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はじめに考えたのは、一途に春の喜びを歌い上げることだった。軽やかに、愛らしく、音を紡いでいけば、それなりの演奏はできるはずだ。
しかし調の優しいピアノを聴いているうちに、哲朗は初めて会った日に、ホテルで言われたことを思い出した。あれはかなり妙ななりゆきだったけれど――。
――私は春だけじゃなく、夏も秋も冬もそれぞれにすばらしいと思うわよ。
確かに四季には独特の鮮やかな彩りがある。
哲朗は音を追いかけながら、夏の海辺や秋の高い空、冬の雪景色を思い浮かべた。それぞれの季節の中で、楽しそうに笑っている調の姿も。
ばてそうなほど暑かったり、うんざりするくらい寒かったり、決して楽な時ばかりではない。でも、だからこそ光に満ちた春の到来はすばらしいのだ。
ヴァイオリンを支えるように、調のピアノが力強い音を響かせる。
いよいよ第一楽章の聴かせどころに入ろうとした時だった。
大きな拍手の音が、いきなり二人のソナタを遮ったのだ。
「はい、ここまで」
「あ、あの
「お疲れさま、椎名くん。じゃ、次は滝沢くん、頼みます」
真山教授は感想を言うこともなく、哲朗を追い立てる。
まさにこれからという場所での中断だった。時間だって、五分もたっていない。
もう聴いても意味がないということだろうか。自分の演奏はそんなにも価値がないと――。
「し、椎名くん」
調の不安げな声に、哲朗はようやくわれ返った。
視界の端で、冷笑を浮かべた滝沢がヴァイオリンをかまえているのが見えた。
「あ、す、すみません」
哲朗は慌てて譜面台を離れると、部屋の片隅に立った。
結局、滝沢とは競い合いにすらならなかったのだ。
ずいぶんとシリアスな状況にいる自覚はあるのに、心はふしぎに静かだった。
調と滝沢の演奏が始まって何度もアイコンタクトを交わしていても、もう気持ちは波立たない。
美しい音のただ中にいられるだけで、自分は幸福だと思えた。
この音色を遮り、傷つけるようなことは絶対にしたくない。消えろというならすぐさま消えるし、それに異議を唱える気もない。
鍵盤に指を走らせる調を見ながら、哲朗は彼と滝沢が描く春に身を委ね続けた。
最終的に滝沢は第一楽章すべてを演奏した。
本人も手ごたえを感じているのか、頬を紅潮させ、満足げな様子だ。
「お疲れさま、滝沢くん。それに真山も。とてもいい演奏だったよ」
真山教授も拍手をしながら、笑顔で滝沢を労っている。
哲朗との勝負はついたのだ、それも徹底的に。
しかし真山教授は、なおも手を叩きながら滝沢に問いかけた。
「君は今、何を考えながら演奏していた?」
「えっ?」
突然の質問に滝沢は一瞬うろたえた。だが数秒後には余裕のある笑みを浮かべてみせた。
「いや、もう学内コンサートも間近だから、仕上げのことを考えながら弾いておりました」
「そうか。では、椎名くんは?」
今度は哲朗が慌てる番だった。まさか自分まで同じことを訊かれるとは思わなかった。
「あ、あの、俺は夏とか秋や冬を思い出していました」
「夏? だって椎名くん、これは春の曲だよ」
「あ、はい。そうなんですけど……四季ってそれぞれいいなって思うし、夏や冬があるからこそ、春のすばらしさが際立つっていうか」
もともとは調が言っていたことだったが、今は素直にそう思えた。
「あ、でも、これ、実は真山さんが俺に言っていたことですから」
「なるほど」
真山教授は苦笑いすると、娘に「お前らしいな」と声をかけた。
しかし調の優しいピアノを聴いているうちに、哲朗は初めて会った日に、ホテルで言われたことを思い出した。あれはかなり妙ななりゆきだったけれど――。
――私は春だけじゃなく、夏も秋も冬もそれぞれにすばらしいと思うわよ。
確かに四季には独特の鮮やかな彩りがある。
哲朗は音を追いかけながら、夏の海辺や秋の高い空、冬の雪景色を思い浮かべた。それぞれの季節の中で、楽しそうに笑っている調の姿も。
ばてそうなほど暑かったり、うんざりするくらい寒かったり、決して楽な時ばかりではない。でも、だからこそ光に満ちた春の到来はすばらしいのだ。
ヴァイオリンを支えるように、調のピアノが力強い音を響かせる。
いよいよ第一楽章の聴かせどころに入ろうとした時だった。
大きな拍手の音が、いきなり二人のソナタを遮ったのだ。
「はい、ここまで」
「あ、あの
「お疲れさま、椎名くん。じゃ、次は滝沢くん、頼みます」
真山教授は感想を言うこともなく、哲朗を追い立てる。
まさにこれからという場所での中断だった。時間だって、五分もたっていない。
もう聴いても意味がないということだろうか。自分の演奏はそんなにも価値がないと――。
「し、椎名くん」
調の不安げな声に、哲朗はようやくわれ返った。
視界の端で、冷笑を浮かべた滝沢がヴァイオリンをかまえているのが見えた。
「あ、す、すみません」
哲朗は慌てて譜面台を離れると、部屋の片隅に立った。
結局、滝沢とは競い合いにすらならなかったのだ。
ずいぶんとシリアスな状況にいる自覚はあるのに、心はふしぎに静かだった。
調と滝沢の演奏が始まって何度もアイコンタクトを交わしていても、もう気持ちは波立たない。
美しい音のただ中にいられるだけで、自分は幸福だと思えた。
この音色を遮り、傷つけるようなことは絶対にしたくない。消えろというならすぐさま消えるし、それに異議を唱える気もない。
鍵盤に指を走らせる調を見ながら、哲朗は彼と滝沢が描く春に身を委ね続けた。
最終的に滝沢は第一楽章すべてを演奏した。
本人も手ごたえを感じているのか、頬を紅潮させ、満足げな様子だ。
「お疲れさま、滝沢くん。それに真山も。とてもいい演奏だったよ」
真山教授も拍手をしながら、笑顔で滝沢を労っている。
哲朗との勝負はついたのだ、それも徹底的に。
しかし真山教授は、なおも手を叩きながら滝沢に問いかけた。
「君は今、何を考えながら演奏していた?」
「えっ?」
突然の質問に滝沢は一瞬うろたえた。だが数秒後には余裕のある笑みを浮かべてみせた。
「いや、もう学内コンサートも間近だから、仕上げのことを考えながら弾いておりました」
「そうか。では、椎名くんは?」
今度は哲朗が慌てる番だった。まさか自分まで同じことを訊かれるとは思わなかった。
「あ、あの、俺は夏とか秋や冬を思い出していました」
「夏? だって椎名くん、これは春の曲だよ」
「あ、はい。そうなんですけど……四季ってそれぞれいいなって思うし、夏や冬があるからこそ、春のすばらしさが際立つっていうか」
もともとは調が言っていたことだったが、今は素直にそう思えた。
「あ、でも、これ、実は真山さんが俺に言っていたことですから」
「なるほど」
真山教授は苦笑いすると、娘に「お前らしいな」と声をかけた。
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