花胤の陰陽 〜花鳥風月奇譚・1〜

和泉 凛

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花胤の陰陽 〜花鳥風月奇譚・1〜

ー邂逅ー

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牽蓮ヒレン達と砂漠を旅し始めて三日目。
風嘉フウカ皇都  おうとまであと一日となったところで、鴻夏コウカ牽蓮ヒレンに案内されて不思議な場所にやってきていた。
そこは今までの緑豊かで自由な雰囲気のオアシスとは違い、堅牢  けんろうな石造りの壁で囲われた、まるで要塞のような建物が建つ不思議な空間。
そこの唯一の出入り口となる鉄扉の前に、今ひっそりと誰にも悟られる事がないように、一人の上品そうな老人と嘉魄カハクが待っていた。
そして老人は近付いてくる鴻夏コウカ達に気付くと、丁寧な仕草  しぐさで一礼し歓迎の意  いを示す。
「お久しぶりにございます。嘉魄カハク殿の知らせを受け、ご来訪  らいほうをお待ちしておりました」
ゆったりと長い白髭 しろひげを揺らめかせながら、老人が牽蓮ヒレンに対し声をかける。
それに対し牽蓮ヒレンは素早く馬から降りると、老人に向かって穏やかにこう答えた。
「…久しぶりですね、鶬壽 ソウジュ。会うのは三年ぶりになりますか」
左様  さようにございますね。月日が経つのは早いもので、私がここの墓守  はかもりに就任してもうそんなになりますか。老人にとってはあっという間の年月にございますな」
ほっほっと和  なごやかに笑い声をたてながら、鶬壽 ソウジュと呼ばれた老人が穏やかな目で牽蓮ヒレンを見つめる。
そしてスッと身体を右にずらすと、鴻夏コウカ達に向かって一礼しつつこう告げた。
「あまり時間もない事ですし、挨拶はここまでとして、早速ですがご案内させて頂きましょう。どうぞ私に付いてきて下さいませ」
そう言って、老人は重そうな鉄扉を押し開け、中へと入っていった。

それに続き、牽蓮ヒレンも慣れた様子で馬を引きながら、鉄扉の中へと入っていく。
その姿を見て、慌てて馬から降りてはみたものの、鴻夏コウカは迷ったように石壁に囲われた鉄扉を無言で見つめた。
正直ここが何なのかはよくわからなかったが、そもそも外国人である自分が、このまま牽蓮ヒレンの後について入って行っていいものだろうか?と鴻夏コウカは悩む。
だがそんな鴻夏コウカの心配を余所  よそに、總糜ソウヒはまるで当然のように鴻夏コウカ手招  てまねいた。
「姫さん、早く!」
「は、はい」
戸惑いつつも呼ばれるがままに馬を引いて扉へと近づくと、嘉魄カハク總糜ソウヒが鉄扉の両脇に立ちながら鴻夏コウカの事を待っていた。
とりあえず促  うながされるままに、皆に続いて鉄扉を潜くぐるとそこは白い石造りの立派な建物を中心に、緑豊かな世界が広がっていた。
建物の周りには、一面の花畑と溢れんばかりの水をたたえた噴水と池。
池にはピンクの蓮の花と共に銀の鱗  うろこを輝かせながら魚達が泳ぎまわり、太陽の光を弾はじいて輝く噴水には小さな虹が掛かっている。
そして少しだけ植えられている木の枝には、色とりどりの鳥達が止まり、その可愛い囀  さえずりで鴻夏コウカ達を歓迎してくれていた。

先程 石造りの壁の外から、何となくぼんやりと想像していた感じとはあまりにも違っていて、その落差  らくさ鴻夏コウカは驚いて固まる。
しかしそんな鴻夏コウカの後ろで、ふいにギイィと鉄の軋  きしむ音がして、バタンと出入り口の鉄扉が閉じられた。
振り返ると嘉魄カハクと共に扉を閉めた總糜ソウヒが、鴻夏コウカに向かって手を差し出ながらこう告げる。
「姫さん、馬は中まで入れないからここで預かるよ。手綱  たづなを貸して」
「あ…はい」
言われるがままに總糜ソウヒに馬を預けると、いつの間にか牽蓮ヒレンの乗っていた馬も扉の側に繋がれていた。
そして戸惑う鴻夏コウカに、少し先の石畳の道に立つ牽蓮ヒレンが声をかける。
「姫、早くこちらへ」
「は、はい」
慌てて踵  きびすを返して牽蓮ヒレンの元に向おうとした鴻夏コウカだったが、ふと動いたのが自分だけで嘉魄カハク總糜ソウヒがその場から動かない事に気付く。
振り返ると、總糜ソウヒがその考えを読んだようにこう答えた。
「この先に行くのは、 あるじと姫さんだけだ。俺と嘉魄カハクはここから先へは行けない。だからここで待ってるよ」
「え…、でも…」
「姫、行きますよ」
重ねて牽蓮ヒレンにそう呼ばれ、オロオロと牽蓮ヒレン總糜ソウヒらを交互に見つめる鴻夏コウカに、珍しく無口な嘉魄カハクが穏やかにこう告げる。
「…姫、 あるじがお待ちです。大丈夫、ちゃんとここで總糜ソウヒとお帰りをお待ちしてますよ」

優しく嘉魄カハク總糜ソウヒ促  うながされ、戸惑いつつも牽蓮ヒレンの元に行くと、先程出迎えてくれた老人もその場で鴻夏コウカを待っていた。
そして老人が暖かな眼差しで鴻夏コウカを見つめながら、優しく声をかけてくる。
花胤カイン鴻夏コウカ姫でいらっしゃいますな?」
「は、はい…。あの…すみません、ここがどこかは存じませんが、外国人の私が入っても問題はないのでしょうか…?」
おそるおそるそう尋ねてみると、老人は見た目通りの優しい声でこう答える。
「ほっほっ…構いませんとも。ここは風嘉フウカの歴代の皇帝陛下ならびにその皇后さま達がお眠りになる陵墓  りょうぼにございます。姫は我が風嘉フウカ璉瀏レンリュウ帝の正妃となられる御方  おかた。なんの問題もございません」
「えっ…皇家  おうけの墓⁉︎で、でも私はまだ風嘉フウカ帝とは正式に婚姻  こんいんを結んでおりませんが…」
オロオロとしながらそう答えるが、老人はニコニコと笑うだけで何も答えない。
そして鴻夏コウカの声が聞こえなかったのか、それとも元々聞く気がないのかはわからないが、くるりと踵  きびすを返すと『こちらへ』と言って、勝手に陵墓  りょうぼの案内を再開してしまった。
それに対し、鴻夏コウカは慌てて食い下がろうとしたが、まるでそれを遮  さえぎるかのように、牽蓮ヒレン鴻夏コウカに向かってこう告げる。
「…行きますよ、姫」
「え、でも私…」
「ああ見えて鶬壽 ソウジュは足が速いので、うかうかしているとすぐに見失いますよ」
「あ、でも…その…」
何と言うべきか迷っている間に、スタスタと牽蓮ヒレン鶬壽 ソウジュに付いて霊廟  れいびょうの奥へと姿を消してしまった。

