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第壱部-Ⅵ:尼嶺の王子
67.紫鷹 初めての客人
「尼嶺(にれ)の日向様に、初めてお目にかかります。羅郷(らごう)の亜白(あじろ)と申します。」
いつもの日向の部屋で、ソファに腰かけ、日向を膝に抱く。
訪れた客人は、入ってきた時こそ、眼鏡の奥で目をぱちぱちとさせたが、特に気にした様子はなく、日向に礼をとった。
日向は震えてはいない。
「あじろ、」
「日向様、亜白様は羅郷の王子ですから、亜白様とお呼びします、」
「あじろ、さま、」
「日向様と同じく帝国の臣ですから、亜白で構いませんよ、」
萩花(はぎな)が言い、亜白が言うと、日向は膝の上で固くなる。
顔を覗き込むと、困った時にするいつもの顔だった。眉を寄せて、黒目が大きくなり白目がなくなる。
「何がわからなかった?」
「あじろ、と、あじろさま、はちがう。すみれこさまは、すみれこって、言わない、」
「でも藤夜は、日向のことを日向様とは呼ばずに、ひなと呼ぶな、」
「とやは、ひな、って呼ぶ決まり、」
「何で?」
「…とやは、ひなが、いい、」
日向が真剣な顔をして言うから、本来の目的を忘れて嫉妬が湧く。
だが、萩花の穏やかでいながら鋭い視線を受けて、すぐに腹が冷えた。
日向相手だと、俺は本当に制御が効かない。つい一昨日その事実を体感して以来、恐ろしいながらも萩花の視線がありがたいとすら感じた。
また、日向に格好悪い姿を見られたくない。
「そう言うことだよ。日向は藤夜にひなと呼ばれたいんだろう?」
「あじろさまは、あじろがいい?」
「日向様が、そう呼んでくださるのであれば、」
「わかった、」
一応は、納得したものの、日向はまだ何かに困っている。
「僕もあいさつ、する?」
「…できるか、」
あいさつはできる、日向はそう言って、俺の膝をするりと降りた。
「羅郷のあじろ様に初めてお目にかかります。尼嶺の日向と申します。」
小さな手を胸の前に重ねて、そのまま礼を取った。
亜白が眼鏡の奥でまたぱちぱちと瞬く。
戸惑うよな。
普段の会話のたどたどしさと、挨拶の流暢さの差が大きくて、俺も驚く。
同時に、日向が人質としてこの帝国に渡るまでの間に、どれだけ厳しく仕込まれたかを思って、苦しかった。
晴海(はるみ)の話では、離宮に来たばかりの日向の体には、真新しい傷があったと言う。おそらく、鞭打たれたものだろうと、怒りを隠さずに言っていた。
「ご挨拶、お受け致しました。どうぞよろしくお願いいたします。日向様、」
亜白が言えば、日向はパッと振り返って俺を見る。
ほめろ、と水色の瞳が言っていた。
たとえ、日向の挨拶が尼嶺の負の記憶だとしても、今の日向が重ねた努力に変わりはない。
「すごいな、日向はちゃんと挨拶ができるな、」
「うん、すごい、」
また膝の上に乗ってきて、俺の腹に背中を預けた日向の頭を撫でてやる。
嬉しそうに水色の瞳を細めて、手のひらにすり寄ってくるのが可愛くて、誇らしかった。
どうだ、俺の日向はすごいだろう。亜白にそう言ってやりたい気分だった。
「…殿下は、いつもこうですか?」
「申し訳ありません、亜白様。慣れていただけると、」
「はあ、」
また眼鏡の向こうで、瞳をぱちぱちとさせる。
「にてる、ね」
「うん?」
「あじろ、と、しおう、にてる、」
眼鏡の陰鬱とした亜白と俺が似ているはずはない。
だけど、わかってしまうのだな、と日向の腹を握る手に力がこもった。
「亜白は母上の妹の息子だ。血のつながりがある。」
「母上はすみれこさま?」
「そう、」
「すみれこさまの、妹はおば。おばの息子は、いとこ?」
「…ああ、そうだよ、」
できることなら気づくな、と期待したが、うまくいかない。
日向は最近、いろんなことを急激に吸収しているもんな。亜白が従兄弟だと、理解したか。
日向にも、従兄弟がいる。
膝の上の温もりが、体の深いところで震えているのを感じた。
「日向、」
「ぎゅうってしたら、いい、」
「無理しなくていいよ。今日は挨拶だけの予定だったから、」
「しおう、ぎゅうって、して、」
言われるまま、日向の背中を覆うように抱きしめた。
「隠れ家に戻るか?」
「んーん、」
日向の手が俺の手を捕まえて握る。ピリッと痛むほどの強さに一瞬驚くが、そのままにさせた。
ゆっくりと、体の奥から感じられた振動が消えていく。
怖い、とわかるようになったのか。
怖いとわかった上で、向き合っているのか。
その小さな体で。
「だいじょぶ、」
「うん、偉いな、」
俺の手をとらえた日向の手が緩んで、俺も日向を抱く腕を解く。代わりに、ゆるく腹を撫でた。
「今日はここまでに致しましょうか。亜白さまは、しばらく離宮に滞在されますから、日向様には、ゆっくり馴染んでいただければと思います。」
「わかった、」
萩花の言葉に日向が頷けば、亜白はまた眼鏡の奥で瞳をぱちぱちとさせる。
帝国に臣従する羅郷乃国に生まれた従兄弟は、母上の要請に応じて帝国へやってきた。
春の式典に羅郷の客人として参列すると言うのが建前だ。
もし日向が尼嶺の王子として式典に出なければならないのなら、その両脇は萩花と亜白で固めさせる。
穏やかに笑う萩花は、一度は捨てた故郷の名を再び名乗ることを、了承した。
面倒なあれこれは、いつの間にか母上が片付けていて、春の式典の名簿には、西佳(さいか)の三男として、萩花の名が乗っていた。
母上が、これも見越して萩花を日向の護衛に迎えたのだと、今更ながら理解した。
俺よりも、萩花や亜白の方が、日向に近い。
俺が皇子であるが故に日向の傍に居られない時にも、2人は居られる。
日向が、亜白を怖がらなくて良かった。
日向の傍に人が増えるのは癪だが、日向が亜白に馴れるのは許容するしかない。
「あじろは、ひなた?」
部屋を去ろうと、再び礼を取った亜白に、日向がつぶやくように言った。
「は?」
「僕は、あじろさま、をあじろ、って言う。じゃあ、あじろも、ひなた?」
「日向、とお呼びしてもよろしいのですか?」
「いいよ、」
「いや、待て、ダメだ、絶対ダメ、」
日向がきょとんと俺を見上げる。亜白も眼鏡の向こうで目を大きくして、首を傾げた。
萩花は、笑っているくせに呆れている。部屋の隅に控えた侍女たちは、憐れむように俺を見た。
「日向って呼ぶのは、俺の決まりだろ。違うか、」
「しおうは、ひなた、」
「じゃあ、亜白はダメだ。」
「何で?」
「何でって、日向は嫌じゃないのか、俺以外がお前のことを、日向って呼ぶんだぞ、」
何でそこで即答してくれないんだ。
「…わかんない、」
何でわからないんだ。
「ひな、って呼ぶんじゃダメか、」
「ひな、はとやの決まり。とやだけ、」
何でだよ。
俺が打ちのめされていると、亜白は「日向様とお呼び致しますね」と申し訳なさそうに言った。
眼鏡の向こうで、従兄弟も俺を憐んでいるように見えて、しんどい。
亜白が去った部屋の中で、日向はいそいそと裏庭にいく準備を始める。
こちらを見向きもしなかった。
「殿下、日向様はお着替えなさいますから、さっさと出てください、」
