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第七楽章①
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会場は満席で、後方には立見も出ていた。
学内コンサートとはいえ藤芳音大のそれは各科のホープがそろう演奏会なので、外部からわざわざ足を運ぶ客も多い。
すでにひと組が演奏を終え、すぐ前のひと組も華やかなフィナーレに入っていた。次に舞台に立つのが哲朗と調のデュオだ。
観客がいるので、今日は二人とも正装で、哲朗はダークスーツ。調は紺色のワンピースを着ていた。
シンプルなデザインが彼女の清楚な美貌を引き立てているが、哲朗にはそれをほめる余裕もない。
「いよいよね」
「あ……う、うん」
調に声をかけられ、哲朗はぎこちなく頷く。
過去に参加したコンクールではいつもリラックスしていたのに、今日は信じられないくらい緊張していた。
「大丈夫よ、椎名くん。昨日のゲネプロだってうまくいったじゃない」
「まあ……そうなんだけど」
実のところ、滝沢の交代はそれほど問題にならなかった。
哲朗が師事しているヴァイオリンの教授も全面的にフォローしてくれて、準備期間は短かったものの、曲もなんとか人前に出せる程度に仕上がった。
それなのに哲朗は不安でしかたがないのだ。
今回は暗譜ではないからメモリースリップの心配はないし、ヴァイオリンソナタの第五番は超絶技巧満載の難曲というわけでもない。
けれど哲朗はどうにも落ち着かず、ため息を繰り返してしまう。
ひとりじゃないからだと思った。
調と一緒だから、もし失敗したら彼女にも迷惑をかけてしまう。それが怖かった。
出演が決まってからは、自分でもこれ以上できないくらいに練習したと思う。アンサンブルの指導をしてくれた教授もOKを出してくれたし、成功する自信だってある。
それでもライブの演奏は水ものだ。哲朗は万一のことを考えずにはいられない。
結果、本当なら調の隣にいるべきなのは自分ではなくて滝沢なのにとか、調のピアノには彼のヴァイオリンの方が合うんじゃないかとか、しかたのないことばかり次々と思いついてしまうのだった。
「椎名くん」
とうとう哲朗は、調に名前を呼ばれただけで飛び上がってしまった。
「ねえ、そんなに心配することないってば」
「ごめん、真山さん。俺、なんかひとりでテンパッちゃって。こういう場って、久しぶりだから」
「本当に大丈夫よ」
「だけど」
「私、椎名くんの音を知っているもの。前に日記にも書いたでしょ? 高校の時に、コンクールでブラームスを聴いたって」
「でも、あれはずいぶん昔だし」
「こうなる前に……椎名くんが急にまじめになってから、私、何度か学内であなたが練習しているのを聴いたの。あの時のブラームスみたいな音だった」
励ますような力強い声音に、哲朗は大きく目を見開く。
「一番好きな作曲家はブラームス。そうでしょ? さすがに好きなだけあって、ほんとにすてきな演奏だった」
「……ありがとう」
「それにベートーヴェンも好きって書いてあったよね」
「う、うん」
日記を始め、最初に訊かれた質問の答え――そんな他愛ないやり取りを、調はちゃんと覚えていてくれたのだ。
学内コンサートとはいえ藤芳音大のそれは各科のホープがそろう演奏会なので、外部からわざわざ足を運ぶ客も多い。
すでにひと組が演奏を終え、すぐ前のひと組も華やかなフィナーレに入っていた。次に舞台に立つのが哲朗と調のデュオだ。
観客がいるので、今日は二人とも正装で、哲朗はダークスーツ。調は紺色のワンピースを着ていた。
シンプルなデザインが彼女の清楚な美貌を引き立てているが、哲朗にはそれをほめる余裕もない。
「いよいよね」
「あ……う、うん」
調に声をかけられ、哲朗はぎこちなく頷く。
過去に参加したコンクールではいつもリラックスしていたのに、今日は信じられないくらい緊張していた。
「大丈夫よ、椎名くん。昨日のゲネプロだってうまくいったじゃない」
「まあ……そうなんだけど」
実のところ、滝沢の交代はそれほど問題にならなかった。
哲朗が師事しているヴァイオリンの教授も全面的にフォローしてくれて、準備期間は短かったものの、曲もなんとか人前に出せる程度に仕上がった。
それなのに哲朗は不安でしかたがないのだ。
今回は暗譜ではないからメモリースリップの心配はないし、ヴァイオリンソナタの第五番は超絶技巧満載の難曲というわけでもない。
けれど哲朗はどうにも落ち着かず、ため息を繰り返してしまう。
ひとりじゃないからだと思った。
調と一緒だから、もし失敗したら彼女にも迷惑をかけてしまう。それが怖かった。
出演が決まってからは、自分でもこれ以上できないくらいに練習したと思う。アンサンブルの指導をしてくれた教授もOKを出してくれたし、成功する自信だってある。
それでもライブの演奏は水ものだ。哲朗は万一のことを考えずにはいられない。
結果、本当なら調の隣にいるべきなのは自分ではなくて滝沢なのにとか、調のピアノには彼のヴァイオリンの方が合うんじゃないかとか、しかたのないことばかり次々と思いついてしまうのだった。
「椎名くん」
とうとう哲朗は、調に名前を呼ばれただけで飛び上がってしまった。
「ねえ、そんなに心配することないってば」
「ごめん、真山さん。俺、なんかひとりでテンパッちゃって。こういう場って、久しぶりだから」
「本当に大丈夫よ」
「だけど」
「私、椎名くんの音を知っているもの。前に日記にも書いたでしょ? 高校の時に、コンクールでブラームスを聴いたって」
「でも、あれはずいぶん昔だし」
「こうなる前に……椎名くんが急にまじめになってから、私、何度か学内であなたが練習しているのを聴いたの。あの時のブラームスみたいな音だった」
励ますような力強い声音に、哲朗は大きく目を見開く。
「一番好きな作曲家はブラームス。そうでしょ? さすがに好きなだけあって、ほんとにすてきな演奏だった」
「……ありがとう」
「それにベートーヴェンも好きって書いてあったよね」
「う、うん」
日記を始め、最初に訊かれた質問の答え――そんな他愛ないやり取りを、調はちゃんと覚えていてくれたのだ。
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