第八皇子は人質王子を幸福にしたい

アオウミガメ

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第壱部-Ⅲ:ぼくのきれいな人たち

22.水蛟 健気な王子様

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「しかたない」

ああ、また呟いている。
誰に言うでもない、小さな可愛い声。
とても切ない。すごく切ない。

今日も日向様は、隠れ家でお過ごしになるのかしら。
私たちがお掃除していても、扉の隙間からのぞく様子もない。最近は、布団を頭から被って後ろについてきて、じっと見つめる姿が可愛かったのに。
今日は時々、小さく呟く声が聞こえるだけ。


「しかたない」


すごく、すごく切なくて、聞こえるたびにこちらが悲しくなってしまう。

もう3日も、紫鷹殿下が帰っていらっしゃらない。
紫鷹殿下がいない食卓で、日向様は離宮にきてはじめて涙を流された。
ご本人は自分が泣いていることも分からなくて、なぜ泣いているのかも分からない様子だったと、宇継が話していた。
その日の夕食にも殿下がいないとわかると、「しかたない」と呟いて、ボロボロと涙を流されて、とても切なかった。
翌日の朝食の席では、泣くことはなかったけれど、その後はずっと隠れ家にこもってしまわれた。

夜もあまり眠れていないのではないかしら。
でもお食事は、頑張って食べてくださるのよね。
頑張りすぎて、お昼は吐いてしまった。
夜は食べてくださるかしら。


「日向様、お夕食をお持ちしましたよ」
「うん」


隠れ家の扉に声をかけると、小さくお返事が聞こえた。ああ、元気がなくて悲しい。

扉が開いて、日向様が手を伸ばしてくださるのを待つ。ゆっくりだけれど、いつものように白い小さな手が差し出された。
けれど震えている。
この手を取ってもいいのかしら。

日向様はまだ、「嫌なこと」が「嫌」だと分からない。言えない。
体はこんなに嫌だと叫んでいるのに。


「日向様、お夕食はそちらで召し上がられますか?」
「そちらで、めしあがる?」
「隠れ家で構いませんよ。お持ちしますから」
「みずちはいる?」
「ええ、ここに座って、日向様がお食事されるまで一緒におりますよ。」

うん

隠れ家の暗がりの中で、水色の瞳がゆらゆら揺れた。
本当は、今すぐ抱きしめてさしあげたい。でもいけない。

どうぞ、隠れ処にいてください。
水蛟は、いくらでも傍にいます。
日向様が少しでも安心できるなら、今夜はお泊りだってもかまいませんから。

食事をとりに立ち上がったら、隠れ家の中で小さく呟く声がした。


「しかたない」


仕方ないですもんね。
一生懸命、耐えていらっしゃるんですもんね。
水蛟も一緒に堪えましょう。


日向様の「しかたない」は嫌なこと。
不快も恐怖も寂しさも、嫌なことは全部「しかたない」
ご本人は自覚されていないけれど。

いつからか、無意識に呟かれるようになった「仕方ない」と「きれい」。
はじめはそのままの意味なのだと思った。
でもどうやら違うと、すぐに気づいた。


日向様の「きれい」は好きなこと。
心地いいことや安心すること、いいことは全部「きれい」。


日向様の中には、ちゃんと好きなことと嫌いなことが分かれている。
それを自覚することと伝えることが、まだできないだけ。

今は、寂しい食卓が嫌で、隠れ家を離れがたいのでしょう?
水蛟はわかっております。
いいんですよ、わがままをおっしゃっても。
言えるようにお手伝いしますから、今は、その気持ちに気づけるのをお待ちしております。



「日向様、お夕食をお持ちしましたよ。」

うん

隠れ家の前の小さなテーブルに食事を置く。
今日は日向様の「きれい」なおにぎり。
これなら、隠れ家でも食べやすいでしょう?
料理人が、日向様のために心を込めて握りました。

ゆらゆらと揺れる水色の瞳に微笑むと「きれい」とおっしゃる。
きれいなことがあって、良かったですね。
水蛟も嬉しいです。




「ああ、何だ。日向は今から夕食か。間に合ってよかった。」



部屋の入り口から、無神経な声がした。
3日間聞かなかった、男の声。


ああ、もう!

水色の瞳がボロボロと崩れていくじゃないの。
暗がりの中から小さくうめく声に、思わず手を伸ばしてしまった。

「みぅち、み、み、う、ぅう」
「ええ、ええ、水蛟ですよ。頑張りましたね。偉かったですね」

抱き上げて、背中を撫でた。
日向さまは、撫でられるのは「きれい」だけど、ぽんぽんと叩かれるのは「仕方ない」。
だからやさしく撫でる。
泣いているけど、怖がっているときの震えはない。良かった。

背後でうろたえている男は、無視した。
どうでもいい。


今は、腕の中にしがみつく小さな王子様の3日間の頑張りを、私は精一杯の愛情で褒め称えたいんです。
よく頑張りました。
はじめてのさびしい気持ちと向き合って、よく耐えました。
さびしい食事が辛くて、本当は嫌なのに、それすら分からなくて苦しかったのに、ちゃんとお食事ができました。とても偉いです。

「ひ、ひ、なた、泣いてるのか」

ええ、ええ、泣いておりますとも。
誰のせいかしら。
はじめての涙を見られなくて、残念でございましたね。自業自得です。
さびしいという気持ちに耐える健気な姿は、本当に愛らしかったですよ。もう見られませんけど。
殿下がおられなかったせいですもんね。
ああ、こんな男のために、可愛い日向様が涙を流しておられるのが、とても腹立たしい!


「し、しお、ぉ、ごはん、」


ああ、もう、ほんとうに、甲斐性なし!
何を青くなって立ちすくんでおられるのか。
こんなにも求められているのに。


「殿下、ご飯だそうです。」
「あ、ああ。日向、ご飯だな、食べな」


違う!
おいで、でしょう!
そんなこともわからないのか、このヘタレ!

ああ、ほら。
また水色の瞳がボロボロと崩れていく。


おいこら、そこ!
オロオロするな、馬鹿皇子!


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