16 / 32
第五楽章①
しおりを挟む
哲朗の生活は劇的に変わった。
大学にいる時間が長くなり、授業をさぼらなくなった。
時間を見つけてはレッスン室でヴァイオリンを弾き、連日のように参加していた飲み会や合コンの誘いも断るようになった。今まであえて敬遠していた有名な音楽家のリサイタルにも足を運び始めた。
あれから調とは学内で何度か顔を合わせる機会があった。まともに練習をするようになったせいか、レッスン室が並ぶ特別棟で出会うこともあった。
しかしそのたびに彼女は目ざとく哲朗に気づき、臆病なウサギのように素早く逃げ出してしまう。実際、声をかけるひまさえないほどだった。
哲朗はそのたびに肩をすくめて、彼女を見送った。
今はそうするしかなかった。
無理やりつかまえても、調は怯えるだけだろう。まともに話もできないかもしれない。
あの夜、やはり彼女に何かしてしまったのだろうか? それもこれほど徹底的に避けられるような、とんでもないことを?
(ごめん、真山さん)
哲朗は調の背中に向かって、心の中で謝り続けていた。
そのかわりというわけではないが、練習時間はさらに増えていった。
いくら弾いても追いつかない気がして、ひどく焦ってしまう。めざす音はいつもはるか先にある。
今まで遊びほうけて無駄にした時間が悔やまれてならなかった。
ある日の夕方近く、哲朗は例のホールに足を運んでみる気になった。レッスン室ではなく、調と滝沢がいた舞台に一度立ってみたいと思ったのだ。
室内楽やオーケストラの発表会で弾いたことはあっても、無人とはいえ客席を前にしてソロ演奏するのは久しぶりだった。高三の時にコンクールで滝沢に負けて以来になる。
哲朗は傘をさして、ホールへと向かった。
その日は朝から細かな雨が降っていて、わざわざ遠く離れた場所に練習に来る者もいないだろうと考えてもいた。
ところがホールのドアを開けた時だった。透明なピアノの音があふれるように響いてきたのだ。
「……真山さん?」
弾いていたのは調だった。そばに滝沢はおらず、ひとりで『春』のピアノパートをさらっている。
どこまでも明るく楽しげなメロディー。
鍵盤に向う調の表情も穏やかだ。それでいてその場の空気は、うかつには声をかけられないほど張りつめていた。
調が変わり者と噂され、みんなから距離を置かれているわけが改めてわかった気がした。
ただ言動がエキセントリックなだけでなく、周囲がそうせずにはいられないくらいに、彼女はすべてをピアノに捧げてきたのだろう。
(恋をしているみたいだ……ピアノに)
鍵盤に向かう真摯な姿は本当に満ち足りて見える。
あの夜はひどくナンパにこだわっていたけれど、そんなことをする必要は少しもないのではないかとさえ思った。
哲朗はヴァイオリンケースを抱えたまま困惑していた。
自分がいることに気づいたら、調はまた慌てて逃げだすだろう。これほど懸命に弾いているのだから、邪魔をしたくはなかった。
しかし退散するべきだと思いながらも、その場を動けない。きらめくようなフレーズに、すっかり囚われてしまったのだ。
哲朗は目を閉じて、流れる音を追う。少しでも長く調のピアノを聴いていたかったのだが――。
「ハ、ハ、ハックション!」
間の抜けた大音量のくしゃみが、いきなりホールに響きわたった。
できることなら息も止めて一切の気配を消したかったのに、哲朗は肝心なところで自分の体に裏切られてしまったのだ。
ピアノの音は止んでいた。調は鍵盤に指をのせたまま、凍りついたようにこちらを見ている。
「す、すみません、真山さん」
「椎名くん」
「あの、たまたま来ただけなんです。邪魔するつもりはないので……あの、本当にごめんなさい。すぐ出て行きますから」
唇を噛んで、哲郎は背を向ける。彼女が自分の前から逃げ去る姿はもう見たくなかった。
「待って、椎名くん」
「えっ?」
哲郎は驚いて振り向いた。調は逃げようとするどころか、自分から声をかけてきたのだ。
「ヴァイオリン……弾くつもりで来たんじゃないの? 今からここで」
「いや、いい。いいんです。真山さんが使ってるし」
「椎名くん!」
「は、はい」
調が椅子から立ち上がった。哲朗はわけもなく気押されて、数歩後ずさってしまう。
「よかったら少し弾いてみてくれない? 私、椎名くんのヴァイオリンが聴いてみたいんだけど」
哲郎は言葉を失った。
「前は全然だったのに、最近よく特別棟で会うわよね。中庭で弾いていることもあったし。椎名くん、練習してるんでしょ? だから音、ちゃんと聴かせてくれないかしら」
大学にいる時間が長くなり、授業をさぼらなくなった。
時間を見つけてはレッスン室でヴァイオリンを弾き、連日のように参加していた飲み会や合コンの誘いも断るようになった。今まであえて敬遠していた有名な音楽家のリサイタルにも足を運び始めた。
あれから調とは学内で何度か顔を合わせる機会があった。まともに練習をするようになったせいか、レッスン室が並ぶ特別棟で出会うこともあった。
しかしそのたびに彼女は目ざとく哲朗に気づき、臆病なウサギのように素早く逃げ出してしまう。実際、声をかけるひまさえないほどだった。
哲朗はそのたびに肩をすくめて、彼女を見送った。
今はそうするしかなかった。
無理やりつかまえても、調は怯えるだけだろう。まともに話もできないかもしれない。
あの夜、やはり彼女に何かしてしまったのだろうか? それもこれほど徹底的に避けられるような、とんでもないことを?
