第八皇子は人質王子を幸福にしたい

アオウミガメ

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第壱部-Ⅲ:ぼくのきれいな人たち

20.紫鷹 寝る前の時間

「おうじは、ぼく?」
「いや、これは別の王子。日向のことじゃない」
「ひなたは、ぼくのなまえ。おうじは、ぼくのきまり。ちがう?」
「うーん、そうなんだけど、何て言ったらわかるかなあ」

俺の膝に上半身を乗り出してこちらを見上げた日向が、眉間にシワを寄せる。
黒目部分が大きくなって、白目が消え、すごい表情になっている。


ああ、混乱してる。
何だ、その顔。そんな表情ができるようになったのか。
初めて見たぞ。可愛いな。


いやしかし、難しい。いろんな意味で。
言葉を覚えることに熱心な日向のために、最近は毎晩絵本を読んでやることにしている。
就寝前の時間、日向の部屋を訪れ、ベッドに片足を乗せると、日向はすぐに寄ってくる。大抵は全身を布団に包んで上半身を俺の膝に乗せ、絵本を見下ろす。

ここ数日は、青空(そら)が持ってきたお伽話だ。
王子とそっくりの少年が、入れ変わる話。
帝国の子どもなら、誰でも知っているし、芝居や歌にもなっている、なじみある話。

だが、一向にページが進まない。

「王子ってのは役職で、名前じゃない。」
「やくしょく、は、なに?」
「えええ……役職、役職って何だろうな。周りが決めたことかな。お前は王子だって、みんなが決めたら、その人は王子。日向のことも、みんなが王子って決めたんだろ。」
「うん、きまり。」

何だ、その顔。
納得したような、してないような複雑な顔。
さっきと全然ちがうじゃないか。こんなに表情が変わるようになったのか。


おそらく、離宮の外の者にはわからないほどの些細な変化。だが、ものすごい進歩だ。
話せる言葉も増えた。
舌足らずなのは相変わらずだが、聞き取りやすくなった。
離宮へきたばかりの頃も、会話に耳を傾けている気配を感じていたが、本当に一生懸命聞いて、学んでいる。

毎日毎日新しい変化を見るたび、抱きしめて褒めたくなる。
それを理性で押さえ込むのは、本当に大変だ。
いやー難しい。


あーあ
阿呆なことを考えていたら、ぷるぷる震え出したじゃないか。
限界か。惜しい。


「日向、今日は終いにしよう、」
「んんー、おうじは、なまえとちがう?」
「そ、日向は王子って役職だから、そう呼ぶ決まりだけど、王子って名前じゃない。日向の名前は、日向。……ほら、寝る時間だ。」
「しおうは、なまえ?」


おお、粘るな。
こっちを見なくなったのは、何か怖いんだろ。無理すんな。


膝から、日向の体温と震えが伝わる。
知りたい欲求と、無意識の恐怖が、日向の中でないまぜになって戦っているんだろうと、俺たちは推測している。
もっとたくさん教えてあげたいし、そばにいたい。
だが、放っておくと自分の肌に爪を立てたり、呼吸ができなくなったりする。
日向の体はまだ恐怖を克服できていない。焦ってはいけない。

だから絵本を閉じた。

「明日また読んでやるから、今日は寝な。」

ぎゅーっと、日向の小さな手が俺のズボンを掴んで、硬直する。しばらく待ってやると、ゆっくりと手をほどいて布団の中に潜って行った。

「しおうのなまえは、しおう?」

布団の下から粘る可愛い声がする。

「そうだよ、俺の名前は紫鷹。お前の名前は日向。」
「うん」
「おやすみ、日向」
「おやすみ」

小さな布団の山。
気温が下がってきたから、今日は朝まで布団の中で眠れるといいんだが。
隠れ家は少し冷える。


とはいっても、今晩も隠れ家で寝るんだろうな。


確かに変わってきたけれど、変わらないこともある。
日向の安全域は今もそのままだ。
部屋を温めるように指示しておけばいいか。

「おやすみ、日向」

部屋を出る前にもう一度声をかけると、ベッドの上の小さな山から微かな返答が返ってきた。
おやすみ、って。
当たり前に言えるようになったんだな。

ただそれだけのことが嬉しくて、目頭が熱くなった。
良かったなあ、日向。



日向にわかるよう、あえて聞こえる程度の音を立てて、扉を閉める。



「殿下、」

しんと鎮まった廊下の端から、短く声がした。
気配の不明瞭な男が、階下を指している。
余計な口は開かないし、足音一つ立てない男。「草」の者だ。晴海の指示がよく行き届いている。


いいな、お前たちは。
日向に余計な不安を抱かせない配慮がよくできている。
誉めてやろう。


無言で頷いて歩いていくと、階下へ降りる途中で、男が静かに言った。

「賊を捕らえました。おそらく尼嶺(にれ)かと。」
「ああ」

高揚していた気分が、冷えていく。
俺の気分はどうでもいい。
2階が静かで安全であることが大事だ。


尼嶺よ、騒いでくれるなよ。
日向が隠れ家にこもってしまうだろう。


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