宇継の口調が刺々しくて、自業自得ながら、泣きたくなった。
「しおう、早く、あおじの、とこいく、から、出て、」
涙が出た。
いつもの日向の部屋で、ソファに腰かけ、日向を膝に抱く。
訪れた客人は、入ってきた時こそ、眼鏡の奥で目をぱちぱちとさせたが、特に気にした様子はなく、日向に礼をとった。
日向は震えてはいない。
「あじろ、」
「日向様、亜白様は羅郷の王子ですから、亜白様とお呼びします、」
「あじろ、さま、」
「日向様と同じく帝国の臣ですから、亜白で構いませんよ、」
萩花(はぎな)が言い、亜白が言うと、日向は膝の上で固くなる。
顔を覗き込むと、困った時にするいつもの顔だった。眉を寄せて、黒目が大きくなり白目がなくなる。
「何がわからなかった?」
「あじろ、と、あじろさま、はちがう。すみれこさまは、すみれこって、言わない、」
「でも藤夜は、日向のことを日向様とは呼ばずに、ひなと呼ぶな、」
「とやは、ひな、って呼ぶ決まり、」
「何で?」
「…とやは、ひなが、いい、」
日向が真剣な顔をして言うから、本来の目的を忘れて嫉妬が湧く。
だが、萩花の穏やかでいながら鋭い視線を受けて、すぐに腹が冷えた。
日向相手だと、俺は本当に制御が効かない。つい一昨日その事実を体感して以来、恐ろしいながらも萩花の視線がありがたいとすら感じた。
また、日向に格好悪い姿を見られたくない。
「そう言うことだよ。日向は藤夜にひなと呼ばれたいんだろう?」
「あじろさまは、あじろがいい?」
「日向様が、そう呼んでくださるのであれば、」
「わかった、」
一応は、納得したものの、日向はまだ何かに困っている。
「僕もあいさつ、する?」
「…できるか、」
あいさつはできる、日向はそう言って、俺の膝をするりと降りた。
「羅郷のあじろ様に初めてお目にかかります。尼嶺の日向と申します。」
小さな手を胸の前に重ねて、そのまま礼を取った。
亜白が眼鏡の奥でまたぱちぱちと瞬く。
戸惑うよな。
普段の会話のたどたどしさと、挨拶の流暢さの差が大きくて、俺も驚く。
同時に、日向が人質としてこの帝国に渡るまでの間に、どれだけ厳しく仕込まれたかを思って、苦しかった。
晴海(はるみ)の話では、離宮に来たばかりの日向の体には、真新しい傷があったと言う。おそらく、鞭打たれたものだろうと、怒りを隠さずに言っていた。
「ご挨拶、お受け致しました。どうぞよろしくお願いいたします。日向様、」
亜白が言えば、日向はパッと振り返って俺を見る。
ほめろ、と水色の瞳が言っていた。
たとえ、日向の挨拶が尼嶺の負の記憶だとしても、今の日向が重ねた努力に変わりはない。
「すごいな、日向はちゃんと挨拶ができるな、」
「うん、すごい、」
また膝の上に乗ってきて、俺の腹に背中を預けた日向の頭を撫でてやる。
嬉しそうに水色の瞳を細めて、手のひらにすり寄ってくるのが可愛くて、誇らしかった。
どうだ、俺の日向はすごいだろう。亜白にそう言ってやりたい気分だった。
「…殿下は、いつもこうですか?」
「申し訳ありません、亜白様。慣れていただけると、」
「はあ、」
また眼鏡の向こうで、瞳をぱちぱちとさせる。
「にてる、ね」
「うん?」
「あじろ、と、しおう、にてる、」
眼鏡の陰鬱とした亜白と俺が似ているはずはない。
だけど、わかってしまうのだな、と日向の腹を握る手に力がこもった。
「亜白は母上の妹の息子だ。血のつながりがある。」
「母上はすみれこさま?」
「そう、」
「すみれこさまの、妹はおば。おばの息子は、いとこ?」
「…ああ、そうだよ、」
できることなら気づくな、と期待したが、うまくいかない。
日向は最近、いろんなことを急激に吸収しているもんな。亜白が従兄弟だと、理解したか。
日向にも、従兄弟がいる。
膝の上の温もりが、体の深いところで震えているのを感じた。
「日向、」
「ぎゅうってしたら、いい、」
「無理しなくていいよ。今日は挨拶だけの予定だったから、」
「しおう、ぎゅうって、して、」
言われるまま、日向の背中を覆うように抱きしめた。
「隠れ家に戻るか?」
「んーん、」
日向の手が俺の手を捕まえて握る。ピリッと痛むほどの強さに一瞬驚くが、そのままにさせた。
ゆっくりと、体の奥から感じられた振動が消えていく。
怖い、とわかるようになったのか。
怖いとわかった上で、向き合っているのか。
その小さな体で。
「だいじょぶ、」
「うん、偉いな、」
俺の手をとらえた日向の手が緩んで、俺も日向を抱く腕を解く。代わりに、ゆるく腹を撫でた。
「今日はここまでに致しましょうか。亜白さまは、しばらく離宮に滞在されますから、日向様には、ゆっくり馴染んでいただければと思います。」
「わかった、」
萩花の言葉に日向が頷けば、亜白はまた眼鏡の奥で瞳をぱちぱちとさせる。
帝国に臣従する羅郷乃国に生まれた従兄弟は、母上の要請に応じて帝国へやってきた。
春の式典に羅郷の客人として参列すると言うのが建前だ。
もし日向が尼嶺の王子として式典に出なければならないのなら、その両脇は萩花と亜白で固めさせる。
穏やかに笑う萩花は、一度は捨てた故郷の名を再び名乗ることを、了承した。
面倒なあれこれは、いつの間にか母上が片付けていて、春の式典の名簿には、西佳(さいか)の三男として、萩花の名が乗っていた。
母上が、これも見越して萩花を日向の護衛に迎えたのだと、今更ながら理解した。
俺よりも、萩花や亜白の方が、日向に近い。
俺が皇子であるが故に日向の傍に居られない時にも、2人は居られる。
日向が、亜白を怖がらなくて良かった。
日向の傍に人が増えるのは癪だが、日向が亜白に馴れるのは許容するしかない。
「あじろは、ひなた?」
部屋を去ろうと、再び礼を取った亜白に、日向がつぶやくように言った。
「は?」
「僕は、あじろさま、をあじろ、って言う。じゃあ、あじろも、ひなた?」
「日向、とお呼びしてもよろしいのですか?」
「いいよ、」
「いや、待て、ダメだ、絶対ダメ、」
日向がきょとんと俺を見上げる。亜白も眼鏡の向こうで目を大きくして、首を傾げた。
萩花は、笑っているくせに呆れている。部屋の隅に控えた侍女たちは、憐れむように俺を見た。
「日向って呼ぶのは、俺の決まりだろ。違うか、」
「しおうは、ひなた、」
「じゃあ、亜白はダメだ。」
「何で?」
「何でって、日向は嫌じゃないのか、俺以外がお前のことを、日向って呼ぶんだぞ、」
何でそこで即答してくれないんだ。
「…わかんない、」
何でわからないんだ。
「ひな、って呼ぶんじゃダメか、」
「ひな、はとやの決まり。とやだけ、」
何でだよ。
俺が打ちのめされていると、亜白は「日向様とお呼び致しますね」と申し訳なさそうに言った。
眼鏡の向こうで、従兄弟も俺を憐んでいるように見えて、しんどい。
亜白が去った部屋の中で、日向はいそいそと裏庭にいく準備を始める。
こちらを見向きもしなかった。
「殿下、日向様はお着替えなさいますから、さっさと出てください、」
宇継の口調が刺々しくて、自業自得ながら、泣きたくなった。
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