(ごめん、真山さん)
哲朗は調の背中に向かって、心の中で謝り続けていた。
そのかわりというわけではないが、練習時間はさらに増えていった。
いくら弾いても追いつかない気がして、ひどく焦ってしまう。めざす音はいつもはるか先にある。
今まで遊びほうけて無駄にした時間が悔やまれてならなかった。
ある日の夕方近く、哲朗は例のホールに足を運んでみる気になった。レッスン室ではなく、調と滝沢がいた舞台に一度立ってみたいと思ったのだ。
室内楽やオーケストラの発表会で弾いたことはあっても、無人とはいえ客席を前にしてソロ演奏するのは久しぶりだった。高三の時にコンクールで滝沢に負けて以来になる。
哲朗は傘をさして、ホールへと向かった。
その日は朝から細かな雨が降っていて、わざわざ遠く離れた場所に練習に来る者もいないだろうと考えてもいた。
ところがホールのドアを開けた時だった。透明なピアノの音があふれるように響いてきたのだ。
「……真山さん?」
弾いていたのは調だった。そばに滝沢はおらず、ひとりで『春』のピアノパートをさらっている。
どこまでも明るく楽しげなメロディー。
鍵盤に向う調の表情も穏やかだ。それでいてその場の空気は、うかつには声をかけられないほど張りつめていた。
調が変わり者と噂され、みんなから距離を置かれているわけが改めてわかった気がした。
ただ言動がエキセントリックなだけでなく、周囲がそうせずにはいられないくらいに、彼女はすべてをピアノに捧げてきたのだろう。
(恋をしているみたいだ……ピアノに)
鍵盤に向かう真摯な姿は本当に満ち足りて見える。
あの夜はひどくナンパにこだわっていたけれど、そんなことをする必要は少しもないのではないかとさえ思った。
哲朗はヴァイオリンケースを抱えたまま困惑していた。
自分がいることに気づいたら、調はまた慌てて逃げだすだろう。これほど懸命に弾いているのだから、邪魔をしたくはなかった。
しかし退散するべきだと思いながらも、その場を動けない。きらめくようなフレーズに、すっかり囚われてしまったのだ。
哲朗は目を閉じて、流れる音を追う。少しでも長く調のピアノを聴いていたかったのだが――。
「ハ、ハ、ハックション!」
間の抜けた大音量のくしゃみが、いきなりホールに響きわたった。
できることなら息も止めて一切の気配を消したかったのに、哲朗は肝心なところで自分の体に裏切られてしまったのだ。
ピアノの音は止んでいた。調は鍵盤に指をのせたまま、凍りついたようにこちらを見ている。
「す、すみません、真山さん」
「椎名くん」
「あの、たまたま来ただけなんです。邪魔するつもりはないので……あの、本当にごめんなさい。すぐ出て行きますから」
唇を噛んで、哲郎は背を向ける。彼女が自分の前から逃げ去る姿はもう見たくなかった。
「待って、椎名くん」
「えっ?」
哲郎は驚いて振り向いた。調は逃げようとするどころか、自分から声をかけてきたのだ。
「ヴァイオリン……弾くつもりで来たんじゃないの? 今からここで」
「いや、いい。いいんです。真山さんが使ってるし」
「椎名くん!」
「は、はい」
調が椅子から立ち上がった。哲朗はわけもなく気押されて、数歩後ずさってしまう。
「よかったら少し弾いてみてくれない? 私、椎名くんのヴァイオリンが聴いてみたいんだけど」
哲郎は言葉を失った。
「前は全然だったのに、最近よく特別棟で会うわよね。中庭で弾いていることもあったし。椎名くん、練習してるんでしょ? だから音、ちゃんと聴かせてくれないかしら」
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる