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未来
新たな一歩
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春の風が街に柔らかく吹き込み、桜の花びらが舞い落ちる。
大学を卒業してから初めて迎える4月。
それは、陸にとってもハルにとっても新しい生活の始まりだった。
畳の匂いが広がる道場の一角。
「せんせー!見て見て!うさぎ跳びできたー!」
「あ!ぼくの方が速いもん!」
小学生の子どもたちが競うように飛び跳ね、道場の床に小さな足音が響き渡る。
「はいはい、ぶつかるな。
あー…前を見ろ、足を揃えて……」
陸は額に汗を浮かべながらも、子どもたちの間を行き来して姿勢を直す。
突きを教えようとすれば「きゃはは!」と笑いながら横を向かれ、受け身を見せようとすれば勝手に転がって大騒ぎになる。
「……こら、勝手に寝転がるな!」
眉を寄せて叱る声も、どこか不器用で優しい。
見守る保護者たちの間では、すでに「イケメン先生」として評判になっていた。
「先生、ほんと頼りになりますねぇ」
「子どもが“また行きたい!”って毎日言ってるんです」
「インカレで優勝経験があるって話よ?
イケメンで強くて優しいなんて…うちの旦那とは大違い!」
子どもの面倒を見ているはずなのに、気づけば生徒の親に囲まれて軽く会釈する羽目になる。
(……正直、まだ全然慣れんな…
でも、やるしかない。生活基盤を整えて、ハルと一緒に住めるのはいつだろうか…)
拳を握りしめながら、そんなことを考えていた。
――
一方その頃。
スタジオでの撮影を終えたハルは、衣装のまま控え室で鏡に向かい息を整えていた。
カメラのフラッシュを浴びるときは、まだ《モデルのハル》でいられる。
だが夜は週に2度、別の顔に切り替わるのだ。
ハルは控え室を出て、変装用のウィッグと黒縁メガネを鞄から取り出す。
身に付けて鏡を見れば、華やかなモデルの姿はすっかり影を潜め、どこにでもいる学生の顔になる。
「よし……」
――数十分後。
調理専門学校の教室。
白衣に着替え、髪を帽子にまとめたハルは、包丁を握って立っていた。
ハルはモデルの仕事の合間に週2回、夜間専門学校へ通い始めた。
目の前のまな板には玉ねぎ。
「はい、繊維に沿って、同じ厚さで切ってくださいねー」
講師の声に合わせて、包丁を落とす。
トン、トン、トン
モデルのときはライトに照らされる自分が「作品」だった。
けれど今は、刃の先の細かい作業にすべての意識が集中していく。
「っ…」
目にしみる涙をぬぐいながらも、切り終えた玉ねぎを見て小さく満足する。
形はまだ揃っていないけれど、初めてよりはずっとましだ。
「……あ、揃ってきたじゃん」
隣に立っていたクラスメイトが小声で笑いかけてくる。
ハルは驚いて顔を上げた。
「ありがと。……最初はひどかったものね」
「最初から十分上出来だったじゃん?
こっちは未だにひどいよ、ほら!」
何気ないやりとりが、少し心を軽くした。
消費され尽くしたモデルではなく、ひとりの人間として学び、コミュニケーションを取ることがこんなに楽しいなんて。
きっと陸と出会わなければ知らないままだっただろう。
座学の時間は座学で、ノートに熱心に書き込んだ。
「食品衛生学」「調理理論」その他沢山の科目がある。
どれも暗記だけではなく、理解して頭に落とし込まなければ意味がない。
(ステージやカメラの前で輝くのも、私の一部。
でも、こうして汗をかいて手を動かすのも……確かに“私”なのよね)
学校がない日はオンライン授業を受け、休日やオフの日には台所で教科書片手に包丁を握る。
1年半のカリキュラムは決して楽じゃない。
しかし、新しい知識を吸収するのは不思議と楽しかった。
(でも……まだ蓮たちには言えないわね、)
アキもユキも蓮も、大切な仲間だ。
でも「モデル」として出会った仲間だからこそ、自分が次の道を歩こうとしていることを話すのはまだ怖かった。
裏切りではないのはわかっているが、心のどこかでそんな風に思ってしまう自分がいる。
(努力がちゃんと実ったとき……そのときは胸を張って言いたいものね、)
――
ある日のハルの部屋。
夜遅く、ハルはノートを広げ調理理論のまとめをノートに書き込んでいた。
さらさらとノートを走るペンの音が部屋に響く。
そこへシャワーを終えた陸が顔を覗かせた。
「……まだやってたのか」
「ふふ、当然でしょ。見て、ほら」
ハルはページをめくって、書き込んだポイントや試験対策のまとめを見せる。
要点は赤ペンで、暗記項目はオレンジのペンで、あとから赤い下敷きで隠せるように配慮されていた。
陸はじっと覗き込み、素直に頷く。
「偉いな、俺には呪文のようにしか見えんが…」
「ふふ……私、絶対に卒業して資格、取るんだから」
ペンを置いたハルが笑う。
その横顔を見ながら陸は黙って水を差し出した。
(ハルも俺と過ごす未来を考えてくれているのが嬉しい…)
無言の気遣いに、ハルの胸が少し熱を帯びた。
(……陸にだけは言えてよかった。だから、私は頑張れるのよね)
「ねぇ、教室。今日はどうだったの?」
ハルはふと問いかけた。
陸はタオルで髪を拭きながら、少し考えて口を開く。
「……正直、大変だな。
ゆめがいるから子供の扱いに慣れてると思ってたが……教室の子たちは十人十色だ。
泣いて動かない子もいれば、走り回って全然話を聞かない子もいる」
苦笑混じりの声。けれど目はいつもの通り真剣だった。
「ゆめの相手だったら、“お兄ちゃん”で済んだけど……“先生”ってなると、全然違う。
もっと俺がしっかりしないと、って思う」
「……ふふ。子供に囲まれる陸、ね」
ハルは静かに笑い、ノートの端を指でなぞった。
きっと彼も、ここから学んでいくのだろう。
夜は静かで、時計の針の音すら響く。
ふたりは肩を並べ、同じ灯りの下で別々のことに向き合いながら、同じ未来を想っていた。
大学を卒業してから初めて迎える4月。
それは、陸にとってもハルにとっても新しい生活の始まりだった。
畳の匂いが広がる道場の一角。
「せんせー!見て見て!うさぎ跳びできたー!」
「あ!ぼくの方が速いもん!」
小学生の子どもたちが競うように飛び跳ね、道場の床に小さな足音が響き渡る。
「はいはい、ぶつかるな。
あー…前を見ろ、足を揃えて……」
陸は額に汗を浮かべながらも、子どもたちの間を行き来して姿勢を直す。
突きを教えようとすれば「きゃはは!」と笑いながら横を向かれ、受け身を見せようとすれば勝手に転がって大騒ぎになる。
「……こら、勝手に寝転がるな!」
眉を寄せて叱る声も、どこか不器用で優しい。
見守る保護者たちの間では、すでに「イケメン先生」として評判になっていた。
「先生、ほんと頼りになりますねぇ」
「子どもが“また行きたい!”って毎日言ってるんです」
「インカレで優勝経験があるって話よ?
イケメンで強くて優しいなんて…うちの旦那とは大違い!」
子どもの面倒を見ているはずなのに、気づけば生徒の親に囲まれて軽く会釈する羽目になる。
(……正直、まだ全然慣れんな…
でも、やるしかない。生活基盤を整えて、ハルと一緒に住めるのはいつだろうか…)
拳を握りしめながら、そんなことを考えていた。
――
一方その頃。
スタジオでの撮影を終えたハルは、衣装のまま控え室で鏡に向かい息を整えていた。
カメラのフラッシュを浴びるときは、まだ《モデルのハル》でいられる。
だが夜は週に2度、別の顔に切り替わるのだ。
ハルは控え室を出て、変装用のウィッグと黒縁メガネを鞄から取り出す。
身に付けて鏡を見れば、華やかなモデルの姿はすっかり影を潜め、どこにでもいる学生の顔になる。
「よし……」
――数十分後。
調理専門学校の教室。
白衣に着替え、髪を帽子にまとめたハルは、包丁を握って立っていた。
ハルはモデルの仕事の合間に週2回、夜間専門学校へ通い始めた。
目の前のまな板には玉ねぎ。
「はい、繊維に沿って、同じ厚さで切ってくださいねー」
講師の声に合わせて、包丁を落とす。
トン、トン、トン
モデルのときはライトに照らされる自分が「作品」だった。
けれど今は、刃の先の細かい作業にすべての意識が集中していく。
「っ…」
目にしみる涙をぬぐいながらも、切り終えた玉ねぎを見て小さく満足する。
形はまだ揃っていないけれど、初めてよりはずっとましだ。
「……あ、揃ってきたじゃん」
隣に立っていたクラスメイトが小声で笑いかけてくる。
ハルは驚いて顔を上げた。
「ありがと。……最初はひどかったものね」
「最初から十分上出来だったじゃん?
こっちは未だにひどいよ、ほら!」
何気ないやりとりが、少し心を軽くした。
消費され尽くしたモデルではなく、ひとりの人間として学び、コミュニケーションを取ることがこんなに楽しいなんて。
きっと陸と出会わなければ知らないままだっただろう。
座学の時間は座学で、ノートに熱心に書き込んだ。
「食品衛生学」「調理理論」その他沢山の科目がある。
どれも暗記だけではなく、理解して頭に落とし込まなければ意味がない。
(ステージやカメラの前で輝くのも、私の一部。
でも、こうして汗をかいて手を動かすのも……確かに“私”なのよね)
学校がない日はオンライン授業を受け、休日やオフの日には台所で教科書片手に包丁を握る。
1年半のカリキュラムは決して楽じゃない。
しかし、新しい知識を吸収するのは不思議と楽しかった。
(でも……まだ蓮たちには言えないわね、)
アキもユキも蓮も、大切な仲間だ。
でも「モデル」として出会った仲間だからこそ、自分が次の道を歩こうとしていることを話すのはまだ怖かった。
裏切りではないのはわかっているが、心のどこかでそんな風に思ってしまう自分がいる。
(努力がちゃんと実ったとき……そのときは胸を張って言いたいものね、)
――
ある日のハルの部屋。
夜遅く、ハルはノートを広げ調理理論のまとめをノートに書き込んでいた。
さらさらとノートを走るペンの音が部屋に響く。
そこへシャワーを終えた陸が顔を覗かせた。
「……まだやってたのか」
「ふふ、当然でしょ。見て、ほら」
ハルはページをめくって、書き込んだポイントや試験対策のまとめを見せる。
要点は赤ペンで、暗記項目はオレンジのペンで、あとから赤い下敷きで隠せるように配慮されていた。
陸はじっと覗き込み、素直に頷く。
「偉いな、俺には呪文のようにしか見えんが…」
「ふふ……私、絶対に卒業して資格、取るんだから」
ペンを置いたハルが笑う。
その横顔を見ながら陸は黙って水を差し出した。
(ハルも俺と過ごす未来を考えてくれているのが嬉しい…)
無言の気遣いに、ハルの胸が少し熱を帯びた。
(……陸にだけは言えてよかった。だから、私は頑張れるのよね)
「ねぇ、教室。今日はどうだったの?」
ハルはふと問いかけた。
陸はタオルで髪を拭きながら、少し考えて口を開く。
「……正直、大変だな。
ゆめがいるから子供の扱いに慣れてると思ってたが……教室の子たちは十人十色だ。
泣いて動かない子もいれば、走り回って全然話を聞かない子もいる」
苦笑混じりの声。けれど目はいつもの通り真剣だった。
「ゆめの相手だったら、“お兄ちゃん”で済んだけど……“先生”ってなると、全然違う。
もっと俺がしっかりしないと、って思う」
「……ふふ。子供に囲まれる陸、ね」
ハルは静かに笑い、ノートの端を指でなぞった。
きっと彼も、ここから学んでいくのだろう。
夜は静かで、時計の針の音すら響く。
ふたりは肩を並べ、同じ灯りの下で別々のことに向き合いながら、同じ未来を想っていた。
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