまざまな音色が響いている。
藤芳音大では授業が休みでも夕方まではレッスン室が使えるので、練習に来る学生が多い。
天気がよければ、外で演奏している者もいる。哲朗は、調もその中にいるはずだと思った。
彼女は練習の虫だと聞いている。たとえ休日だろうと、二日酔いでヘロヘロになっていようと、いつもどおりピアノに向かうだろう。
もちろん家で弾く可能性もあるが、来月には学内コンサートを控えていると言っていたし、大学のレッスン室を使うような気がしていた。
というより哲朗は家に戻って着替えた後、いても立ってもいられずにここまで来てしまったのだった。食欲がないせいもあるが、まだ朝食も食べていない。
姿を消した調のことが、気になってしかたがないのだ。
ホテル代のこともあったし、あの場で自分たちの間に何が起きたのか、それを彼女がどう思っているのか、本人に直接確認したかった。
それなのに連絡先がわからない。もちろん家も知らない。哲朗にできるのは、大学に来て調を探すことだけだった。
まずはレッスン室をかたっぱしから覗いてみようと思ったところで、ふと足が止まる。
通常この時期に行われる発表会はオーケストラ形式ではなく、各専攻科から数人が選ばれてソロかアンサンブルの演奏を披露する。
調はベートーヴェンを弾くと言っていたが、曲目は何なのだろう。
「もしかして」
哲朗は夢の中で聴いた『春』のメロディーを思い出した。コンサートで演奏するから、調はホテルでも弾いてみたくなったのかもしれない。
だとすればヴァイオリンソナタなのだから、当然ヴァイオリンのパートを担当する相手がいるはずだった。
それは誰なのだろう? 自分でないことだけは確かだが。
輝く春の野を連想させる、心が浮き立つような調のピアノ。
ほんのさわりを、それも夢うつつで聴いただけだが、あの音を受け止め、さらに高みへと導くことができるヴァイオリニストはそう多くはない。もちろん藤芳音大のレベルはなかなかのものだけれど――。
いったい誰がパートナーを務めるのだろう。
テクニックはもちろんだが、同時に調に負けないくらいのスケールも持ち合わせていなければ、ピアノに圧倒されてヴァイオリンが負けてしまう。
哲朗は眉根を寄せる。気づかぬうちに、強く拳を握りしめていた。調のようなピアニストと組める奏者が心底うらやましかったのだ。
かつては自分だって、そういう演奏家を目指していたはずだった。
華麗なテクニックで音楽を構築するヴィルトゥオーソ(超一流の音楽家)になりたいと、哲朗は小さいころから一途に思い続けてきた。
高校時代までは常に何よりも練習を優先し、友だちからの誘いも断り、女の子とのデートなど考えもしなかった。機会を見つけてはコンサートに足を運び、楽譜を読み込み、CDを聴いて、来る日も来る日もヴァイオリンを弾き続けた。
どんなにつらくても、いつか報われる日が来ると信じていたからだ。けれど――。
「あれ? 椎名くんじゃないか」
誰かに名前を呼ばれ、哲朗はわれに返った。
廊下の向こうから、ヴァイオリンケースを手にした長身の男が歩いてくる。
「珍しいね。日曜に大学で君に会うなんて」
「滝沢……さん」
声をかけてきたのは、一年先輩である滝沢裕也だった。
ふだんからあまり会いたくない相手で、哲朗には、とっさに適当な返事が見つからない。
「椎名くんも練習ですか?」
「あ、いや、今日は……ちょっと用があって」
「そうですか。じゃ、僕は急ぐので失礼」
滝沢は軽く頷いてみせると、足早に横を通り過ぎていった。
端正な顔には余裕たっぷりの笑みが浮かんでいた。おそらく哲朗のことなど、眼中にないのだろう。
ライバルと目されるはずもなかった。事実、彼にはこれまでに何度も敗北を喫しているのだから。
「くそっ」
哲朗は俯いて、きつく唇を噛みしめる。
ふいに強烈な悔しさと情けなさが込み上げてきて、どうしていいかわからなくなった。
滝沢は力のあるヴァイオリニストで、コンクールの入賞歴も多い。
そんな彼が日曜にもかかわらず、大学までレッスンに来ていた。自分が合コンに出ていた昨晩だって、きっと練習に励んでいたに違いない。
このままでは、ますます彼に置いていかれ、手が届かないくらい遠く引き離されてしまう。
それなのに自分はいったい何をしているんだろう? 楽器も持たずに、こんなところまでやって来て。
日曜の九時前だというのに、キャンパスの中では遠く近くさまざまな音色が響いている。
藤芳音大では授業が休みでも夕方まではレッスン室が使えるので、練習に来る学生が多い。
天気がよければ、外で演奏している者もいる。哲朗は、調もその中にいるはずだと思った。
彼女は練習の虫だと聞いている。たとえ休日だろうと、二日酔いでヘロヘロになっていようと、いつもどおりピアノに向かうだろう。
もちろん家で弾く可能性もあるが、来月には学内コンサートを控えていると言っていたし、大学のレッスン室を使うような気がしていた。
というより哲朗は家に戻って着替えた後、いても立ってもいられずにここまで来てしまったのだった。食欲がないせいもあるが、まだ朝食も食べていない。
姿を消した調のことが、気になってしかたがないのだ。
ホテル代のこともあったし、あの場で自分たちの間に何が起きたのか、それを彼女がどう思っているのか、本人に直接確認したかった。
それなのに連絡先がわからない。もちろん家も知らない。哲朗にできるのは、大学に来て調を探すことだけだった。
まずはレッスン室をかたっぱしから覗いてみようと思ったところで、ふと足が止まる。
通常この時期に行われる発表会はオーケストラ形式ではなく、各専攻科から数人が選ばれてソロかアンサンブルの演奏を披露する。
調はベートーヴェンを弾くと言っていたが、曲目は何なのだろう。
「もしかして」
哲朗は夢の中で聴いた『春』のメロディーを思い出した。コンサートで演奏するから、調はホテルでも弾いてみたくなったのかもしれない。
だとすればヴァイオリンソナタなのだから、当然ヴァイオリンのパートを担当する相手がいるはずだった。
それは誰なのだろう? 自分でないことだけは確かだが。
輝く春の野を連想させる、心が浮き立つような調のピアノ。
ほんのさわりを、それも夢うつつで聴いただけだが、あの音を受け止め、さらに高みへと導くことができるヴァイオリニストはそう多くはない。もちろん藤芳音大のレベルはなかなかのものだけれど――。
いったい誰がパートナーを務めるのだろう。
テクニックはもちろんだが、同時に調に負けないくらいのスケールも持ち合わせていなければ、ピアノに圧倒されてヴァイオリンが負けてしまう。
哲朗は眉根を寄せる。気づかぬうちに、強く拳を握りしめていた。調のようなピアニストと組める奏者が心底うらやましかったのだ。
かつては自分だって、そういう演奏家を目指していたはずだった。
華麗なテクニックで音楽を構築するヴィルトゥオーソ(超一流の音楽家)になりたいと、哲朗は小さいころから一途に思い続けてきた。
高校時代までは常に何よりも練習を優先し、友だちからの誘いも断り、女の子とのデートなど考えもしなかった。機会を見つけてはコンサートに足を運び、楽譜を読み込み、CDを聴いて、来る日も来る日もヴァイオリンを弾き続けた。
どんなにつらくても、いつか報われる日が来ると信じていたからだ。けれど――。
「あれ? 椎名くんじゃないか」
誰かに名前を呼ばれ、哲朗はわれに返った。
廊下の向こうから、ヴァイオリンケースを手にした長身の男が歩いてくる。
「珍しいね。日曜に大学で君に会うなんて」
「滝沢……さん」
声をかけてきたのは、一年先輩である滝沢裕也だった。
ふだんからあまり会いたくない相手で、哲朗には、とっさに適当な返事が見つからない。
「椎名くんも練習ですか?」
「あ、いや、今日は……ちょっと用があって」
「そうですか。じゃ、僕は急ぐので失礼」
滝沢は軽く頷いてみせると、足早に横を通り過ぎていった。
端正な顔には余裕たっぷりの笑みが浮かんでいた。おそらく哲朗のことなど、眼中にないのだろう。
ライバルと目されるはずもなかった。事実、彼にはこれまでに何度も敗北を喫しているのだから。
「くそっ」
哲朗は俯いて、きつく唇を噛みしめる。
ふいに強烈な悔しさと情けなさが込み上げてきて、どうしていいかわからなくなった。
滝沢は力のあるヴァイオリニストで、コンクールの入賞歴も多い。
そんな彼が日曜にもかかわらず、大学までレッスンに来ていた。自分が合コンに出ていた昨晩だって、きっと練習に励んでいたに違いない。
このままでは、ますます彼に置いていかれ、手が届かないくらい遠く引き離されてしまう。
それなのに自分はいったい何をしているんだろう? 楽器も持たずに、こんなところまでやって来て。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
【完結】幼馴染に裏切られたので協力者を得て復讐(イチャイチャ)しています。
猫都299
青春
坂上明には小学校から高校二年になった現在まで密かに片想いしていた人がいる。幼馴染の岸谷聡だ。親友の内巻晴菜とはそんな事も話せるくらい仲がよかった。そう思っていた。
ある日知った聡と晴菜の関係。
これは明が過去に募らせてしまった愚かなる純愛へ一矢報いる為、協力者と裏切り返す復讐(イチャイチャ)の物語である。
※2024年8月10日に完結しました! 応援ありがとうございました!(2024.8.10追記)
※小説家になろう、カクヨム、Nolaノベルにも投稿しています。
※主人公は常識的によくない事をしようとしていますので気になる方は読まずにブラウザバックをお願い致します。
※「キスの練習相手は〜」「幼馴染に裏切られたので〜」「ダブルラヴァーズ〜」「やり直しの人生では〜」等は同じ地方都市が舞台です。関連した人物も、たまに登場します。(2024.12.2追記)
※番外編追加中・更新は不定期です。(2025.1.30追記)←番外編も完結しました!(2025.9.11追記)
※【修正版】をベリーズカフェに投稿しています。Nolaノベルでは全話限定公開・修正中です。(2025.10.29追記)
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【完結】好きって言ってないのに、なぜか学園中にバレてる件。
東野あさひ
恋愛
「好きって言ってないのに、なんでバレてるんだよ!?」
──平凡な男子高校生・真嶋蒼汰の一言から、すべての誤解が始まった。
購買で「好きなパンは?」と聞かれ、「好きです!」と答えただけ。
それなのにStarChat(学園SNS)では“告白事件”として炎上、
いつの間にか“七瀬ひよりと両想い”扱いに!?
否定しても、弁解しても、誤解はどんどん拡散。
気づけば――“誤解”が、少しずつ“恋”に変わっていく。
ツンデレ男子×天然ヒロインが織りなす、SNS時代の爆笑すれ違いラブコメ!
最後は笑って、ちょっと泣ける。
#誤解が本当の恋になる瞬間、あなたもきっとトレンド入り。
あの日、幼稚園児を助けたけど、歳の差があり過ぎてその子が俺の運命の人になるなんて気付くはずがない。
NOV
恋愛
俺の名前は鎌田亮二、18歳の普通の高校3年生だ。
中学1年の夏休みに俺は小さい頃から片思いをしている幼馴染や友人達と遊園地に遊びに来ていた。
しかし俺の目の前で大きなぬいぐるみを持った女の子が泣いていたので俺は迷子だと思いその子に声をかける。そして流れで俺は女の子の手を引きながら案内所まで連れて行く事になった。
助けた女の子の名前は『カナちゃん』といって、とても可愛らしい女の子だ。
無事に両親にカナちゃんを引き合わす事ができた俺は安心して友人達の所へ戻ろうとしたが、別れ間際にカナちゃんが俺の太ももに抱き着いてきた。そしてカナちゃんは大切なぬいぐるみを俺にくれたんだ。
だから俺もお返しに小学生の頃からリュックにつけている小さなペンギンのぬいぐるみを外してカナちゃんに手渡した。
この時、お互いの名前を忘れないようにぬいぐるみの呼び名を『カナちゃん』『りょうくん』と呼ぶ約束をして別れるのだった。
この時の俺はカナちゃんとはたまたま出会い、そしてたまたま助けただけで、もう二度とカナちゃんと会う事は無いだろうと思っていたんだ。だから当然、カナちゃんの事を運命の人だなんて思うはずもない。それにカナちゃんの初恋の相手が俺でずっと想ってくれていたなんて考えたことも無かった……
7歳差の恋、共に大人へと成長していく二人に奇跡は起こるのか?
NOVがおおくりする『タイムリープ&純愛作品第三弾(三部作完結編)』今ここに感動のラブストーリーが始まる。
※この作品だけを読まれても普通に面白いです。
関連小説【初恋の先生と結婚する為に幼稚園児からやり直すことになった俺】
【幼馴染の彼に好きって伝える為、幼稚園児からやり直す私】
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる