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「だから楽しみましょう」
「えっ?」
「私は椎名くんとこうして演奏できることが、本当にうれしいの。今日は一緒に楽しく弾きましょう」
調は微笑んでいた。
決して作り笑いではなく、メガネの奥の瞳もキラキラと輝いている。
「真山さん」
ステージマネージャーや機材の調整係がいるので、舞台袖はいつもそれなりにごたついている。
それなのに一瞬、二人の周りには誰もいなくなった。
「私たち、絶対にいい演奏ができるから」
調が右手を伸ばして哲朗の後頭部に回した。そのまま優しく引き寄せられる。
「信じて、椎名くん」
あたたかく柔らかな唇が哲朗にそっと触れて、素早く離れていく。
まるで春風が唇の上を通り過ぎていったみたいだった。
「真山さん、椎名さん、次、出番です!」
哲朗はステージマネージャーの声でわれに返った。
(今、俺たちって――?)
調は頬を染めて、わずかに視線をそらす。
キスしてくれたのだ。不安に怯え、情けないくらい取り乱している自分のために。
「あ、ありが――」
「行こう、椎名くん」
「あ、うん」
アンコールの挨拶を終えて、奏者が戻ってきた。それと入れ替わるように、哲朗は調と一緒に舞台へと足を踏み出した。
鳴り響く拍手の中、中央に立って客席に礼をする。
調は少し後方で、ピアノの横に立っていた。
今日は美優と一緒に両親も来ている。会場は学生や教師陣で満席だし、その中には滝沢もいるはずだった。もちろん真山教授も最前列中央に控えている。
彼らの前で本当に満足なパフォーマンスができるだろうか、再び音楽に挑戦すると決めた時からそれほど時間がたってはいないのに。
今にも指先が震えだしそうで、思わず拳を握ってしまう。
その時だった。
「椎名くん」
声をかけられて、哲朗はピアノの方を振り向く。
調は柔らかな笑みを浮かべていた。
(そうだ!)
哲朗は目をしばたたく。
自分は彼女と音を重ねてみたいと、ずっと望んでいたはずだった。
はじめは滝沢と調がとても遠くに見えて、少しでも彼らに近づこうとして改めてヴァイオリンに取り組みだしたのだ。
合コンの席で、ホテルの部屋で、あの小さなホールで、出会った日から調が見せてくれたいくつもの姿が脳裏をよぎった。
おかしくて、頑固で、一生懸命で、かわいくて、自分にとっては何ものにも代えがたい相手――その調と、とうとう一緒に演奏できるのだ。
「楽しもう、調」
哲朗は無意識に名字ではなく、調と呼んでいた。
一瞬、調の瞳が驚いたように揺れたが、すぐに大きく頷いてくれた。
アイコンタクトを交わし、静かに呼吸を合わせる。と同時に、二人は手を取り合うように『春』の世界へ飛び出していった。
最初に第一主題を弾くのはヴァイオリンの哲朗だ。
明るく軽やかな主旋律をそよ風のような調のピアノが支え、二人は交互に主題を奏でながら美しいソナタを織り上げていく。
優しい風が甘い花の匂いを運び、見上げる空は透明なパステルブルーだ。楽しげな小鳥のさえずりが聞こえてきそうな、穏やかで幸福感に満ちた春――二人で描く曲は、いつか夢の中で聴いたものよりさらに華やいでいた。
調がいてくれるからだ、と哲朗は思った。
彼女の音を追いながら、自分のヴァイオリンを存分に歌わせる。
本当に満ち足りていて、もしかしたらこのひと時を堪能するために、幼い日にヴァイオリンを手にしたのではないかとさえ思った。
しかし体の隅々まで満たされているはずなのに、一方では強烈な飢えを覚えてもいた。
最後にひとつだけ残った、けれども絶対に欠くことのできないピース――哲朗にとって、それは調自身だったのだ。
「えっ?」
「私は椎名くんとこうして演奏できることが、本当にうれしいの。今日は一緒に楽しく弾きましょう」
調は微笑んでいた。
決して作り笑いではなく、メガネの奥の瞳もキラキラと輝いている。
「真山さん」
ステージマネージャーや機材の調整係がいるので、舞台袖はいつもそれなりにごたついている。
それなのに一瞬、二人の周りには誰もいなくなった。
「私たち、絶対にいい演奏ができるから」
調が右手を伸ばして哲朗の後頭部に回した。そのまま優しく引き寄せられる。
「信じて、椎名くん」
あたたかく柔らかな唇が哲朗にそっと触れて、素早く離れていく。
まるで春風が唇の上を通り過ぎていったみたいだった。
「真山さん、椎名さん、次、出番です!」
哲朗はステージマネージャーの声でわれに返った。
(今、俺たちって――?)
調は頬を染めて、わずかに視線をそらす。
キスしてくれたのだ。不安に怯え、情けないくらい取り乱している自分のために。
「あ、ありが――」
「行こう、椎名くん」
「あ、うん」
アンコールの挨拶を終えて、奏者が戻ってきた。それと入れ替わるように、哲朗は調と一緒に舞台へと足を踏み出した。
鳴り響く拍手の中、中央に立って客席に礼をする。
調は少し後方で、ピアノの横に立っていた。
今日は美優と一緒に両親も来ている。会場は学生や教師陣で満席だし、その中には滝沢もいるはずだった。もちろん真山教授も最前列中央に控えている。
彼らの前で本当に満足なパフォーマンスができるだろうか、再び音楽に挑戦すると決めた時からそれほど時間がたってはいないのに。
今にも指先が震えだしそうで、思わず拳を握ってしまう。
その時だった。
「椎名くん」
声をかけられて、哲朗はピアノの方を振り向く。
調は柔らかな笑みを浮かべていた。
(そうだ!)
哲朗は目をしばたたく。
自分は彼女と音を重ねてみたいと、ずっと望んでいたはずだった。
はじめは滝沢と調がとても遠くに見えて、少しでも彼らに近づこうとして改めてヴァイオリンに取り組みだしたのだ。
合コンの席で、ホテルの部屋で、あの小さなホールで、出会った日から調が見せてくれたいくつもの姿が脳裏をよぎった。
おかしくて、頑固で、一生懸命で、かわいくて、自分にとっては何ものにも代えがたい相手――その調と、とうとう一緒に演奏できるのだ。
「楽しもう、調」
哲朗は無意識に名字ではなく、調と呼んでいた。
一瞬、調の瞳が驚いたように揺れたが、すぐに大きく頷いてくれた。
アイコンタクトを交わし、静かに呼吸を合わせる。と同時に、二人は手を取り合うように『春』の世界へ飛び出していった。
最初に第一主題を弾くのはヴァイオリンの哲朗だ。
明るく軽やかな主旋律をそよ風のような調のピアノが支え、二人は交互に主題を奏でながら美しいソナタを織り上げていく。
優しい風が甘い花の匂いを運び、見上げる空は透明なパステルブルーだ。楽しげな小鳥のさえずりが聞こえてきそうな、穏やかで幸福感に満ちた春――二人で描く曲は、いつか夢の中で聴いたものよりさらに華やいでいた。
調がいてくれるからだ、と哲朗は思った。
彼女の音を追いながら、自分のヴァイオリンを存分に歌わせる。
本当に満ち足りていて、もしかしたらこのひと時を堪能するために、幼い日にヴァイオリンを手にしたのではないかとさえ思った。
しかし体の隅々まで満たされているはずなのに、一方では強烈な飢えを覚えてもいた。
最後にひとつだけ残った、けれども絶対に欠くことのできないピース――哲朗にとって、それは調自身だったのだ。
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