それを見てどうすべきか迷ったが、ここで付いていかないのも良くない気がして、鴻夏コウカは思い切って牽蓮ヒレンの後を追う事にする。
とりあえず彼等が姿を消した霊廟  れいびょうの中にそっと入ると、薄暗い回廊  かいろうの遥か先にほんのりと灯りが見え、それがゆらゆらと更に奥の方へと向かっていた。
慌てて小走りでその後を追うと、暫くしていきなり視界から目印  めじるしの灯りがフッと消える。
見失ったかと思い、急いでその場所に駆けつけてみると、そこは突き当たりになっていて、そこから道が左右に分かれていた。
一体どっちに行ったのかと焦ったが、すぐに右手からほのかな灯りと共に、鶬壽 ソウジュがひょっこりと顔を出す。
鴻夏コウカ姫、こちらですじゃ」
「は、はい」
呼ばれるがままにそちらに向かうへと、一箇所だけ扉が開け放された部屋が見え、中に牽蓮ヒレンが一人で立っていた。
一体どういう仕掛  しかけなのか、廊下はあれほど暗かったというのに、その部屋の中だけは驚くほど明るく、まるで間接照明に包まれているかのように幻想的な空間となっている。
その光景に圧倒され、何も出来ずに立ち尽くしていると、鶬壽 ソウジュがやんわりとこう告げた。
「…どうぞ、中へ」
そう鶬壽 ソウジュに促されるままに中に入ると、パタンという軽い音と共に、扉が閉められる。
そして部屋の中には、無言で上方を見ながら立ち尽くす牽蓮ヒレンとそれを見つめる鴻夏コウカの二人だけとなっていた。
何となく声をかけられず、しばらくは鴻夏コウカも無言で牽蓮ヒレンの背中を見つめていたが、ふいに牽蓮ヒレンが何を見つめているのかが気になり、その視線の先を辿 たどってみる。
するとそこに、鴻夏コウカは見慣れない二人の男女の絵画を発見した。

一人は豪華  ごうかな衣装を身に纏  まとい、冠と錫杖  しゃくじょうを手にした威厳  いげんに満ちた男性で、おそらく歴代皇帝の誰かだろうという事はすぐにわかった。
年の頃は四十代前半といったところだろうか?
牽蓮ヒレンと同じ亜麻色 あまいろの髪に意志の強そうな濃い蒼  あおの瞳が印象的な、なかなかの美男だった。
そしてその隣には明らかに二十代前半としか思えない、若く美しい女性の絵。
おそらくこの皇帝の正妃であろうが、人というには整い過ぎるほど整った容姿で、それ故にどこか儚  はかなげな雰囲気の女性であった。
鴻夏コウカの母も絶世の美女と評  ひょうされる女性だが、この女性の美しさはおそらくそれに引けを取らないだけのものがある。
ただ母の場合は、健康的で力強く生命力に溢  あふれる印象だったが、この女性の美しさはおそらくそれとは真逆で、どちらかというと妖精や人形といった感じの生きているのが不思議なような類  たぐいのものだった。
特に透き通るような金の髪に金彩の入った薄い翠  みどりの瞳、抜けるような白い肌などは、人間というより人形に近く、まるで体温を感じさせない。
そう思って眺めていると、ふいにポツリと牽蓮ヒレンがこう呟いた。

「…美しいご夫妻の絵でしょう…?」
突然話を振られて驚いたが、鴻夏コウカはそのまま素直に感想を述べる。
「そうね…。どなたかは存じ上げないけど、男性は威厳  いげんに満ちた賢  かしこそうな方だし、女性はまるで妖精のように美しくて、国民から見たら見た目は理想的な皇帝夫妻かしらね…?」
そう評  ひょうする鴻夏コウカの声を背中に受けながら、牽蓮ヒレンは絵を見つめたままこう答える。
「…そうですね。確かに理想的な皇帝夫妻でした。途中までは…」
「途中まで…?」
ふとその答えに引っかかりを感じ、鴻夏コウカがそう聞き返すと、牽蓮ヒレンはそれまで微動  びどうだにせず見つめていた絵から目を外し、そっと鴻夏コウカに向き直るとはっきりとこう告げた。
「この絵は纜瀏ランリュウ帝とその正妃である紫翠シスイ妃を描いたものです」
纜瀏ランリュウ帝…ってまさか…」
「はい。先の風嘉フウカ帝であり、この風嘉フウカ未曾有  みぞうの大乱を引き起こした張本人です」
あまりの驚きに声が出なかった。
風嘉フウカ愚帝  ぐてい』『国民の敵』と罵  ののしられ、最終的に部下の全てに見捨てられ、実に呆気  あっけなくその生涯  しょうがいを終えた悲劇  ひげきの皇帝。
そんな彼も当初は慈悲深 じひぶかく、誰にでも公平で誠実な統治を行っていたと聞く。
ところが何がきっかけかはわからないが、ある日を境  さかい後宮  こうきゅうに閉じこもり、一切の政務  せいむ放棄  ほうきしてしまった。
その結果があの未曾有  みぞうの大乱であり、それは国を治める者として、決して許される行為ではないけれど…。

「…確かに国を乱したのは、一国を預かる君主としては許されない行為だけど…。でもこの絵で見る限りは、そんな大層  たいそうな事をしでかすような方には見えないわね…」
鴻夏コウカの口から溢  こぼれたのは、あくまでも肖像画から受けた印象への素直な思いだった。
その予測外の答えを聞いて、牽蓮ヒレンの瞳がほんの少し驚きで見開かれる。
そしてすぐにフッとその表情を和  やわらげると、牽蓮ヒレン鴻夏コウカに対し最上級の礼を取った。
「…ありがとうございます、姫」
「え?」
「確かに纜瀏ランリュウ帝のなさった行為は、決して許されるべき事ではありません。けれどこの方にはこの方なりの苦しみや葛藤  かっとうがあったのだと思います…」
そう呟いた牽蓮ヒレンの表情が、どことなく陰  かげ帯  おびる。
牽蓮ヒレン纜瀏ランリュウ帝に対し、何らかの特別な強い想いを抱  いだいているのは明らかだった。
その事を聞いていいのかどうかと迷っていると、その鴻夏コウカの表情を読んだかのように、牽蓮ヒレンが自ら口を開く。
「…世間的には愚帝  ぐていとして有名となってしまいましたが、元々はとても賢  かしこ慈悲深 じひぶかい方でした。私も彼の慈悲  じひで救われた一人です」
「え…?」
「私は産まれてすぐに、森に捨てられたそうです。そのまま放って置かれたら、私は一日足りともこの世に存在出来ませんでした。それを救って下さったのが、即位  そくい前の纜瀏ランリュウ帝です」

淡々と他人事 ひとごとのように語りながら、牽蓮ヒレンが再び纜瀏ランリュウ帝の肖像画へと目線を上げる。
自信に満ちあふれた壮年  そうねんの皇帝の姿を、今 牽蓮ヒレンはどんな想いで見ているのか…。
その表情からは何も読み取れなかったが、牽蓮ヒレンの告白はそのまま続く。
「…彼は私を育てると共に、様々な教育も受けさせて下さいました。私も一日でも早く彼の役に立つ人間になりたくて、必死で色々な事を覚えました。でも…結果として、それが彼を歪  ゆがめてしまった…」
見た事もない辛  つらそうな表情で、牽蓮ヒレンが目線を肖像画から外す。
何と言っていいのかわからず黙り込む鴻夏コウカに、牽蓮ヒレンはさらに言葉を続けた。
「いつからか…纜瀏ランリュウ帝は私の存在に怯  おびえるようになりました。いつか私が反旗  はんき翻  ひるがえし、自分に襲い掛かるのではないか、自分を尊敬する振りをしながら、その実 心の中で馬鹿にしているのではないかと、ありもしない妄想 もうそうに取り憑つかれたのです…」
「…そんな!貴方はそんな人ではないわ!」
思わずそう叫んだ鴻夏コウカに再び視線を戻すと、牽蓮ヒレンは真っ直ぐに鴻夏コウカを見つめながら苦しそうにこう呟いた。
「…纜瀏ランリュウ帝が狂ったのは、おそらく私が原因です。私は彼に他意  たいがない事を信じて欲しくて離れましたが、彼の方はそうは取らなかった…。彼はいつか私が自分を殺しに来るのだと、そう思ってしまったんです」

そう牽蓮ヒレンが言い終わった時だった。
軽い衝撃  しょうげきと共に、ふわりと目の前に長い黒髪が広がった。
最初何が起こったのかわからなかったが、しばらくしてそれが自分の身体に縋  すが鴻夏コウカだと気づくと、牽蓮ヒレンは彼らしくもなく動揺する。
そして何の言葉も出ずに固まる牽蓮ヒレンに、鴻夏コウカが勢いのままにこう語った。
「…貴方が悪いわけじゃないわ、牽蓮ヒレン!確かに纜瀏ランリュウ帝は常に孤独  こどくで不安だったかもしれない。でもだからといって、何もかもを疑うのは本人が弱いからよ!自分が相手を信じる事が出来ないから、そんな妄想  もうそうに取り憑つかれたの。全て纜纜瀏ランリュウ帝の自己責任よ!」
そしてそこまで言うと、鴻夏コウカ牽蓮ヒレンの両頬を掴み、強引に自分の方へと向かせた。
そして間近 まぢか牽蓮ヒレンを見つめながら、少し怒ったような顔の鴻夏コウカが、その強い意志で美しい金の瞳をキラキラと輝かせる。
そのあまりの輝きに牽蓮ヒレンが目を奪われていると、鴻夏コウカはそのまま強い口調でこう言い放った。
「いいこと、牽蓮ヒレン?確かに纜瀏ランリュウ帝は貴方の命の恩人かもしれない。でも恩人だからって、貴方の人生の全てを縛る権利はないの!貴方はあくまでも貴方自身の為に生きなきゃダメよ。貴方の周りには、貴方を必要としている人が他にもたくさんいるわ!私だってそうよ?だから死人なんかに、貴方を渡す気はこ れっぽっちもないわ。悔しかったら墓から奪いに来てみなさいってとこよ!」

興奮しながら一気にそう捲  まくし立てると、鴻夏コウカは怒りで顔を紅潮  こうちょうさせながら黙り込んだ。
その姿を半ば呆然としながら、牽蓮ヒレンが無言で見つめ返す。
そしてしばらくの間、両者の間には沈黙の時間が流れたが、すぐに衝撃  しょうげきから立ち直った牽蓮ヒレン堪  こらえ切れずに笑い出した。
「ちょ…っ、ちょっと?何がおかしいのよ、牽蓮ヒレン?」
訳がわからないとばかりに鴻夏コウカは怒るが、牽蓮ヒレンからしてみたら、鴻夏コウカの言っている事は勢いだけで、内容は支離滅裂  しりめつれつなのである。
しかも最期の『悔しかったら墓から奪いに来てみなさい』なんてのは、牽蓮ヒレンでは思いつきもしない罵倒  ばとうだった。
正直今までこの件で、色んな人に色んな事を言われてきたが、こんな無茶苦茶な励まし方で説教をされたのは初めての経験であった。
けれどそれが不思議と一番自分の心に響いた事に、牽蓮ヒレンは純粋に驚くと共に、心が軽くなるのを感じていた。
『…まったく想定外もいいところだ…。確かにこれは凛鵜リンウ皇子の言う事も頷ける』
牽蓮ヒレンの頭の中に蘇  よみがえるのは、花胤カインの離宮で言われたあの台詞  セリフ
あの時 自分の姉に惚れるなと釘を刺した凛鵜リンウは、勝ち誇ったようにこう言った。
『…貴方も実際に鴻夏コウカと過ごしてみればわかりますよ。『花胤カイン陰陽いんよう』の陽の姫の名は伊達  だてじゃない』
…確かにその通りだと牽蓮ヒレンは思った。
こんな強烈な輝きの前では、他の者は全て燻  くすんで見えてしまう。
無自覚に周囲を照らし、闇に堕ちそうになる者を救い、そして光の差す方向へと導く。
まさしくその輝きは太陽の如く、周囲の全ての者を惹きつけ、明るい希望をもたらす。
今まさに復興中の風嘉フウカにとって、この姫の放つ輝きは、いつか必要不可欠なものとなるかもしれないと牽蓮ヒレンはその時思った。



そして時間にして一時間ほど滞在した牽蓮ヒレン達は、そのまま早々に陵墓  りょうぼを後にした。
結局あの後は、普段通りに戻った牽蓮ヒレンと普通に纜瀏ランリュウ帝夫妻の墓参りを済ませ、總糜ソウヒ嘉魄カハクも含めて早めの昼休憩を取ったくらいで、特にこれといった事件はなかった。 
ただ鴻夏コウカが気になったのは、どうして牽蓮ヒレンがわざわざ自分を連れて、纜瀏ランリュウ帝夫妻の墓参りに来たのかという点である。
鶬壽 ソウジュはずっと廊下に待機していたものの、最後まで纜瀏ランリュウ帝の霊廟  れいびょうには入って来なかった。
つまり墓守  はかもりである鶬壽 ソウジュですら、立ち入りを遠慮する場所に、自分達は当然のように通されたという事になる。
そして自分が霊廟  れいびょうに入る事については、『皇后になる者だから構わない』と鶬壽 ソウジュは言っていたが、そうなると自分と同じように霊廟  れいびょうに通された牽蓮ヒレンは一体何者なのだろう?
今までただの高官の一人だと思っていたが、もしかしたら牽蓮ヒレン風嘉フウカ皇族  おうぞくの一人なのかもしれない。
それなら影である嘉魄カハク總糜ソウヒが、牽蓮ヒレンの事を あるじと呼び、彼を護っている事も納得出来る。
しかし月鷲ゲッシュウほどではないものの、確か風嘉フウカも先の大乱の際に大半の皇族  おうぞく惨殺  ざんさつされたはずであった。
鴻夏コウカも知っている生き残りの皇族  おうぞくと言えば、先帝の遺児  いじである泰瀏タイリュウ皇太子、先帝の異母妹  いぼまいであり神殿の巫女  みこを務める太華皇妹 タイカおうまい、そして先帝の異母弟  いぼていであり、現皇帝である璉瀏レンリュウ帝ぐらいである。
自分が知らないだけで、実は他にも生き残りはたくさん居るのかもしれないが、皇位  こういを継げるような血筋はほぼ絶えたと聞いていた。
そんな中、纜瀏ランリュウ帝の霊廟  れいびょうにまで入り込める牽蓮ヒレンとは一体何者なのか?
纜瀏ランリュウ帝が牽蓮ヒレンの育ての親だという事はわかったが、おそらくそれだけの関係ではない事は鴻夏コウカにも容易に想像が出来た。
そしてそれが今も牽蓮ヒレンを縛り、彼を苦しめているのだという事も…。
知れば知るほど謎が深まる牽蓮ヒレンだが、湧き上がる疑問に答えてくれる者は居なかった。
だがその答えも、風嘉フウカ皇城  おうじょうに着けば少しはわかるはずだろう。

そんな中、牽蓮ヒレン皇都  おうとの方角を見ながら、鴻夏コウカに向かって説明をする。
「…あと半日足らずで風嘉フウカの皇都です。思ったよりも時間がかかってしまいましたが、おそらく夜までには辿り着けるでしょう」
淡々とそう語りながら、牽蓮ヒレンはゆっくりと總糜ソウヒの方を振り返る。
そしてウズウズと落ち着きなくなっている總糜ソウヒに向かい、おそらく今 彼が一番待ち望んでいるであろう指示を下した。
「…總糜ソウヒ。申し訳ありませんが、先行して私達が今日中に皇都に着く事を知らせて頂けませんか?」
「待ってましたぁ!では失礼して、先に行ってお待ちしております。じゃあまた後でな、姫さん!」
ウキウキとした口調でそう言うと、總糜ソウヒはすぐさま馬を飛ばし、あっという間にその場から居なくなってしまった。
あまりの素早さに唖然  あぜんとしていると、苦笑しながら牽蓮ヒレンが説明してくれる。
「姫、總糜ソウヒは早く本来の主人 あるじに会いたいんですよ。彼は皇城  おうじょうに来た時から、黎鵞レイガ殿に夢中ですからね」
「…宰相様って、男性よね?なんか總糜ソウヒの様子を見てると、主人 あるじというより恋人に会いに行くような感じなんだけど…」
何気なく言った言葉だったが、意外と真実を突いていたらしい。
あっさりと頷きながら、牽蓮ヒレンはこう言った。
「まぁそれに近い感じです。黎鵞レイガ殿は確かに男性ですが、黙っていればちょっと怖いぐらいの美形ですよ。總糜ソウヒの面食いは、黎鵞レイガ殿を見て育ったのが一番の原因ですね」
ごく自然に語られる風嘉フウカ皇城裏事情 おうじょううらじじょうに、鴻夏コウカは声も出ず黙り込む。
そしてこの世の中、一体どれだけ男色  だんしょく蔓延  はびこっているんだと真剣に思ったのだった。



夕陽が完全に沈む少し前、皇都の閉門ギリギリに鴻夏コウカ達は何とか滑り込みで風嘉フウカの皇都 『白瑤  ハクヨウ』まで到着した。
とりあえず皇都まで辿り着いたとはいえ、ここから更に街の中心部にある皇城まで行かねばならず、本当の到着まではあと一息かかる見込みである。
しかし身体は慣れない旅でかなり疲れていたものの、それを忘れるほど鴻夏コウカの目を奪うのは、活気  かっき溢  あふれる風嘉フウカの街並だった。
白い石畳  いしだたみ白壁  しらかべの家。
街のあちこちには水路が張り巡らされ、その上を黒塗りの小船が行き交っている。
そして広場には美しい噴水が水の弧を描き、それを取り囲むように色鮮やかな露店  ろてんの天幕が所狭  ところせましと立ち並ぶ。
すでに日暮れだというのに、市場にはまだ沢山の人々と物が溢れ、夜はまだまだこれからといった雰囲気であった。
鴻夏コウカの生まれ育った花胤カインの皇都『黒穣  コクジョウ』も、活気  かっき溢れる大きな街ではあるが、国の違いからか、こちらの方が数倍も明るさと自由に溢れているように見える。
三年前の大乱で国内のほとんどが焦土  しょうどと化し、すべてが壊滅的な打撃を受けたと聞いていたのに、今はそれが嘘のように美しく活気溢れる街並が広がっていた。
あまりの勢いに圧倒され、思わず呆然と立ち尽くしていると、それを見た牽蓮ヒレンがクスクスと笑いながら声をかけてくる。

「どうしました、姫?姫の故郷の『黒穣  コクジョウ』の街もこのくらいの規模はあるでしょう?」
「え、ええ…。でも何ていうか…こちらの方が勢いがあるというか、自由に満ち溢れているというか…。とにかくすごい迫力だわ」
素直にそう感想を述べると、牽蓮ヒレンは少し驚いたもののすぐに笑顔になった。
「それは…ありがとうございます。他国の方から見てそう思えるのなら、復興に力を入れてきた甲斐  かいがあったというものです」
「本当に大乱があったなんて嘘のよう…。なんて皆幸せそうなの…」
ポツリとそう呟くと、牽蓮ヒレンは穏やかに街行く人々を眺めながらこう呟いた。
「…そこに住む者を見れば、その国の君主の度量  どりょうがわかると申します。良い君主に恵まれれば、国は栄え民は潤います。しかし悪  あしき君主が立てば、街は一瞬で廃  すたれ、国は焦土  しょうどと化すのです…。風嘉フウカは三年前、実際にそれを経験しました。もうあのような悲劇  ひげきは二度と繰り返してはならないのです」
淡々とした口調ではあったが、あまりにも重い言葉でもあった。
夜風に亜麻色 あまいろの髪を靡  なびかせ、遠い目で幸せそうに笑う人々を見つめる牽蓮ヒレンに、静かな固い決意が見て取れる。
おそらくあの大乱を乗り越えた者だからこそ言える言葉なのだろうと鴻夏コウカは思った。

その時フッと牽蓮ヒレンが、鴻夏コウカに視線を戻す。
普段と違い、あまりにも真剣で真摯  しんしな瞳に思わずドキリとすると、牽蓮ヒレンは確かめるように鴻夏コウカにこう尋ねた。
「姫…。風嘉フウカの皇后になるという事は、ここに居るすべての民の幸せを護る責任を負うという事です。逆にそれが出来ない者に、人の上に立つ資格はございません。姫にその覚悟はお有りですか?」
一瞬で心臓を鷲掴  わしづかみにされるような言葉だった。
おそらく牽蓮ヒレンが言いたいのは、上に立つ者とはその下に立つ者達を護るためだけに存在しているという事。
身分とはそのためだけにあり、その責務を果たす覚悟を持たない者は、そもそも人の上に立つ資格すらないのだという事を言いたいのだと思った。
そしてその言葉を受けて、鴻夏コウカは改めてじっくりと考えてみる。
正直自分は父の命  めいに従うためだけに、風嘉フウカまでやってきた。
そしてどうやってこの結婚を回避  かいひしようかと、そればかりを考えてきた。
でもこの旅で牽蓮ヒレン達と親しく過ごすうちに、自分の中に一つの強い感情が芽生えていた。
『彼等ともっと一緒に居たい』
『彼等と共に苦楽  くらくを分かち合いたい』
『彼等の暮らすこの国を護りたい』
『許される事ならば…私はこの国で彼等と共に歩んでいきたい!』


目を閉じて、自らの考えに耽  ふけっていた鴻夏コウカが、スッとその目を開けた。
そして強い決意を秘めた金の瞳で、真っ直ぐに牽蓮ヒレンを見つめる。
まるで黄金の焔  ほのおのように、その瞳を揺らめかせながら鴻夏コウカはきっぱりとこう言い放った。
「…正直、私にどこまでの事が出来るのかはわかりません。また私には結婚前に風嘉フウカ帝にお伝えしなければならない事もございます。もしかしたらその事で、この縁談自体 えんだんじたいが取り止めになるやもしれません。でももし…もしそれでも風嘉フウカ帝が私との結婚を望んでいただけるのなら、私はこの国の為に一生を捧げようと思います」
そう鴻夏コウカが言い切った時、ふいにその場に強い突風が通り抜け、二人の外套  がいとうを大きくはためかせた。
そして予想外の衝撃に思わず目を閉じて耐えた鴻夏コウカは、気づかなかった。
風に掻き消されてしまった牽蓮ヒレンの呟きを。
彼は誰にも聞こえないほどの声で、静かにこう呟いたのだ。『合格ですね…』と。
そして風が通り抜けた後、牽蓮ヒレンはいつも通り何事もなかったかのようにこう呟いた。
「…風が強くなってまいりましたね。それにそろそろ皇城の方へ向かわないと、私達の到着を待ち侘びている頃だと思います」
ニッコリといつもの掴み所のない笑顔を見せながら、牽蓮ヒレンが皇城の方へと視線を向ける。
この時 彼は誰にも何も言わなかったが、密かに一つの決意を固めていた。
そしてその決意と共に、穏やかに鴻夏コウカに向かってこう促す。
「それでは参りましょうか。…皇城へ」
赤い夕陽に照らされながら、聳  そびえ立つ風嘉フウカの皇城『白瑤城 ハクヨウじょう』。
旅の終着点はもはやすぐそこまで来ていた。




太陽が完全にその姿を隠し、夜の帳  とばりがゆっくりと広がり始めた頃、ようやく鴻夏コウカ達は風嘉フウカの皇城前まで辿り着いていた。
牽蓮ヒレンに促がされるままに、なんとなくここまで来てしまったが、そういえば自分は花嫁一行から勝手に抜け出してきた逃走者だったと今更ながらに思い出す。
そしてどうやって、花嫁としてまた一行の中に戻ればいいのかと鴻夏コウカは悩んだが、その考えを読んだかのように牽蓮ヒレンがこう言った。
「…大丈夫ですよ、姫。花嫁一行の方は、姫の影武者  かげむしゃを立ててそのまま予定通り、こちらに着いております。そのため姫の不在は誰にも知られておりません」
「え、そうなの?で…でもどうやってまた入れ替わるの?それにもう着いてるって事は、風嘉フウカ帝への挨拶がもう済んじゃってるって事じゃ…?つ、つまりもう私が逃走してた事が、風嘉フウカ帝にもバレてるって事で…」
サーッと青ざめながら鴻夏コウカが焦り始めると、それをさえぎるように牽蓮ヒレンがこう言った。
「…その点も大丈夫ですよ。ちょうど風嘉フウカ帝の方も不在でしたので、まだ正式に風嘉フウカ帝と姫との対面は終わっておりません」
「そ…そうなんだ?」
何でそんな事まで知っているのだろう?とは思ったが、とりあえずまだバレてないと聞いて鴻夏コウカは一安心した。
しかしこれからどうやって、また鴻夏コウカ姫に戻ればいいのか、その方法すらわからない。
そう思っていたら、牽蓮ヒレンは皇城の正門へは向かわず、裏手  うらての方へと馬を進め始めた。

「ど、どこへ行くの?」
「正面から入ると、正体に気づかれて大騒ぎになるので、裏門からこっそり入れて貰うんですよ。その為に總糜ソウヒに先行して皇城に行ってもらったんです」
「あ…そうなのね…」
すでにその点まで手配済みだったのかと感心していると、ザザッという物音と共にふいに上から總糜ソウヒが飛び降りてきた。
そして驚きのあまり声も出ない鴻夏コウカを無視して、突然現れた總糜ソウヒは開口一番、いきなり牽蓮ヒレンに対して文句垂れる。
「遅いっすよ、 あるじ~!もう黎鵞レイガ須嬰 シュエイ様がイライラしながら待ってるっすよ!」
「…ああ、すみませんね。思ったより街中を抜けるのに手間取 てまどりました。このまますぐに入れますかね?」
慣れているのか、牽蓮ヒレンはまったく驚きもせずに總糜ソウヒに対してそう尋ねる。
そして總糜ソウヒの方も、まるで何事もなかったかのようにあっさりとこう答えた。
「んー、その点は問題ないんすけどぉ…。この後どうするんすか?姫さんも連れていきなりのご対面?」
「そうだね。まずは先に顔合わせぐらいはしとこうかな?」
少し悪戯  いたずらっぽい口調でそう答える牽蓮ヒレンに、總糜ソウヒもニヤリと楽しげな笑顔を見せる。

「了解っす!じゃあ俺はその事を先に黎鵞レイガ達に伝えてきますわ。じゃあ姫さん、また後でな!」
そう答えるや否や、またもや總糜ソウヒはあっという間に城壁  じょうへきの上に飛び乗り、そのまま中へと姿を消した。
それを見送ると、今度は嘉魄カハクもこう告げる。
 あるじ…。それでは私もそろそろ失礼させていただきます」
「ああ…ご苦労でしたね、嘉魄カハク。貴方も先にゆっくり休んでいてください」
「はい。では姫、これにて失礼致します」
「あ…はい」
よくわからないままそう答えた鴻夏コウカに少し微笑むと、嘉魄カハクもまたあっという間に城壁  じょうへきの上へと飛び乗り、そのまま中へと姿を消した。
その姿を呆然と眺めていると、牽蓮ヒレン鴻夏コウカに対しこう説明をする。
「…總糜ソウヒ嘉魄カハクも『影  かげ』なので、本来はあまり人前に姿を現さないのですよ。だから門番にお願いして、門から正式に入るのは姫と私だけです。彼等は自分達で勝手に皇城内に戻ってますよ」
なるほどと思いながら、鴻夏コウカはとりあえず牽蓮ヒレンに付いてそのまま裏門へと馬を進める。
そして裏門に辿り着いた鴻夏コウカ達は、すでに連絡がいっていたのか、数人の門番達に出迎えられ、すんなりと中へと通された。
そして裏門からとはいえ、初めて入る他国の皇城にキョロキョロと物珍しげに視線を彷徨  さまよわせていると、その様子を見た牽蓮ヒレンがクスリと笑いながらこう告げる。
「…姫。城内を見学されたいのなら、明日以降、明るい昼間になさった方がいいですよ。そんなに焦らなくても、これからいつでも見る時間はありますから」
「あ、はい。そうします…」
牽蓮ヒレンにやんわりと止められ、大人しくそう返事した鴻夏コウカはまったく気付いていなかった。
もしこのまま破談  はだんとなった場合、風嘉フウカの城内を見学する機会など永遠にないというのに、牽蓮ヒレンは『これからいつでも時間がある』と言ったのだ。
何故彼にそんな事がわかるのか?
その答えを鴻夏コウカは思いもかけない形で、知る事になるのである。



重厚  じゅうこうな扉を通り抜け、鴻夏コウカ達はすぐさま謁見  えっけん間  まへと通された。
そこには玉座  ぎょくざに座った風嘉フウカ帝 璉瀏レンリュウ、そしてその側近である宰相 崋 黎鵞カ レイガと将軍 伯 須嬰ハク シュエイが両脇を固め、鴻夏コウカ達の到着を待ち構えていた。
玉座  ぎょくざの前には薄絹  うすぎぬが下されていたため、風嘉フウカ帝の顔はよくわからなかったが、稀代  きだいの戦上手と名高い武帝を前にして、鴻夏コウカはかなり緊張していた。
『この方が璉瀏レンリュウ帝…』
遥か遠くに聳  そびえ立つ玉座  ぎょくざに座る男をチラリと見据えながら、鴻夏コウカは自身の心臓の音が全身に響き渡るのを感じていた。
そしてそんな状態でも、ひたすら平静さを装い、謁見  えっけん間  まへと足を踏み入れる。
まさかこんな身なりのまま、着いてすぐに風嘉フウカ帝本人とご対面になるとは思わなかった。
正直あまりにも急展開すぎて、何の覚悟も準備も出来ていない。
そして移動途中での逃走の件もあり、どう説明したものかと焦りながら跪 ひざまず鴻夏コウカを尻目に、牽蓮ヒレン臆  おくする事なく歩  ほを進めると、優雅  ゆうが仕草  しぐさ跪 ひざまず朗々  ろうろうとした声で口上  こうじょうを述べた。
「…与えられた任  にんを終え、湟 牽蓮コウ ヒレン、ただ今帰還 きにん致しました」
そう牽蓮ヒレンが宣言すると、壇上  だんじょう風嘉フウカ帝が無言でスッと立ち上がる。
そして一体何を言われるのかとビクビクする鴻夏コウカの前で、風嘉フウカ帝はふいにワナワナとその身体を震わせ始めると突然こう叫んだのだ。
「れ…レン~っ!遅いですよぉぉぉ!」
「え?」
あまりにも予想外の風嘉フウカ帝の第一声に、思わず鴻夏コウカ自身も素の驚きの声が出る。
そしていきなり玉座  ぎょくざから半べそをかいた一人の男が駆け出して来ると、その勢いのままに鴻夏コウカの隣に控える男に飛びついたのだ。

「も~っ、勘弁  かんべんしてくださいよぉ!明日が結婚式だってのに、貴方全然帰って来ないから、このままじゃ貴方の代理で僕は暁鴉ギョウアと結婚式までやらなきゃならないとこだったんですからね~っ⁉︎」
「…ああ、ごめん、ごめん。ちょっと色々と手違いがあってね。思ったより着くのが遅くなってしまったんですよね」
あははと呑気に笑いながら、牽蓮ヒレンが抱きついてきた風嘉フウカ帝に対し、のんびりとそう答える。
それを呆然として見据えながら、鴻夏コウカは頭の中が真っ白になっていた。
『…ちょっと待って?え、この人が風嘉フウカ帝?え、でもなんか会話がおかしい…。代理で結婚式とかなんとかって…?』
そう思ったところで、いきなりスパーンと小気味  こきみよい音がして、風嘉フウカ帝と思  おぼしき人物が勢いよく吹っ飛んだ。
そしてその後ろから、怖ろしいほど整った顔の氷細工  こおりざいくのような美貌  びぼう主  ぬしが現れる。
透き通るような白い肌、光輝くように流れる銀の髪、そして思わず目を奪われるほど澄んだ薄い紫の瞳。
実際に生きて動いているのが信じられないほどの美貌  びぼう主  ぬしは、その見かけに似合わず苛烈  かれつな性格だったようで、自分の主人であるはずの風嘉フウカ帝を勢いよく扇子  せんすで殴りつけた後、すぐにフンっとそっぽを向きながら、手にしていた扇子  せんす優雅  ゆうがに広げた。
それに対し殴られた風嘉フウカ帝の方はというと、痛む後頭部を自ら抑えつつ、ひどく情けない声でこう訴える。
「ちょっ…黎鵞レイガ様ぁ?なんで俺が殴られるんすかぁ⁉︎」
もはや風嘉フウカ帝というには、かなり怪しすぎる人物が、本気で泣きべそをかきながら、その美人に訴える。
すると美人は、ジロリとその男を見下ろしながら、容赦なくこう言い放った。

「…お黙りなさい、みっともない。仮にも陛下の影武者  かげむしゃなら、もう少しそのヘタレを何とかしなさい」
「無茶な事言わないで下さいよぉ!僕だって好きで影武者  かげむしゃなんかやってないっすよぉ!」
ベソベソと泣き言を唱える男を見て、さすがに鴻夏コウカもこれは風嘉フウカ帝じゃないな…と思う。
会話の内容から考えても、どうやらこの男は風嘉フウカ帝の影武者  かげむしゃのようだった。
となると、本物の風嘉フウカ帝は…?
そう思ったところで、突然スッとその氷細工  こおりざいくのような美人が跪き、隣の牽蓮ヒレンに対して最上級の礼を取る。
そして実に恭  うやうやしく、丁寧にこう述べたのだ。
「お帰りをお待ちしておりました、レン。ご無事で何よりです」
「…留守居役 るすいやくご苦労様でしたね、黎鵞レイガ。私が留守の間、こっちは何事もありませんでしたか?」
「はい。泰瀏タイリュウ様も健  すこやかにお待ちです」
静かにそういった会話が交わされ、遅れてハク将軍も牽蓮ヒレンに対して跪きこう語る。
「ご無事で何よりです、レン。こちらも表面上は何事もなく、風嘉フウカまで辿り着けました」
「ああ…花嫁一行の護衛ご苦労様でしたね、須嬰 シュエイ暁鴉ギョウアはちゃんと姫の影武者  かげむしゃ役を務 つとめてくれましたか?」
そう牽蓮ヒレンが尋ねると、ハク将軍が無言でスッと後方へと目をやる。

すると柱の影からユラリと薄絹  うすぎぬで顔を隠し、鴻夏コウカの着物を身に纏 まとった女が現れ、スッとその場で跪いた。
それに対し、牽蓮ヒレン労  ねぎらいの声を掛ける。
「…今回はご苦労様でしたね、暁鴉ギョウア。姫の身代わり役は大変だったでしょう」
そう言われた女は、無言で被 かぶっていた薄絹  うすぎぬを引き毟  むしると、ニヤリと不敵な笑いを浮かべながらこう告げた。
「まぁ、あたしは深窓  しんそうの姫君なんてガラじゃないんですけどね…。でもバレちゃあいないと思いますよ」
そう言って暁鴉ギョウアと呼ばれた女は、鴻夏コウカに向かってニッコリと微笑んだ。
そして何となくボンヤリとその様子を見ていた鴻夏コウカは、この人が自分の身代わりを務めてくれていたのかと、改めて相手を見返す。
すると暁鴉ギョウアはすぐに牽蓮ヒレンの方に視線を戻すと、その横に控える偽 風嘉フウカ帝を指差しながら不満たっぷりにこう言ったのだ。
「それより あるじ。ホントに勘弁してくださいよ?いくら姫の身代わり役でも、あたしはあんな奴と嘘でも結婚式を挙げるなんて嫌ですからね!同じ偽者でももう少しマシな奴にしてもらわないと、割に合わないですよ」
「ちょっ、ちょっと暁鴉ギョウア⁉︎いくらなんでもそれは酷くないっ⁉︎」
途端に反応した偽 風嘉フウカ帝に、またまた周囲の容赦のない一言が飛ぶ。

まずは黙っていれば氷細工  こおりざいくのように美しい黎鵞レイガと呼ばれた人物が、その顔に似合わず痛烈  つうれつな言葉を吐く。
「ああ…それはわかります。もし私が暁鴉ギョウアの役だったら、同じ事を言いますね」
そしてそれを受けて、珍しくハク将軍までもがボソリとこう呟いていた。
「まぁ…確かに。いくら偽の結婚式とはいえ、嫌いな相手とするのはなぁ…。例え仕事とわかっていても苦痛だな…」
うんうんと全員が納得したかのように、その場で頷き合う。
その姿を見ながら、可哀想なほど動揺した偽 風嘉フウカ帝の男が思わずこう叫んだ。
「ちょ…ちょっと皆さん?いくら冗談でも言って良い事と悪い事がありますよ⁉︎」
「いや?冗談じゃなく事実だし」
異口同音  いくどうおんで三人にそう答えられて、さすがに男が絶句する。
それを見兼ねて、ついに牽蓮ヒレンが口を挟んだ。
「皆、もうそのくらいにしてあげて下さい。さすがに牽蓮ヒレンが可哀想です」
「え…、牽蓮ヒレン?この人も牽蓮ヒレンっていうの?」
思わずキョトンとしながら鴻夏コウカがそう呟くと、ピタリと周囲の動きが止まった。
そしてずっと彼こそが『湟 牽蓮コウ ヒレン』だと鴻夏コウカが信じてきた男が、ゆっくりと鴻夏コウカに向き直り苦笑交じりにこう告げる。
「すみません、姫。訳あってずっと名を偽っておりました…。実は本物の『湟 牽蓮コウ ヒレン』はここに居る彼です」
そう言って彼が指差したのは、偽の風嘉フウカ帝の方であった。

「え…?この人が本物の湟 牽蓮コウ ヒレン?それじゃ…貴方は…一体…?」
驚きのあまり平凡すぎる返しをしながら、鴻夏コウカはただただ呆然とする。
確かにずっとただの高官ではないような気はしていた。
そして、もしかしたら風嘉フウカ皇族  おうぞくの一人かもしれないとも思っていた。
でもそうかもしれないとは思っていても、実際に偽者ですと本人に告げられると、思った以上の衝撃で頭がまるで付いていかない。
ところがそんな鴻夏コウカに対し、先ほどまで湟 牽蓮コウ ヒレンと名乗っていた男は、鴻夏コウカの目の前に跪くと、いつものようにニッコリと笑いながら呑気にこう告げたのだ。
「…改めて名乗らせて下さい、姫。私の本当の名は緫 璉瀏ソウ レンリュウと申します。一応この風嘉フウカの皇帝で、貴女の結婚相手になります」
一瞬で頭がさらに真っ白になった。
今、彼は何と言った…?
確か本当の名前は緫 璉瀏ソウ レンリュウで?
一応 風嘉フウカの皇帝で?
私の結婚…、結婚相手…っ⁉︎
「え…ええぇぇ~っ⁉︎あ、貴方が璉瀏レンリュウ帝っ⁉︎」
「はい、一応」
「『戦場の鬼神』とか『風嘉フウカの英雄』とか言われてる⁉︎」
「…ああ、何かそういうご大層な噂が流れてるみたいですけど、嫌なんですよねぇ…それ。単に噂が広まる間に誇張されただけで、私自身は特に大した事はしてないんですよ」
かなりどうでも良さそうにそう告げる彼に、部下達から否定の言葉が飛ぶ。

レン!貴方またいい加減な事を言って…。全て本当の事でしょうがっ!」
そう言ってハク将軍が本気で怒ると、すぐさま宰相 黎鵞レイガも淡々とこう答える。
「そうですよ。そもそも貴方でなければ、我々もお仕えしておりません。そうなると風嘉フウカの解放、復興は間違いなくもっと遅れておりました」
風嘉フウカの武と智の頂点に立つ二人にあっさりとそう言われ、牽蓮ヒレン改め璉瀏レンリュウ帝は首を捻  ひねる。
「…確かに君達を含め、私はたくさんの優秀な部下に恵まれたと思っていますが、それはあくまでも君達の功績であって、私自身の実績ではありませんよ。私は君達に担ぎ上げられただけで、特に何もしていません」
そう言うと璉瀏レンリュウ帝は再び鴻夏コウカの方に向き直り、悪戯っぽく微笑みながらこう告げる。
「それはともかく、姫もまずは旅の埃  ほこりを落として着替えたいですよね?夕食までまだ時間があります。まずはお着替えになってきてください。話はまたその後に、夕食でも頂きながら致しましょう」
そう告げると、すくっと立ち上がった璉瀏レンリュウ帝はてきぱきと周囲に指示を出し、鴻夏コウカは呆然している間に気がついたら謁見  えっけん間  まを退出させられていた。
そしてあれよあれよという間に、鴻夏コウカの世話を任された暁鴉ギョウア風嘉フウカ後宮 こうきゅうへと連れて来られ、湯殿  ゆどのへと放り込まれたのである。

そして一体どういう指示だったのか…。
普通なら沢山の侍女  じじょが手伝いに現れ、焦って世話を断らなければならないところだったが、何故か侍女  じじょは一人も現れず、鴻夏コウカは誰も居ない湯殿  ゆどのに一人取り残されていた。
しかもここへ案内してくれた暁鴉ギョウアさえも『湯から上がった頃に迎えに来ます』と言って、そのままどこかへと姿を消す。
「…一体、どういう事…?」
呆然としながら、さすがに出来過ぎだと鴻夏コウカは思う。
まるで鴻夏コウカの事情を全て分かっているかのような対応に、やはり璉瀏レンリュウ帝に全てを悟られているような気がしてならなかった。
そして渡された着替えを見つめながら、しばし考え込んでいた鴻夏コウカは、ふいに気持ちを切り替え悩む事を放棄する。
多分今の自分の状態では、どれだけ考えようと、あまり脳が働いているとは思えない。
それなら無駄に考えるのは止めて、今の自分が出来る事からしよう。
それにすでにバレてしまっているのなら、今更ジタバタしてもしょうがない。
「…それに考え事は、お風呂に入りながらでも出来るしね…。まずはお言葉に甘えて、湯に浸つからせてもらおう」
そう誰に言うでもなく呟くと、鴻夏コウカは旅の埃と汗を落とすため、自らの服を脱ぎ始めたのであった。
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