僕とピアノ姫のソナタ

麻倉とわ

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「うわっ!」

 授業が終わって教室を出た時、少し前を歩く二人組に気づいたのだ。
 ヴァイオリンケースを持った長身の滝沢と、楽譜を抱えた小柄な調。どちらも哲朗には気づかず、楽しそうに何か話している。

 数日ぶりに目にする調は水色のブラウスがよく似合っていて、一瞬たりとも視線をそらすことができない。
 気がつけば、哲朗はその後を必死に追いかけていた。

 どうしてこんなことをしているのか、自分でもよくわからなかったが――。

「あ」

 その時、唐突に理由が思い浮かんだ。

 最近はなんだかいつも落ち着かなかったが、それは誰かを探し続けていたからで、しかもその相手は彼女だったのだ。だから、こうして追いかけている。

(俺は――)

 これから昼休みという時だったが、二人は学食には向かわずに、足早に庭を突っ切っていく。図書館や講堂を通り過ぎても、足を止める気配はない。
 哲朗は彼らの行方と、親密な様子が気になってしかたなかった。

 昼食も取らずに、いったいどこで何をしようというのか。
 もしかして二人は単なる練習パートナー以上の間柄なのだろうか。

 滝沢は男前だし、相当な変人だが調はかわいい。互いに好意を抱いたとしても、別にふしぎではなかった。

 疑惑と妄想に苦しみながら、しかもそんなふうに悶々としていることすら気づかないまま、哲朗は懸命に後を追う。

 だいぶ歩き続けて彼らがたどり着いたのは、今は使われていない小ホールだった。

 そこは古くて座席数も少ないためコンサートに使われることはないが、練習場として常に開放されている。とはいえ敷地の外れにあって不便なので、利用者はそう多くなかった。

 二人は肩を並べるようにして中へ入っていく。哲朗も気づかれないようにその後に続き、ホールの後方に身をひそめた。

 彼らは客席の通路を通って舞台へと向かい、すぐに楽譜を広げて、それぞれ準備を始めた。

 滝沢は弦のチューニングをしながら、しきりと調に話しかけている。一方の調も鍵盤に指を走らせては、柔らかな笑顔でそれに答えていた。

 自分には見せたことのない生き生きとした表情。
 調は滝沢としっかり視線を合わせ、リラックスしているように見える。

 知らず、哲朗の胸はキリキリと痛み始めた。

「そろそろ始めようか、調」
「ええ、裕也くん」
「じゃ、冒頭から」

 哲朗は唇をかみしめ、隠れている椅子の後ろで拳を握りしめた。

 調って――。いきなり呼び捨てか? それも名字じゃなくて名前の方で……いいのか、それで? しかも裕也くんって――。

 親しげな二人の様子がうらやましかった。さらにどういうわけか猛烈に腹が立ってきた。

 この先も、おそらく昼休みの間中、彼らは仲よく練習を続けるのだろう。それを延々と見せつけられるなんて、とてもがまんできそうにない。

「も、もういい!」

 絵に描いたように美しく、いずれはヴィルトゥオーソという輝かしい地位を手に入れるに違いない調と滝沢。

 わざわざここまで追ってきたというのに、哲朗は二人から目をそらして、舞台に背を向けた。これ以上ここにいたら、自分がみじめになるだけだと思った。

 その時だ。

「えっ?」

 身を屈めたまま歩き出そうとしていた哲朗の足が止まった。
 古びたホールに、ふいに伸びやかな音が響いたのだ。

 ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第五番の第一楽章。
 ヴァイオリンが奏でる第一主題と、それを支えるピアノの伴奏が睦み合うように華やかな旋律を紡いでいく。

 哲朗は一歩も動けなくなった。見えない網に絡め取られてしまったみたいに、ただその音色に耳を傾けることしかできない。
 
「あ……」 

 春の息吹のように透明な、優しいメロディーが体を満たしていく。確かに夢の中で聴いた音だった。
 胸に巣食うもやもやしたものが少しずつ溶けて、音と共に流れていくような気さえした。

「くそっ!」

 本当に美しい演奏だった。
 まだほころびはあって完璧とは言えないまでも、心を引きつけられるくっきりとした何かが二人の奏者から放たれている。

「何だよ。何……なんだよ」

 哲朗は慌てて涙を拭った。いつの間にか泣き出していたのだ。

 いくら拭っても、涙は止まらない。最後のコンクール以来、泣いたことなどないはずなのに。

 そこにあったのは本当なら自分のヴァイオリンで奏でたい音、自らの手で描き出したい世界だった。
 いくら背を向けようとしても、絶対に離れられないもの――音楽は今もなお哲朗を魅了し続けていたのだ。

「……負けたよ。降参だ」

 行かなければならないと思った。

 これ以上時間を無駄にはできない。入学以来今日まで、充分過ぎるくらい回り道をしたのだから。

 哲朗は静かに、だが、しっかりした足取りでホールを後にした。
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