25 / 32
⑤
しおりを挟む
ところが哲朗が謝罪に出向く前に、事態は大きく動くことになった。
調のスマートフォンに真山教授から連絡が入り、二人そろって特別棟にあるレッスン室に呼びだされたのだ。
何がなんだかわからないまま駆けつけると、その場には滝沢が待っていた。
しかもいかにも思わせぶりな表情をしていて、哲朗と調は顔を見合わせてしまう。
何をどんなふうに伝えたかはわからないが、おそらく彼は二人のことを真山教授に言いつけたのだろう。
いきなりの呼び出しは断罪のためだ。そうでなければ授業では関わりがない哲朗までが同伴を求められるはずがない。
「この卑怯者」
哲朗の悔しげな呟きは涼しい笑顔で無視された。
それでも殴りかからずに済んだのは、調が必死に引き留めてくれたからだった。
その時、ドアが開いて、真山教授が軽快な足取りで入ってきた。
「申しわけない。お待たせしたね」
とたんに隣に立つ調の表情が引きしまる。
――家では父さんと『しーちゃん』って呼び合うし、仲もいいけど、大学に一歩でも入ったら先生と真山なんだ。
調は交換日記で、父親との関係をそんなふうにぼやいていた。
四歳でピアノを始めた時からの決まりごとは骨の髄まで染みついているらしい。
真山教授は調と同じく小柄だったが、娘と似ているのはそこだけだった。浅黒く日焼けして、針金のように引き締まっており、動きも敏捷だ。
間近で見るのは初めてだったので、その若々しい印象に哲朗は少し驚いた。
彼の言動からわからず屋の頑固老人みたいに思い込んでいたのだ。
「えっと、君が椎名くん?」
「はい、はじめまして」
「どうも。娘がお世話になりまして」
「い、いえ。こちらこそ」
ごくふつうの挨拶に、哲朗も毒気を抜かれて頭を下げた。
教授であると同時に、好きな相手の父親でもある。できれば、いい印象を残したい。だが今はそれより――。
「あ、あの、真山先生。こ、このたびはたいへん申しわけありませんでした!」
哲朗はいきなり膝をついて、床に両手をつき、深々と頭を下げた。
「椎名くん?」
驚いた調も慌てて膝をつく。
「謝らないで、椎名くん!」
体に手をかけ、なんとか抱き起こそうとするが、哲朗はそれに抗い、今度は滝沢に向かって頭を下げた。
そうだ。さっきまでは彼にも謝るつもりだったのだ。二人のことを教授にチクッた許せないヤツではあるけれど。
「滝沢さん、さっきは申しわけありませんでした。心からお詫びしますから、どうか真山さんとのデュオは続けてください!」
「椎名くん、やめて!」
調が必死にとりすがってきたが、哲朗はなおも頭を上げなかった。
このやり方が正解かどうかなんてわからない。ただ、他には何も思い浮かばないのだ。
ふいに近づいてくる足音がして、この場にはそぐわない穏やかな声が落ちてきた。
「椎名くん、君は僕に謝らなきゃいけないようなことをしたの?」
「……えっ?」
哲朗が驚いて顔を上げると、声の主とまともに目が合った。
「滝沢くんから君と調、いや、真山のことを聞いたけど、それ自体は問題視していないよ。真山はむしろ前より熱心なくらいだし、最近は音に艶が出てきたからね」
「あの……」
「ま、そういうのはもういいから、今日は君の音を聴かせてくれないかな。ヴァイオリン、持ってきてるよね? せっかくここには二人のヴァイオリニストがいるわけだし、ソナタを聴き比べてみたいんだ」
真山教授はいたってまじめな顔つきで、「スプリングソナタを頼む。第一楽章だけでいいから」とつけ加えた。
聴き比べ――滝沢と競ってみせろということだろうか。
「だけど、とうさ――いえ、真山先生」
調が引っくり返った声で呼びかけた。彼女も相当焦っているようだ。長年の鉄の不文律にもかかわらず、学内で「父さん」と言いかけたのだから。
「椎名くんと合わせたことは一度も――」
「真山なら、どんな相手にも合わせられるさ。さて、滝沢くんはどうする? 腱鞘炎の方、大丈夫?」
真山教授から視線を向けられると、滝沢は目を泳がせながらも頷いた。
「だ、大丈夫です」
「決まりだな。じゃ、椎名くんから始めてもらおうか。真山、ピアノ弾いてあげて」
「は、はい」
謝罪するはずだったのに、なぜか調と共に真山教授の前で演奏をすることになってしまった。
今ひとつ事態についていけないまま、哲朗と調はそそくさと準備を始めた。
やがて哲朗はなんとか準備を終えると、譜面台の前に立った。
ピアノの方に目をやると、調がぎこちない笑顔で頷いてくれた。
いつか二人で奏でてみたいと思った曲だったが、まさかこんな形で実現するとは思わなかった。これまで美優とは何度も合わせたし、さらに調はとびきりの名手だが、いきなりではうまくいくはずもない。
けれど哲朗は自分も微笑んでみせる。
いい方法だと思った。
真山教授は同じ曲を弾かせることで、自分と滝沢との差異を思い知らせ、引導を渡そうとしているのだろう。へたな説教より、よほど効果的な方法だ。
何度も負け続けた相手に、今日はついにとどめを刺されるのだ。またしばらく、きつい時間が続くことになる。
それでも哲朗はもう前みたいに逃げ出すつもりはなかった。こんなことになったのは全部自分のせいなのだから。
「お願いします」
正面の椅子に座った真山教授に、一礼する。
哲朗はひとつ息を吸うと、背筋を伸ばして、ヴァイオリンをかまえた。
調のスマートフォンに真山教授から連絡が入り、二人そろって特別棟にあるレッスン室に呼びだされたのだ。
何がなんだかわからないまま駆けつけると、その場には滝沢が待っていた。
しかもいかにも思わせぶりな表情をしていて、哲朗と調は顔を見合わせてしまう。
何をどんなふうに伝えたかはわからないが、おそらく彼は二人のことを真山教授に言いつけたのだろう。
いきなりの呼び出しは断罪のためだ。そうでなければ授業では関わりがない哲朗までが同伴を求められるはずがない。
「この卑怯者」
哲朗の悔しげな呟きは涼しい笑顔で無視された。
それでも殴りかからずに済んだのは、調が必死に引き留めてくれたからだった。
その時、ドアが開いて、真山教授が軽快な足取りで入ってきた。
「申しわけない。お待たせしたね」
とたんに隣に立つ調の表情が引きしまる。
――家では父さんと『しーちゃん』って呼び合うし、仲もいいけど、大学に一歩でも入ったら先生と真山なんだ。
調は交換日記で、父親との関係をそんなふうにぼやいていた。
四歳でピアノを始めた時からの決まりごとは骨の髄まで染みついているらしい。
真山教授は調と同じく小柄だったが、娘と似ているのはそこだけだった。浅黒く日焼けして、針金のように引き締まっており、動きも敏捷だ。
間近で見るのは初めてだったので、その若々しい印象に哲朗は少し驚いた。
彼の言動からわからず屋の頑固老人みたいに思い込んでいたのだ。
「えっと、君が椎名くん?」
「はい、はじめまして」
「どうも。娘がお世話になりまして」
「い、いえ。こちらこそ」
ごくふつうの挨拶に、哲朗も毒気を抜かれて頭を下げた。
教授であると同時に、好きな相手の父親でもある。できれば、いい印象を残したい。だが今はそれより――。
「あ、あの、真山先生。こ、このたびはたいへん申しわけありませんでした!」
哲朗はいきなり膝をついて、床に両手をつき、深々と頭を下げた。
「椎名くん?」
驚いた調も慌てて膝をつく。
「謝らないで、椎名くん!」
体に手をかけ、なんとか抱き起こそうとするが、哲朗はそれに抗い、今度は滝沢に向かって頭を下げた。
そうだ。さっきまでは彼にも謝るつもりだったのだ。二人のことを教授にチクッた許せないヤツではあるけれど。
「滝沢さん、さっきは申しわけありませんでした。心からお詫びしますから、どうか真山さんとのデュオは続けてください!」
「椎名くん、やめて!」
調が必死にとりすがってきたが、哲朗はなおも頭を上げなかった。
このやり方が正解かどうかなんてわからない。ただ、他には何も思い浮かばないのだ。
ふいに近づいてくる足音がして、この場にはそぐわない穏やかな声が落ちてきた。
「椎名くん、君は僕に謝らなきゃいけないようなことをしたの?」
「……えっ?」
哲朗が驚いて顔を上げると、声の主とまともに目が合った。
「滝沢くんから君と調、いや、真山のことを聞いたけど、それ自体は問題視していないよ。真山はむしろ前より熱心なくらいだし、最近は音に艶が出てきたからね」
「あの……」
「ま、そういうのはもういいから、今日は君の音を聴かせてくれないかな。ヴァイオリン、持ってきてるよね? せっかくここには二人のヴァイオリニストがいるわけだし、ソナタを聴き比べてみたいんだ」
真山教授はいたってまじめな顔つきで、「スプリングソナタを頼む。第一楽章だけでいいから」とつけ加えた。
聴き比べ――滝沢と競ってみせろということだろうか。
「だけど、とうさ――いえ、真山先生」
調が引っくり返った声で呼びかけた。彼女も相当焦っているようだ。長年の鉄の不文律にもかかわらず、学内で「父さん」と言いかけたのだから。
「椎名くんと合わせたことは一度も――」
「真山なら、どんな相手にも合わせられるさ。さて、滝沢くんはどうする? 腱鞘炎の方、大丈夫?」
真山教授から視線を向けられると、滝沢は目を泳がせながらも頷いた。
「だ、大丈夫です」
「決まりだな。じゃ、椎名くんから始めてもらおうか。真山、ピアノ弾いてあげて」
「は、はい」
謝罪するはずだったのに、なぜか調と共に真山教授の前で演奏をすることになってしまった。
今ひとつ事態についていけないまま、哲朗と調はそそくさと準備を始めた。
やがて哲朗はなんとか準備を終えると、譜面台の前に立った。
ピアノの方に目をやると、調がぎこちない笑顔で頷いてくれた。
いつか二人で奏でてみたいと思った曲だったが、まさかこんな形で実現するとは思わなかった。これまで美優とは何度も合わせたし、さらに調はとびきりの名手だが、いきなりではうまくいくはずもない。
けれど哲朗は自分も微笑んでみせる。
いい方法だと思った。
真山教授は同じ曲を弾かせることで、自分と滝沢との差異を思い知らせ、引導を渡そうとしているのだろう。へたな説教より、よほど効果的な方法だ。
何度も負け続けた相手に、今日はついにとどめを刺されるのだ。またしばらく、きつい時間が続くことになる。
それでも哲朗はもう前みたいに逃げ出すつもりはなかった。こんなことになったのは全部自分のせいなのだから。
「お願いします」
正面の椅子に座った真山教授に、一礼する。
哲朗はひとつ息を吸うと、背筋を伸ばして、ヴァイオリンをかまえた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
月弥総合病院
御月様(旧名 僕君☽☽︎)
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
【完結】幼馴染に裏切られたので協力者を得て復讐(イチャイチャ)しています。
猫都299
青春
坂上明には小学校から高校二年になった現在まで密かに片想いしていた人がいる。幼馴染の岸谷聡だ。親友の内巻晴菜とはそんな事も話せるくらい仲がよかった。そう思っていた。
ある日知った聡と晴菜の関係。
これは明が過去に募らせてしまった愚かなる純愛へ一矢報いる為、協力者と裏切り返す復讐(イチャイチャ)の物語である。
※2024年8月10日に完結しました! 応援ありがとうございました!(2024.8.10追記)
※小説家になろう、カクヨム、Nolaノベルにも投稿しています。
※主人公は常識的によくない事をしようとしていますので気になる方は読まずにブラウザバックをお願い致します。
※「キスの練習相手は〜」「幼馴染に裏切られたので〜」「ダブルラヴァーズ〜」「やり直しの人生では〜」等は同じ地方都市が舞台です。関連した人物も、たまに登場します。(2024.12.2追記)
※番外編追加中・更新は不定期です。(2025.1.30追記)←番外編も完結しました!(2025.9.11追記)
※【修正版】をベリーズカフェに投稿しています。Nolaノベルでは全話限定公開・修正中です。(2025.10.29追記)
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写はすべて架空です。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる